76.








設営された天幕を見回っていた男が、足を止めて空を仰いだ。
無言のまま眉をひそめた彼の背中に声がかかる。
「エリオス様。」
振り向いたエリオスは、僅かに瞳を見開いた。
近衛騎士隊"メビウスロザード"の副隊長が、騎士の礼を取っていた。
「グリフ=メイヤード、陣営の確認か?」
「はい。」
歩き出したエリオスの後を、グリフが追う。
ひと気のない辺りに来たところで、グリフが口を開いた。
「ウルリヒーダ王が亡くなったそうです。」
「その噂なら聞いた。」
『噂』と答えたエリオスの横顔を、グリフが窺う。
その視線を置き去りに、エリオスは足を進める。
ここ最近のアジャートの情報は、かなり制御されていて真実が見え難い。
気になる話も入って来るが、それに振り回されるわけにはいかない。
「中央だって、あらゆるケースを想定しているだろう。」
「……あちらの思惑はどうあれ、始末をお付けになる覚悟かと。」
ぐっとエリオスは眉間にしわを寄せる。
「どうしてあの方は。」
「エリオス様も、同席なさるのですよね。」
「陛下を側でお守りするのは、近衛騎士隊の仕事だ。」
「エリオス様。」
「私は近衛ではない。"緋の塔"の騎士として、陛下を守る。」
何か言いたげな近衛騎士を一瞥して、エリオスは前を向く。
結局、グリフは無言のまま、エリオスに頭を下げただけだった。


ラグルゼの兵士たちと"緋の塔"の騎士たちが、忙しなく辺りを行き来する。
交渉の場として用意された平地は、見通しが良く周囲に高台もない。
両国の立会いの下で、大小の天幕が張られている。
その中でもひと際大きな1つは、台座の上に設営され、中には立派な机と椅子が置かれている。今、中が確認できるのは、壁にあたる幕が上に留められているからだ。


アリオン川より東。
魔法防壁の内側に、アジャートの兵士がいることに、不満はある。
もちろん、ラグルゼの防壁も強化されていて、アジャートの者がそこを通ることはできない。
(この辺りだけ内層の防壁を内側に下げて、外壁の扉を開けば、緩衝地帯で交渉できるはずだが、なぜ、国内に入れるのか。)
魔法防壁の構造からして、その方法は可能なはずだ。
もちろんそれを知る人間は限られているが。
(陛下の魔力はよく知っている。あの方なら容易く実行できるだろうし、危険を避ける上で、その方法を思いつかなかったはずもない。)
国を守る防壁を張ったのは現国王。
その前にフィルゼノンを守っていた壁は、脆くも崩れ多大な被害を招いた。
(防壁に手を加えるリスクはあるか。魔力も消費するだろうし。)
エリオス=ナイトロードは、目には見えない防壁を睨むように顔を上げた。
(まぁ、我々騎士が……私が、陛下に及ぶ危険を排除すれば済む話であれば、陛下の手を煩わせることはない。)












6年前。
ジオラルド殿下は、その時、ルディアスの地を守っていた。
最前線はラグルゼ、そして"緋の塔"。
破壊されたポイントは山側で、"緋の塔"から見て、ラグルゼとは反対方向だった。
何が起きたのか理解できないまま、アジャートの軍勢がなだれ込み、状況に混乱したフィルゼノン軍は一瞬で統率を失った。
ルディアス領は、カルダール山脈から伸びる尾根に守られているが、実は切れ目のような谷間がある。
かつては、そこからイレ、マルクスへの交易路を繋げようとしていた場所。
エリオスには、アジャートの軍勢が、ラグルゼだけでなく、その山脈の切れ間からもなだれ込むことが予見できた。
この時、魔法防壁が壊されたとはまだ知らない。
だが、少なくとも、今機能していないのだということだけはわかった。
アジャートの進撃の速さから、それが相手の策によるものであり、切れ目から突撃する敵が、初めにぶつかるのがルディアスの防衛線であることも。
そして、そこにはジオラルド殿下がいる。
エリオスは、混乱を極める前線で、自分の隊をまとめると、一気にルディアスの防衛線へ駆けた。


到着した時、ルディアスの街には火の手が上がっていた。


塀の外にも中にも、たくさんの人が倒れているが、まだ落ちてはいない。
叫び声や、剣戟の音があちこちで聞こえる中、騎乗のまま領主館の中へと入る。
混戦。
そこで探すのは、ただ1人。
「殿下!!」
見つけて、すぐに部下に指示を出す。
怪我をしているが、陣の指揮を執る姿に安堵した。
「エリオス! 援軍とは、有難い。」
汗を拭い、戦場に目を向けながらも、彼の声音にはほっとした色が混ざっていた。
「ここは持ちません、撤退を!」
「駄目だ、民が逃げる時間を稼がないと。」
相手の、強い瞳の光に息をのむ。
(仮に一番近いブランチキャッスルまで、として。どのくらいだ。)
異変を察知し民を逃がしてから、どのくらいここで敵を押さえていたのか。
(出たのは、馬車? 馬? それとも徒歩か?)
「くっ!」
襲い掛かって来たアジャートの兵士を切り飛ばして、エリオスは首を振る。
向こうの方で、爆発音と壁の壊れる音がする。
この街の魔法防壁も既に消えている。
「殿下、ここは限界です。」
「エリオス、お前。」
ガキンと鈍く音が響く。
「殿下!」
ジオラルドに向かって振り下ろされようとした剣を、メビウスロザードの騎士が防ぐ。
「早く、離脱してください!」
「ルドロフッ!」
「ナイトロード様と共に! 早く!」
護衛の騎士たちが、主を守護する。
「殿下! どうか。」
敵を倒していくが、相手の数が多くじりじりと後退させられていた。
「っ!」
闘志を燃やしたまま、若い王子は剣を構えるが、横合いからエリオスが腕を伸ばした。


