78.








ジオは、ゆっくりと瞼を上げる。
目の前の樹の幹に伸ばしていた手を、そっと引いた。
ざわっと少し揺れた葉が、落ち着くのを待って一歩足を引いた。


「様子は。」


視線は樹に止めたまま、少し離れた場所に控えていた近衛騎士に声をかける。
「砦、会場、アジャート陣営に異常はありません。引き続き、警戒中です。」
離れた位置に立ったままで、騎士隊長ゼノ=ディハイトが報告する。
「領主館の近くで不審な連中を拘束しました。和平締結への抗議を起こそうとしていたとのことでしたが、どうやら金で雇われただけのようです。雇い主すら知らず、何か収穫が得られるような者たちではなさそうです。」
引いた手を腰に置いて、ジオは樹を見上げる。
「純粋な主張ではなく、何者からかの警告。あるいは、不和か混乱を生じさせる目的だったのではないかと考えます。」
「それに連動する騒ぎは。」
「ありません。」
砦と近い領主館や街中で騒動があれば、ラグルゼの警備隊が動かざるを得ない。
それは、砦自体の警備が一時でも手薄になることを意味する。
その隙に、本来の目的を果たそうと動く者がいても不思議ではない。
(今回は、引いたか。)
「アーカヴィ殿の見立てでは、機があれば付け入られるだろうが、強硬策に出て来る可能性は低い、と。」
ゼノの言葉に、ジオは口角を少し上げた。
「……火が付く前に消せ。」
「御意。」
がさっと草を踏む音が、その場に鳴る。
「誰だ!」
機敏に腰の剣に手を掛けた近衛騎士が、姿勢を低くする。
「ご、ごめんなさい。お話の邪魔をするつもりはなかったんだけど。」
聞き覚えのある声に、ようやくジオは樹から視線を横に移した。
立ち木の暗がりから、そろそろと姿を見せたのは、少女だった。
「ディア様。」
正体を捉えて、ゼノが警戒姿勢を解く。
ゼノのいる場所とは、90度違う方向からやって来たセリナは、両手を上げた状態でそのままジオのいる方へと近づいて足を止めた。
妙なポーズは、どうやら無害を主張するためらしい。
ちらりと確認する視線を近衛騎士から向けられたジオは、無言で頷いた。
セリナの護衛で付いて来ていたラヴァリエの騎士は、立ち木の側で硬直していた。
ゼノが手で制して、その場に留まるよう騎士に指示すれば、動揺した顔のままそれでもしっかりと頷いて見せた。
「なぜ、ここに?」
腕を組んで、居心地悪そうに立っているセリナに声をかける。
あ、と口が動いて、セリナはまた少しジオの近くによる。
「えと、雨。」
上を指さしながら、告げられる単語。
「は?」
「違った、空。」
「……。」
不審さに眉間に力が入る。と、慌てたようにセリナが手を振った。
「あの、雨が降りそうだなって思ってたんだけど、見たら雲が切れて星が見えてて。」
言われて、初めてジオは空に目を向けた。
日が落ちて暗くなった空には、雲が広がっているが、セリナの言葉通りその隙間から輝く星が見えていた。
「それで外を眺めてたら、明るくなっている一角があって、何かあったのかと思って様子を見に来たの。さっきまできらきら光っていて、この木だったと思うのだけど。別に普通ね、見間違いだったのかな。」
一生懸命に説明を続ける相手の語る内容に、ジオは大体の事情を把握する。
「あれ。そういえば、この周辺の木にはまだ葉が残っているのね、種類が違う?」
途中で己の言葉に首を傾げ出すセリナを横目に、ジオはゼノに軽く手を振る。
意図を汲んで近衛隊長は、ラヴァリエの隊員とともに、姿が見えない場所まで下がっていった。
「この樹は、レイ=ポイントの1つだ。」
「ラグルゼの砦にもあったんだ。」
「魔法壁の状態を確認していた。セリナが光を見たというなら、そのせいだろう。」
「そっか、つい誘われるように見に来ちゃったの。きらきらしていて、とてもキレイだったから。」
窺うような目を見せてから、セリナはしゅんと肩を落とした。
「邪魔したなら、ごめん。」
ジオは、目の前の相手の姿に瞳を眇めた。
(本人の魔力は、感じない。)
魔法を行使することもできない。
けれど、僅かな魔法の痕跡を労なく認識できるらしい。
レイ=ポイントの周囲には、守護のために結解が張ってある。
王宮騎士たちには越えられない、その中に、なんの抵抗もなく入り込んでいることを、本人は今気づいていないだろう。
