79.








抜き身の剣をかざして、ジオは玉座に向かい合うように立っていた。
「……。」
アジャート王を討ってはいけない理由は。
アジャート軍に報復しないのはなぜか。


偉大な王を失った。ジオの父だ。誰が、彼を?
心優しい王妃を追い詰めた。ジオの母だ。なぜ、彼女は涙を流した?
慕っていた騎士が倒れたのは。どうして、あの騎士は命を奪われた?
大地がえぐられ、街が炎に包まれて、人々を傷付けた。彼らの大事なものを、蹂躙したのは誰だ。
理由は。どんな理由があれば、それが許される。


ジオを守り、尽くしてくれる者たちに、どうすれば報いることができる。
命を懸けている者たちに。
この国を支えている者たちに。
そして、ジオが守っていかなければならない者たちに。
どうすれば。
(本当に、アジャートを討たなくていいのか。)
「っ!」
ジオは剣を床に突き立てる。
(この迷いこそ、不要なものだ。アジュライト陛下の意志を継ぐ。その決意が揺らぐことなどあってはならない。)
それでも、己を抑え切れるか、どうしても自信が持てない。
ギリ、と強く握った拳に、爪が食い込む。その痛みも感じない。
『許し』は不可能。
失われたものは、二度と戻らない。二度と会えない。
片膝をつき、ジオは目の前の剣を見据えた。
その刃が、ウルリヒーダ王に向けられることはあってはならない。
それは、先王の言葉を果たせなかったことを意味する。
玉座に座る資格はない。
歪んだ表情。固く目を閉じた。
剣の柄に額を付ける。
誹りも、嘆きも、向けられる失望も、受け止める。
ジオはゆっくりと立ち上がり、剣を鞘に納めた。


どうあっても、戦を始めて軍部に力を持たせるわけにはいかなかった。
若年の王を操りたい者の、思い通りになるつもりはなかった。
流されることも、既存の貴族勢力に借りを作るようなこともできない。
侮られるような隙を見せてはいけない。
先王の意を汲む宰相ジェイクや先王近衛のゼノを筆頭に、ジオの決定への承認を広めたが、反発は抑えきることができないまま、休戦の話は強行された。




王宮騎士団の歪みは、先王妃フィリシアが亡くなった頃から始まっていたらしい。
それがわかったのは、アジャートとの休戦が成立した後だった。


第3騎士隊"ノイエメイデン"は、隊長の交代を機に、雰囲気が変わったという。
王妃の逝去に伴って王城内の王族にも変化があって、騎士隊メビウスロザードが大きくその編成を変えることになった。
その縮小を弱体化だと見せないために、騎士団は、折につけて力を誇示しがちになった。
フィルゼノン中枢の『強さ』を知らしめるのだと、第1第2の騎士隊が、アジャートに遠征をする動きになったのもその内の1つだ。
その間に、ノイエメイデンは、城内警護を掌握した。
アジャートの砦を落とした2つの騎士隊は、大きな被害を受けてフィルゼノンに帰還する。
負傷あるいは、裏切りを疑われて拘束を受けた者たちの穴を埋めて、どちらの隊も隊長が新たに着任した。
嫌疑が晴れて拘束が解かれた騎士を加えて、以後彼らは、確かにフィルゼノンのために力を発揮していた。
けれど、休戦には強固に反対の態度を見せる。
反対派の諸侯に加えて、騎士団で主導していたのは、騎士団長とノイエメイデン隊長、追従する形で第1と第2の新隊長、そしてメビウスロザードの一部の騎士も。
本来なら、王族の旗下にいるはずの彼らが、だ。
さすがにその頃になると、第1第2の隊長の交代に裏があるのでは、との疑いが浮上していた。合わせて、アジャート遠征も仕組まれたものだったのかもしれない、とも。
けれど、確たる証拠はない。
裏切者は、拘束されていない方にこそ紛れていたらしい、と。
そう感じていたとしても、追及するだけの材料はなく、また休戦交渉を控えたジオにはそれに割くための人員も時間も足りていなかった。




