77.








イサラが部屋に出入りした際に、扉の前に立っている護衛が、いつの間にかラスティとハウル=ネーゲルに代わっていることに気づく。
ハウルという青年も、何度か護衛に立っている顔馴染みの騎士だ。
昼間は見かけなかった2人の姿に声をかけると、和平交渉を行う場所の下見に行っていたのだと教えてくれた。
「リュートは?」
問えば、ハウルから会議自体は終わっているので、もう少しすればこちらに来ると思いますと答えがあった。
部屋に戻ったセリナは、明日の衣装として用意された白いドレスを横目に、立ち上がって窓に手を置く。
陽が落ちて、外は暗くなって来ていたが、雨は降っていないようだった。




ジルドに対応を任せればいいのだろう、と最初は思っていたのだ。
口を出して騒ぎになってはいけないと。
けれど、見えた相手に気づいて、セリナは苦い思いが浮かんだ。
相手を知っていたからだ。
正確には、1度見たことあるだけの、名前も知らない相手なのだが。それでも、セリナはあの侯爵の顔を知っていた。




***




元気がないように見えたのだろうか。
晴れたその日。アエラに、庭への散歩を提案された。
初めは気乗りしないセリナだったが、気分転換にと熱心に勧められて、それならと、騎士を1人付けて中庭へと出かけたのだった。
(う、寒っ。)
上着を着ていたが、外に出た途端吹き付ける風の冷たさに、セリナは身をすくめた。
整えられた庭園は目を楽しませたが、長居するにはやはり不適な天気だった。
誘ってくれたアエラには悪いが、結局セリナは半分ほどで引き返すことにした。
もうお帰りに?と狼狽えたアエラに、セリナは謝った。
「せっかくだけど、もう少し風のない日に出直そう? アエラの気遣いには感謝してるわ。」
「う。そうですね、確かに、もう少しお天気のいい日に出直しましょう。」
名残惜しそうな様子だったが、アエラも頷く。
「!!」
帰り道、とある人物が目に入って、セリナは慌てて壁に張り付いて気配を消した。
「ど、どうされたんですか。」
「しっ!」
「なぜ、隠れるのですか?」
不思議そうなアエラに、セリナは無言で微笑んだ。
セリナが見つけたのは、怖い顔を浮かべたジルド=ホーソンの姿だった。
(そんなの、怒られそうだからに決まっているでしょ。)
そろりと相手の様子を窺えば、運悪く貴族に見咎められて、足止めを受けた副隊長がいた。
(あ、やばい。)
すべてが聞こえたわけではないが、一方的に叱責を受けているジルドに、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
気配を消して、やり過ごしたセリナの行動を、ジルドに気づいていないアエラは変な遊びだと思ったようだった。
怪訝そうに近くに寄って来た護衛騎士も言いくるめ、その場をそっと後にしたのだが、セリナが不審極まりなかったのは間違いない。
部屋に戻って、早かったですねと驚いたような顔をした騎士が、副隊長が探しに行ったのですが、などというので、知っているとも言えずに、「外が寒くて」などとかわして返した雑談をしているうちに、当の副隊長が怖い顔で戻ってきたわけであるが、セリナは部屋に逃げ込むしかなかった。




***




廊下を走ってはいけない、というのはフィルゼノンでも通用する知識だった。
よほどの緊急事態の場合を除いて、急いでいたとしても、王宮内で低い柵を飛び越えて近道をしたり、廊下を走ったりする行為は、マナー違反だ。
だから。
その両方をやらかして「礼儀がなってない。廊下を走るとは何事だ」と、注意を受けること自体は、仕方がないだろう。
(けれど、あれは。)


「聞いているのかね、君は。ちょっと肩書が付いているからといって、勘違いしてもらってはいかんな。」
うんざりしたような声を出す、恰幅のいい男性。
「そもそもだな、貴様は教養というものが身についてないのではないか、これだから庶民育ちの輩は困る。」
怒りで顔を赤くして。
「最近は、"ラヴァリエ"の格も落ちたものだ。」


注意の後に続いた言葉は、関係のない嫌味だ。
(アスティモ侯爵、ね。また会うとは思わなかったけれど。)
あの時の貴族だったから、今日階段の下にいるのが見えて、黙っているのがなんだか嫌だったのだ。
(前回のは、あんな日に散歩に出かけた私も責任が……ゼロとは言えないし。戻って来た副隊長はすごい顔してたけど。結局、何も言わないし。)
怒りというより、呆れられたと言うべきなのか、ため息を吐かれただけだった。