(ナクシリア、だったか。)
先程セリナに付いていたのは、ポセイライナに同行した騎士の1人だったから、既にその事実を知っているため、幸い口留めする手間は生じない。
「……謝る必要はない。」
小さく息を吐いて、ジオはもう一度上を見上げた。
(見えた光が綺麗だった、というなら"大丈夫"なのだろう。)
横でセリナが顔を上げる気配がする。
「星が出ていると、セリナに言われてはじめて気づいた。」
「え? あ、雨にならないといいなって思ってたから。」
わたわたと落ち着きのない動きを見せる少女。
「礼を言う。」
意外だったのか、信じられない物でも見るみたいな顔をしたセリナは目を丸くして、動きを止めた。
『空が開いていた』。
変わりなく冷静さを保っているつもりだったが、言われるまでそれに気づいてなかった。
お礼なんて、そんな。ともごもご何か言っているセリナに、ジオは声をかける。
「エリティス隊長を借りているが、不便はないか。」
問うた言葉に、セリナは素直に反応した。
「ラヴァリエの騎士たちがいるので平気です。」
「そうか。」
回答に頷く。なら問題ないと、足を踏み出しかけるが、返事が続いた。
「明日は、側にいるって言ってたし。それまでは、忙しくて離れていることが多いって最初から聞いていたので。……他の任務、任されてるんですよね?」
状況に納得していることは伺えたが、見返したその表情には不安が宿っていた。
(あぁ。誰も、伝えるはずがないか。)
ジオはセリナに向かい合うように、体を動かす。
「隊長に、セリナの護衛を任していることに変わりはない。ただ、今は警戒すべき事柄も多いからな。」
「警戒。」
思案気に言葉を繰り返したセリナを、ジオは見おろす。
「いろいろな思惑を持った者がいるということだ。」
ジオの言葉に、黒曜石のような瞳が向けられる。
「エリティス隊長が、あの若さで隊長になった理由を知っているか。」
「……休戦後、ジオの方針だったんでしょう? 若手を用いることが。」
セリナの答えに、ジオは少し笑いが浮かんだ。
「そうだ。」
肯定して、ジオは顔を上げた。
「理由はいくつかあるが、ずいぶんと多く席が空いたからな。……王宮騎士団は特に。」
こちらをじっと見つめている相手に、向き直りジオは口を開く。
「まぁ、リュート=エリティスは、穴埋めではなく、功績に対する昇進だが。」
それでも、それまでなら突然隊長に抜擢されるようなことは、さすがになかっただろう。
「説明すると長くなるから、かいつまんで言うと。」
「え、そこ省略しちゃうの。」
不満そうな台詞を吐くセリナに、ジオはふむと首を傾げた。
「政治的な面白くない事情が絡むから、説明が面倒だ。」
「……。」
面倒って言った、と小さくこぼして口を押えたセリナを横目に、先を続ける。
セリナにも聞かせておくべきかと、考えて始めた話だが、外で立ったまま長話をするつもりはない。
「5年前に休戦を締結したわけだが、それに反対する者もいてな。邪魔するために襲撃が計画されていたのだが、それを未然に防いだのが隊長だ。その功で、空いていたラヴァリエ隊長に就いた。今回も、その勘を活かしてもらうべく周囲の警戒に借りている。」
歩き出したジオの隣で、セリナも足を進める。
「そんな話、私に言って大丈夫なの?」
「ラヴァリエ隊長リュート=エリティスの武勇として、新人騎士ですら知っているくらい有名な話のはずだぞ。」
「え、みんな知ってるの?」
「みんな、と言われると答えに困るが。エリティスが隊長に就いた経緯は、別に隠すようなものでもないからな。」
セリナが、歩きながら両手で頬を挟んだ仕草を見せる。
「はー、それで隊長に抜擢。若手をって、やっぱりそれだけじゃなかったのね。」
頬に手を当てたまま、セリナがジオを見上げて来る。
「今回の和平も、反対している人が?」
「まあな。」
表情を暗くしたセリナを一瞥してから、ジオは前を向く。
「気を抜くな、とは言っておくが。心配しなくていい。」
妨害したいと考える者はいるだろうが、大それた行動に出る度胸まではない輩だ。
この地だけでなく、要所において監視の目が光っているし、先ほどの命を果たせない騎士たちでもない。
隣で小首を傾げる仕草を見せたが、二歩進むうちには少女は頷いた。
黒い髪が揺れて、風が吹いて再びさらりと流れた。