「全滅させる気か! 決断しろ!!」


語気強く、彼の肩を掴んで怒鳴りつける。
驚愕に開いたサファイアの瞳が、エリオスを真っ直ぐに捉えた。
刹那、エリオスは、懐かしさに息が止まるかと思った。
―――こんな状況だというのに。
すぐに我を取り戻して、エリオスは無理やり彼の馬を引く。
「っ…。」
何か言いたげに、顔を歪めたジオラルドだったが、すぐに背筋を伸ばして声を張り上げた。
「退け! 全員撤退!!」
混乱をかき分け、そして退路を切り拓く。
エリオス自身の部下と、彼の護衛騎士たちがそれを可能にする。
崩れ落ちた瓦礫を飛び越え、行く手を阻む敵を倒していく。
だが、相手は次々に新手が現れる。
「フィルゼノンの王子の首を取れ!!」
ジオラルドを邪魔する複数の敵に、追走していた近衛騎士たちが前に出て、道を作った。
「先に行ってください!」
「ルドロフッ、スリンガー!」
「すぐに追いつきます。」
にっと笑って、満身創痍の騎士たちは、そこで立ち止まり馬の向きを変えた。


炎と煙。血の匂いと剣の音。


その中から駆け出た影。
ルディアスの街を後にし、その場所を捨てた彼らの背に、アジャート軍の歓声が突き刺さった。




下がった先は、ダイレナン。
攻撃を受けたものの、守りの固いダイレナンが落ちることはなかった。
それは、ダイレナンに向けられた敵が、一部だったからでもある。
国境の防壁が消滅し、フィルゼノンへ侵攻したアジャートは、大地を蹂躙しながら王都を目指していた。
目的を察した彼らは、そこから王都へと駆ける。
都に戦火が届き。王軍がそれをすぐに鎮圧、撤退を余儀なくさせた。
王軍に合流したエリオスたちは、無事にジオラルド殿下を送り届ける任務を果たした。
塔の騎士、そして"メビウスロザード"の騎士の数は半数以下になっていた。




「エリオス、私と一緒に戦ってくれ。」




予想もしなった言葉をかけられたのは、エリオスがまさに塔へ戻ろうとしていたところだった。
エリオスの次にすべきことは、国境を侵した敵を追い出すことだ。
彼自身は、王都へ足を踏み入れるつもりがなく、その前に軍に合流できたことを幸いと、すぐに引き返す気でいた。
王軍にあっては、エリオスは必要ない。
それよりも国境を取り戻す方にこそ、彼は己の力を発揮できると判断した。
時間に余裕があるわけではない。
だから、迷うこともなかった。
「ジオラルド殿下。」
砂埃にまみれた姿でも揺るがない存在の前に膝を付き、胸に手を置いて頭を下げる。
「我が戦場は、国境線に。このまま戻ります。」
「意味をわかった上で、断っているのだろうな。」
「ご容赦いただきたく。」


「……そんなに、騎士の功績が欲しいのか。」


目を伏せたままのエリオスの耳に届いたのは、酷く冷めた声。
「殿下……っ。」
顔を上げたエリオスの目に映ったのは、身を翻した彼の背中だった。




バッカスを焼くほど進軍していたアジャートの本隊は、"緋の塔"とラグルゼを初めとするフィルゼノン軍が押し返していた。
そのため、ルディアスから入り先行していたアジャート軍は孤立状態になっていた。
王軍が西側へ追い払いながらも、再び戦場はフィルゼノンの地であった。
エリオスたちは、ラグルゼで魔法防壁のない国境線を死守するのに精一杯で、両国の王が刃を交えたその場にはいなかった。
ジオラルド殿下も、被害を受けた王都の守りを任されていたため、その場にはいなかった。
その後、アジャート軍を撤退させたものの、脆弱な国境線の防衛は熾烈なせめぎ合いを見せた。
エリオスはその任に注力し切っていたが、すぐに悲報は届いた。


フィルゼノン国王陛下崩御。


新王として殿下が即位し、魔法防壁が創られた。
再度侵攻して来たアジャートを阻む、強固な防壁を。
その間、よく持ちこたえたと。ラグルゼと緋の塔は功労を称えられた。
対照的に、先の魔法防壁を崩された責任でディケンズの一族は、非難を受けた。




後から聞いた話では、逃がした民の大半は、ダイレナンに匿われて無事に避難できたという。
だが、あの日、途中で離脱した"メビウスロザード"の騎士で、主人の元に帰った者はいなかった。
王都を任された殿下が、民を守り、混乱する国をまとめ、休戦まで果たした手腕に舌をまく。
けれど、アジュライト国王陛下を失い、重責を負った彼のことを思う時、あの時の申し出が頭をよぎる。殿下の隣で、彼を支える役目を担えていただろう選択を。
後悔ではなく、もしもを言うつもりはない。けれど。
あの冷たい声を。そうさせてしまった自分の判断を。正しかったとは言えなくて。
どう言い繕ってみても、差し出された彼からの手を、取らなかったことには違いなく。


それよりもずっと昔から。償う方法を探しているのだが。
エリオスは、フィルゼノンの国と王を守る以外に、その方法を見つけられないでいる。
















BACK≪ ≫NEXT