「セリナ様、エリティス隊長がいらっしゃいました。」
ノックの後に、イサラが顔を見せ、その後にリュートが部屋に入って来た。
「リュート!」
セリナの前に立ったリュートは、深々と頭を下げた。
「こちらの伝達不足で、セリナ様にご迷惑をおかけしました。」
「え?」
「先程の階段でのことです。」
「い、いや、リュートが謝ることじゃ。」
セリナがごまかした騒動は、どうやら誰か(たぶん副隊長)から報告されたらしい。
リュートの態度に、セリナは視線をさまよわせた。
「いやぁ、それを言われると、むしろ私の方こそ、となるのだけど。」
もごもごと告げた言葉に、リュートが顔を上げて不思議そうな表情を見せた。
「さっきの侯爵様? ちょっと、おどかすような真似をしてしまったから。……ごめんなさい。」
「いえ。セリナ様は、巻き込まれただけですので。むしろ、事を収めていただいて、感謝を。」
「なら、いいんだけど。」
大事になってないのなら、彼らの会議にも影響はなかったのだろう。
あの幕引きでは、侯爵自身が騒ぎ立てるとも思えない。
ほっとしてからセリナは、リュートに視線を止めた。
何か?と和らげた表情だけで、応じたリュートに、一呼吸おいてから口を開く。
「珍しくない、って。副隊長はそう言っていたけど、なんだか悔しくて。」
セリナは、リュートの方を向いたまま後ろの窓枠に手をついた。
「……。」
逡巡するような間を持ってから、リュートは視線を上げた。
セリナの台詞が、何を指しているのかは言わなくても理解したようだった。
「王宮騎士団は、貴族の子弟が大半です。近年は、公募の試験で身分要件が緩和されて、そうでない者も増えてきましたが、どうしても厳しい目が向けられます。役職付きならなおさら。」
「実力あるからこそ、の配属なのだと思うのだけど。」
セリナの言葉に、リュートは困ったように微笑んだ。
「だからこそ、というのもあるのです。」
ぎくりとして、リュートを見つめる。
声を出せないセリナに、先を続けたリュートの口調はわざとらしいほど軽い調子だった。
「彼を、そんな場所に引き込んだのは、私にも原因があるのですけどね。」




***




5年前。
休戦条約は、アリオン川近くの広場で締結された。
先代国王が崩御した後、王太子だったジオラルドが王位を継承。
消滅した国境を守る魔法防壁を張り直し、再度のアジャートの進撃を阻止。
北方でマルクスが蜂起し、軍事を割かざるを得なくなったことに加え、アジャート国内の中枢でも勢力分断があり、敵国は侵略を諦めざるを得なかった。
即位したばかりの若い王に、主導権を握られた休戦の締結は、圧倒的に有利だと信じていたアジャートにとって酷く屈辱的なものであったらしい。


そして、休戦を良く思わないのは、アジャートの者だけというわけでもなかった。








エリティス家は、騎士を多く輩出した名門である。
王都のアカデミーから騎士候補として"緋の塔"へ所属を移したリュートが、当時の"ラヴァリエ"の隊長であった男から声をかけられたのは、16歳の時だった。

その後、誘われるまま王宮騎士団に入り、"ラヴァリエ"の配属となる。
そもそも王宮騎士団自体、貴族の子弟が多い組織である。
所属した第1に限らず、第2第3の隊においても、アカデミーの頃から見知った顔ぶれが並ぶ環境で、馴染むのに時間がかかるはずもなく。
10歳になる前に、家族から離れ寄宿舎暮らしをしていたリュートにとって、家よりも居心地のいいそこは大切な場所だった。
近衛を務める"メビウスロザード"は、騎士団内の精鋭であり、一目置かれる存在。
魔法を駆使する"ランスロット"は、身分というよりは系譜と実力が重視され、頼もしくも特異な存在。
第1から第3の各隊に上下の別はなく、仲がいいのか悪いのか、よく衝突して決闘だなんだと騒ぎにもなったが、いざ任務で連携するとなれば互いにその能力を相乗効果で余すことなく発揮しあうような関係だった。
それが変わり始めたのは、アジャートとの不和が表立って見え出した頃だっただろうか。
王妃フィリシアが亡くなり、続けざまに王族の様相も変わった。
護衛対象である王家の変化に伴い、近衛騎士隊の人事も大きく動いた。
また、第3隊"ノイエメイデン"の隊長が老齢のため職を辞すと、突然現れた騎士がその席に座った。
国に戦争の暗雲が広がり、城内は悲しみと憤りの空気が漂う。
西部の争いが落ち着かない中、王宮騎士隊に任務が下った。
アジャート南東部ノーラの砦攻略だ。
2隊が派兵されて、彼らはなんとか成果を挙げた。
―――挙げたということになっている。
失ったものに目を向け、その派兵の顛末を振り返る時。それは、客観的に判断して、失敗だったというべきだが。
2隊のどちらも瓦解し、敵国に取り残された状態。
指揮を執っていた隊長は深手を負い、次席の指揮官は行方不明。
戦況から応援を期待することもできず、土地勘のない場所を切り抜けられるかどうかは運次第だった。
リュートにとって幸運だったのは、重傷とはいえ隊長の息があったことと、ジルドという傭兵がアジャート脱出に協力してくれたことだった。