―――前回とは違う。




そうクルセイトに告げた。あれは、紛れもない本心だ。




ルディアスに遠征していた6年前。
ジオは、自分に仕えていた近衛騎士たちを失った。
王太子の近衛騎士に付いていた者で、今もメビウスロザードの騎士として残っているのは、あの時同行していなかった2人だけだ。
破壊された防壁から侵攻して来た敵軍。それから逃れられたのは、いち早く救援にやって来たエリオスのおかげだった。
畏れず決断を迫ったエリオスに、期待を込めて伸ばした手は、しかし掴み返されることはなかった。
判断力も、武力も足りない。
失うばかりで、何も残らない。
守りたいものも、救いたいものも、手から零れ落ちるばかりだった。


自分には『力』がない。




***




王都へ戻って、襲撃を受けた街を前に。必ず、かつての姿以上に良い街にすると誓った。
人数の足りない近衛騎士を補うために、王宮騎士隊員が護衛に加わっていた。
選抜された優秀な彼らは、確かにジオ自身の身を守ったが、失った近衛騎士の代わりにはなれなかった。
それは、彼らだけの責任でないことはわかっている。
信頼関係を築く時間もなかったが、『王子』しか見ていない騎士に苛立っていたせいでもある。


被害を受けた場所へ兵士たちを派遣し、ジオは国王不在の王都の守りを固めていた。
アジャート軍は王軍が追い返したが、残党やスパイが残っていたからだ。
「グリフ、南西地区の様子はどうだ。」
「サンノゼ神殿付近の被害が酷く、周辺の民家も壊滅状態です。倒壊の恐れがある建物もまだ残っています。瓦礫の撤去は、3割ほどかと。」
「レイ=ポイントの修復を急ぐ。今日作業を行うはずだったな、現場を確認する。」
「承知いたしました、殿下。」
メビウスロザード所属のグリフ=メイヤードは、残った王太子付き騎士の1人だ。
他の騎士隊員も護衛に付き、街に出る。
人々の顔には、疲れの色が見え、全体の雰囲気としても沈んでいる。
被害の大きい地区に近づくほど、それは強くなり、さらに剣呑な雰囲気が増す。
レイ=ポイントの石柱に到着すると、既に、魔法使いが作業していた。
王都を囲む魔法壁を支えるポイントの状態を確認し、いくつかやり取りを交わす。
その間に、路地の方でケンカが始まったようで騒がしくなった。
昨日は南地区で、兵士が絡まれる騒ぎがあったが、今日は個人同士の諍いらしい。
仲裁に兵士と騎士をやり、ジオは暗い雲の立ち込めた空を仰いだ。
「殿下は、馬車にお戻りを。」
「いや、このままサンノゼ神殿を見に行く。」
作業を終えた魔法使いと、ケンカを仲裁した騎士たちも合流しながら、ジオは歩いて街の様子を眺めた。
先遣で様子を見て来た騎士が戻って来て、ジオの前に膝をついた。
「この先は道も悪く、またごろつきのような者が集まっている場所を通ることになります。天気も悪く、警護も万全ではありませんので、視察は後日にされた方が……。」
騎士の報告を受けても、ジオは歩みを止めなかった。
目もくれず通り過ぎた態度に、聞こえてないのかと誤解が生まれる。
「殿下っ。」
何人かの兵士が声を出したが、グリフがそれを止めた。
近衛騎士隊員であるグリフの制止に他の騎士たちは、口を閉ざしそれに従う。
警備体制が脆弱であることはグリフも認めるところだが、視察を望む王子の行動を止める理由にはならない。
彼らがすべきなのは、速やかに警備体制を整えることなのだから。
到着したその場所は、既に騒ぎが起きていた。
「また、ケンカか?」
兵士の1人が呟いた後、大声が響いた。
「逃げろ! 崩れる!!」
大きな音とともに、道の先の壊れた建物がさらに壊れて、砂煙を巻き上げた。
「ジオラルド殿下!」
外套を広げたグリフがジオの前に出て、その煙から庇う。
崩落音と悲鳴が収まると、人がせき込む音に変わった。
「人が! 中に閉じ込められた!」
「誰か助けてくれ!」
叫び声に一行は現場に駆け付ける。
「どういう状況だ!」
グリフが側にいた男を捕まえ、強く問う。
あわあわしながらも、男は建物を指さした。
「瓦礫の撤去作業をしてたんです。けど、また崩れて、中にいた奴がっ。」
元々悪い足元に、転がる瓦礫。
見ている間にも、建物の端が崩れ落ち、近づけない。
「っ!」
崩れた瓦礫の間に、人の手が出ているのを見つけ、ジオは考えるより先にそちらへ走った。
途中で、外套の留め具を外す。
(邪魔だ。)
放り捨て、座り込み、その手を掴む。
握り返された。
視線を走らせる。
赤毛の頭が見えたが、うつ伏せのため顔はわからない。埋まっているのは下半身。どこか怪我をしたのか、その服が血で赤く染まっている。
目の前の瓦礫を両手で掴む。
「ジオラルド様! 危険です。」
「お下がりください!」
後を追って来た騎士たちが、制止の声を上げる。
(わかっている。)
周りは見えている。
今いる場所の上にも、不安定な梁が残っていて、いつ崩れてもおかしくない。
だが、それが落ちるより前に、目の前の者をここから出せはいいだけのこと。
「救出は我々が! 殿下は避難を!」
「ならば、早く手を動かせ!」
騎士の手を振り払って、ジオは目の前の瓦礫をどける。
その腕を、強い力が掴んだ。
ぎっと振り向いて、睨みつけた背後に、立っていたのはグリフだった。
「ジオラルド殿下は、お下がりください。民の救出は我々の仕事。」
「グリフ、その手を離…ッ。」
腕を引くが、近衛騎士は微動だにせず、見たこともない鋭い眼差しをジオに向けていた。
ぐいっと力任せに腕を引かれ、ほぼ強制的にジオは立ち上がる。
「殿下がすべきなのは、それを命じることです。」
「っ」。
正しい。
彼の言葉は、間違っていない。
判断力が足りない。
守りたいのに。救いたいのに。この手から、いつも零れ落ちる。