死と隣り合わせの場所から、フィルゼノンに生還した騎士たちを待っていたのは、しかし『拘束』という思いがけない事態だった。
"ラヴァリエ"と"フェアノワール"の騎士が解放され、その職に戻された時には、王宮騎士団の姿は随分変わっていた。
これまでも騎士団長は横柄な男だったが、各隊の隊長もそれぞれに力を持っていたため、無理が通ることはなかった。
けれど、第1も第2も隊長が変わり、そもそも第3の隊長は、団長の息のかかった騎士であったため、団長の意見が隊の意向となった。
近衛騎士隊は要人警護で不在がちだったし、魔法騎士隊は与えられた仕事は果たすが、他の隊の在り様には興味がない。魔法騎士隊長は、そもそも表に出てくることすら稀だった。


"ラヴァリエ"の生還騎士が解放されたのは、"フェアノワール"の騎士よりも後だった。
ノーラの砦を奪い返されたのは情報を流した裏切り者がいるせいだという、嫌疑での拘束。
"ラヴァリエ"隊長が倒れたのも、入り込んだ敵が原因だった。
だが、捕らえられなかった一部の騎士について嫌疑を逃れた論拠が曖昧であり、主張に一貫性がないこと、戦力となる者をこの非常時に捕らえていること、子息への不当な扱いに各家門から強い抗議があったこと、などから各方面の圧力が強く、解放され復職となった。
ただし、「アジャートでの作戦活動について、一切のことを口外しない」という誓約書を書くことが条件だった。
行方不明だった副隊長が、隊の責任者におさまっていたのを見て、無事で良かったと安堵したのもつかの間、リュートは理解した。
誰よりも先に帰還した彼は、隊と隊員を見捨てて、自分の取り巻きだけを連れて真っ先に逃走したのだと。
けれど、それを知った時には既に「誓約書」が足枷となっていた。
主張を証明できるような証拠もなく、騎士団長も承知済みのことならば、告発する先もない。限りなく疑わしい背信行為に気づきながら、その時彼にできることは何もなかった。
さらに、戦況が不利に傾き、王都に敵が迫ったため、それどころではなくなった。


国王が先頭に立ち、敵を押し返す。
西部で衝突を起こしたものの、結果アジャートをフィルゼノンから撃退することに成功する。
勝利を味わう暇もなく、国王崩御という衝撃が待っていた。
王宮の修復、民の救出、治安維持、復興支援。
目まぐるしく変わる状況に、目の前のことに取り組む日々が続く。
奇しくも、国難に瀕して、王宮騎士団はかつての如く連携する関係を取り戻していた。
新王が即位し、国境線の防壁が構築され敵軍の侵攻を阻んだ時、王宮騎士団は歓喜の声を上げてジオラルド陛下に剣を捧げた。


そう。
誰もが、忠誠を誓ったはずだった。


アジャートと休戦するという話が出るまでは。




***




「リュート?」
不思議そうな声に、リュートは意識を眼前に戻す。
「あ、あぁ。すみません。5年前の休戦を締結する頃、騎士団もごたついていて、いろいろと処理する行きがかり上、騎士ではないジルドにも手伝ってもらっていたことがあったんです。陛下の采配で、城内…というか国内の大規模な人員の見直しが行われた際に、若手の重用が目玉ということもあり、功績のあったジルドも先の隊長の推薦を受け、ラヴァリエを支える一員に。」
「リュートもその時に、隊長に?」
「はい、若輩ながら。」
リュートはこくりと頷く。
突然の抜擢に、あの頃のリュートには信頼できる補佐や部下が1人でも多く必要だった。
結果、リュートは、ジルドを騎士隊に引き込む側に立ったのだ。
あの当時、副隊長に就いたジルドのことを、戦の後のどさくさで、騎士に紛れ込んだと、口さがないことを言う者がいたが、何年経ってもそういうことを言う者はいなくはならないのか、とリュートは肩を落とす。
「けど、留まっているのは、本人の意思よね。」
小首を傾げて、ぽつりとこぼしたセリナの言葉に、リュートはきょとんとした顔を見せた。
「え? だって、嫌ならさっさと辞めそうだから、あの副隊長さんって。」
はっ、悪口じゃないよ!と慌ててフォローを口にする。
部屋の中にはいないはずだが、セリナはきょろきょろと辺りを確認する。
本人に聞かれたら、また嫌味が降ってきそうだ。
はは、と小さく笑い声が聞こえて、セリナは動きを止めた。
「なるほど、そうかも……いえ、確かにそうですね。」
笑いを引っ込めたリュートの顔は、まだ緩んだままに見えた。
「彼自身、副隊長であることに執着はないと公言していて、いつでもその地位を譲ると言っていますが、その昇格試験の手合わせで挑戦者に負けたことはありません。」
「……自分より弱い騎士に任せるつもりはない、ってことね。」
うーんと唸って、セリナは「なんだか、副隊長らしい気が。」と、呟く。
言ってから、セリナははっとして部屋を見回す。
「い、今の。本人には、言っちゃだめですよ。」
人差し指を唇の前に立てて、セリナは上目遣いにリュートを窺う。
それを見たリュートが、また笑いを漏らした。










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