ルディアスを抜け出る際に。
「フィルゼノンの王子の首を取れ!!」
狙われたジオラルドを逃がすために、道を作った近衛騎士たちは。
「先に行ってください!」
「すぐに追いつきます。」
満身創痍で、けれど不敵にも笑って見せた騎士たちは。
ジオが幼少の頃から側にいた、信頼の厚いメビウスロザードだった。
どんな状況でも、無茶な要求や八つ当たりをしていた時期でさえ、見捨てず向き合おうとしてくれた相手。
馬の向きを変えるルドロフの、ルディアスの炎を受けてさらに輝いた、赤い髪も。
怪我を負い、隊服を赤い色で濡らしながらも、その強さが衰えることがなかったスリンガーの背も脳裏に焼き付いている。




「殿下!」
「ジオラルド様はあちらに!」
「―――っ!」
ジオは、掴まれた腕を振りほどく。
兵士から掛けられる声ごと振り払うように、その腕を広げ、騎士たちに瞳を向ける。


「口を動かす暇があるなら、埋まった者を助けるために動け!」


突き刺さるような声に、騎士らの動きが一瞬止まる。
背後の騎士をそこに置いたまま、ジオは瓦礫に手を伸ばす。
その時、再び建物の一部が崩れた。
「っ。」
パラパラと降って来る物が、ジオに当たることはなかった。
グリフが、それらを防いだからだ。
構えた格好の兵士の1人が、口を開く。
「で、殿下、どうか避難を!」
「民のために働くことが我々の責務にないのなら、なんのために存在するんだ! 今、目の前の民の命を見捨てるような者にこの先忠誠を誓えるのか!?」
「殿下! しかし、再度崩れたら……!」
「手を離しここを去れと!?」
ジオは、振り返り兵士たちを見据えた。
自分のみ優先するような、そんな愚者にきさまらの命を預けるな!!
それは、叫び。
騎士も兵士も、その場にいた民たちも、誰も一言も発することができなかった。
「動ける者は、手を貸せ!!」
命令とも懇願とも違う。
鋭い声は、それでも固まっていた人間を動かすには十分だった。
振り出した雨粒が彼らの腕に、肩に、顔にポツリと当たって。
「瓦礫をどけろ!」
「中のヤツを引っ張り出すんだ! 急げ!」
弾かれたように、その場にいた者たちが瓦礫に手をかけた。
(わかっている。)
今、目の前に埋まっている者を助けたからといって、ルドロフやスリンガーを救えるわけじゃない。
「ぐっ。」
大きな瓦礫を持ち上げようとしていたジオの、横合いから手が伸びた。
相手はグリフだった。
「おい、そこの兵士、手を貸せ! 上げている間に彼を引っ張り出すんだ!」
グリフが肩を入れ、ぐぅっと瓦礫を押す。
近衛騎士に呼ばれた兵士が、埋もれていた男を外に出す。
「すぐに治療を。」
事故を聞きつけて、周りに人が集まっていた。
その中には医者もいるようだった。
雨が降り出した中、彼らは次の人を助けるため瓦礫に手を伸ばした。
次にジオが顔を上げた時、最初よりずっと多くの人間が救出作業を行っていて。
そこには、先刻、ごろつきと呼ばれていたはずの者の姿もあった。


「作業していた者は、全員救出されました。重傷者もいますが、意識はあるとのことです。あの後、雨のせいで地盤が緩んだのか、建物は全壊。周辺の避難は終えていましたので、それによる人的被害は出ていません。」


ずぶ濡れになり、城に戻った後で、グリフの報告を聞きながら、ジオは、そうかと呟いた。
その後は、少し大変だった。
雨に降られただけでなく、泥だらけで擦り傷を負ったジオを見た侍女イシュラナが悲鳴を上げ。近衛が付いていながらなんという体たらく! と怒り狂い。
グリフはグリフで、ジオの行動について報告を上げたため、宰相から説教を受ける羽目になる。
「この件は、陛下がお戻りになったら、お伝えさせていただきます。」
説教はジオにあまり響かなかったのだが、侍従長のこの言葉は少し効いた。


けれど、それは思っていた形で実現することはなかった。
王城に戻って来たアジュライト陛下の容体は、決して良くはなかったから。


フィルゼノン国王陛下崩御。


そこからは、目まぐるしく進む事態に、ただ対処することだけで必死だった。
先王の指示通り、魔法防壁が創られた。
再度侵攻して来るアジャートを阻む、国境線を守る強固な防壁を。
一度壊れた防壁は使えず、ディケンズ家の力は借りられない。
十分な準備期間を取れないまま、『仮』ではない広範囲を守備する防壁を張るためにはかなりの無理を要した。
精霊の協力を求めるのに尽力したのは、やがて大神殿の巫女姫となる少女ミリア。
レイ=ポイントの確保に奔走したのは、のちに魔法省特別顧問と首席補佐官を担うことになるアーカヴィ家の嫡男・クルセイト。
ジオの守護精霊の純粋で膨大な魔力を糧に、それは成された。


即位して、アジャートが自国の事情を抱えて思うように侵攻ができない状態になったところで、休戦を提案する。
アジャートが提案を拒否する可能性も、もちろんあった。
けれど、あくまで交戦を望むなら、フィルゼノンが攻撃型でアジャートに挑むことは明白だったし、アジャートは、侵攻を進める中でフィルゼノンとマルクスが手を組むことを、警戒していた。
張り直された防壁を越える方法も、見つかってはいなかっただろう。
結果として、相手はそれをのんだ。


けれど、新王が先王の仇討よりも、休戦を選んだことを、受け入れがたい者たちがいた。


「我が国が受けた甚大な被害の、責任を取らせるべきだ」「アジャートの蛮行を許してはいけない」「なんという弱腰」「このままあの国を放置するというのですか」
今が好機と、軍部は高らかに声を上げる。
「かの王の首を取らねば、事は収まらない」「あの防壁があれば、我が国は盤石、今こそアジャートを滅ぼす時」「そのように弱気な態度でいかがします!」「アジュライト国王陛下の無念を」
臣下を信頼していないのかと嘆きが聞こえる。
「陛下に身を捧げる覚悟です」「我々の力をどうか信じてください!」「フィリシア王妃が命を落とされたのは、そもそもアジャートが原因だ」「このままでは、フィルゼノンが侮られますぞ」「新王の力を示すべきです」
民を守れと、王の責務を果たせと重責がのしかかる。
「民の憤りの声が聞こえませんか」「人々は、強い国を求めています」「この国を守ろうとする騎士や兵士たちが信用できないと仰せか!」「お考え直しを!」「唯一無二の、高貴なる陛下の魔法の力を! この国のために」


―――「「「ジオラルド陛下! どうかご英断を!」」」








「翻意はない。休戦を結ぶは、決定事項だ。」
告げた言葉に、広がる落胆の色。
ただでさえ若いのに、これでは頼りにならない。こんな調子で、国を治めていけるのかと。
防壁を構築しアジャートを撤退させた時に称賛していた彼らは、手の平を返したようにジオの判断に失望を見せた。
彼らを説得し、納得させるだけの完璧な言葉を、ジオは持たなかった。
先王が討たれて、仇をとろうとして上がる士気を無視する決定だ。
土地と民を蹂躙された悲しみや恨み、憤りを収めるには記憶が新しすぎる。
世間的には、アジャートに侵攻すべきという意見は決して少数ではなかった。
そして。
先王の遺志を継いで、戦を望まないと決めたジオ自身。
憎しみを広げてはならないと、その言葉を心に刻んだはずの自身でさえ。


アジャート王を目の前にして、剣を抜かずにいられる確信は持てなかったのだから。










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