休戦の締結当日。
「ジオラルド陛下。」
近衛騎士隊長ゼノ=ディハイトが差し出した外套を、その肩に受けながら、ジオは手袋をはめる。
剣を掴み、剣帯に差す。
「そろそろ移動をお願いします。」
天幕の外から、騎士の声がかかった。
隣で頭を下げたゼノを横目に、ジオは上げられた幕をくぐり、中央の天幕へと向かう。
近衛騎士隊長が続いて出て、3歩目で足を止め振り返る。
「そこのお前、見かけない顔だな。所属は……。」
ゼノの声に、ジオも足を止める。
天幕の外、先程声をかけて来た騎士だ。
近衛騎士の制服を着ていて、ゼノが知らない顔のはずがない。
少なくとも、そんな者がこんな時にジオの側に控えはしない。
たじろぐ様子を見せた相手に、ゼノが大股でその距離を詰める。
彼がジオから離れた、その時だった。
森の方向から、矢が飛んで来た。
「陛下!」
一の矢を剣で叩き落したジオだったが、続く矢に目を見開く。
緊迫した声は、ゼノが上げたものだけではなかった。
「こちらへ!」
飛び出して来た騎士の持った盾に、何本もの矢が突き刺さる。
物陰へと隠れる。続いて、いくつかの矢が飛んで来るが、その距離は足元までだった。
「ジオラルド陛下、お怪我はありませんか。」
「問題ない。」
エメラルドの瞳を持つ、若い青年だった。
制服は、王宮騎士隊"ラヴァリエ"の隊員の物。
異変に気づき、集まった騎士たちが、森へと駆けていく。
見れば、ゼノは先程の騎士を既に拘束していた。
「そちらの方が酷いな。負傷は、してなさそうだが。」
剣を収めたジオは僅かに眉を寄せた。
青年の格好は、先程庇っただけにしては、ずいぶんボロボロだった。
膝を折り、胸に手を置いた青年が頭を下げる。
「お見苦しい格好で、申し訳ありません。」
ジオは彼の持つ盾の矢を抜く。
「アジャートの矢。」
はっ、と吐き捨てるような笑いが漏れた。
「こんな手段を使ってまで、休戦を阻止したいのか。」
「畏れながら、陛下。此度の襲撃の首謀者は。」
「わかっている。」
ジオを襲撃して、会談を中止させようとした。
アジャートの矢を使ったのは、襲撃がアジャートの仕業だと見せるためだ。
「ジオラルド陛下!」
駆け寄って来たゼノに、持っていた矢を渡す。
「ご丁寧に毒矢だ。」
「な!」
「おそらくだが……致死毒ではないのだろうな。大方、私が動けない間に、王襲撃の報復を名目にして開戦に舵を切る、というつもりだったのだろう。」
ゼノの拳に青筋が立つ。
視線を彷徨わせている青年に、ジオは声をかける。
「襲撃計画に気づいて、未然に防ごうとしていた…というところか。」
「緊急で、報告する時間がありませんでした。陛下の御身に迫る危険を防げなかった処罰はいかようにも。」
報告、と言ったが、それは難しいだろうな、と内心で考える。
ジオ本人に会うことは困難だっただろうし、では他に誰を信じるべきか、と。
この襲撃の首謀者に気づいている彼に、選択肢はないに等しい。
「第二波の攻撃が中途半端だったな。森にいた敵方に向かって行ったのは、仲間か?」
ジオを誘導した青年とは別に、もう一人。
一緒に飛び出して、そのまま森の方へ走り去った男がいた。
「はい。」
逃走した者へ追尾の令が飛ぶ。
魔法発動の余波が森を揺らした。
少々手加減を誤ったのは、クルセイト=アーカヴィだろう。わざとかもしれないが。
森の中から、騎士たちが拘束した襲撃者らを連れて戻って来る。
「その仲間は、王宮騎士では、なさそうだな。」
そう呟いたのは、ジオではなくゼノだった。
騎士でも覆面をした者でもない男が、1人混ざっている。風体は、傭兵のようだ。
「時間がない。捕らえた者は、ラグルゼの牢へ連行しておけ。」
「承知しました。」
「あ、あの。」
青年の上げた声に、ゼノが振り返る。
「なんだ。」
「実は、ラグルゼの北側城壁外に、拘束した者がそのままに。」
「なるほど……それも、回収に向かわせる。」
ゼノが、思案気に頷く。
既に外で一戦交えて来たらしい。
道理で、ひどい格好になっているわけだ。
ゼノに呼ばれて、グリフ=メイヤードが指示を受ける。
「ジオラルド陛下、こちらを。」
再び任務へと戻る前に、グリフは新しい手袋を差し出した。
ジオがそれを受け取って取り換えている間に、グリフが王の外套裾の僅かな汚れを払う。
交換後の手袋を受け取り、胸に手を置くと静かなお辞儀を見せた。
その場の喧騒を背に、ジオは今度こそ中央天幕へと向かった。








着いた先、同じタイミングでやって来たのは、ウルリヒーダ王本人だった。
事前交渉は代理人が全て行い、一度も出て来なかった相手が、最終の場に現れたことにジオは少なからず驚いた。
もちろん、その感情を顔には出さないが。
この場自体が不本意なはずだから、最後まで表に出て来なくてもおかしくはないと考えていた。
背が高く体格のいいアジャート王は、こちらを一瞥して見おろすと、ふっと1度だけ鼻で笑った。
「なにやら、そちらは賑やかだな。」
「……。」
「もう少し、待たされるかと思ったが、もう良いのか?」
「アジャートの方々がお越しとあっては、血の気の多い者も出て来てしまうようで。」
「ほぅ、ずいぶんな物言いよ。この会談を延ばしてやっても良いのだが?」
「炎帝と呼ばれる方でも、冗談を仰るとは意外だ。」
皮肉のやり取りに、先に興味を失ったのはアジャート王の方だった。
天幕の中の椅子に乱暴に座ると、腕を組んだ。
「形だけの儀礼や挨拶ならいらんぞ。儂は忙しい、さっさと署名して終わらせよう。」
「アジャート王。」
護衛のアジャート兵が、窘めるように小さく名を呼ぶが、それを鬱陶しそうにあしらう。
宣言通り、ざっと文書の中身に目を通して、アジャート王はペンを執ると署名を行う。
紫色の台紙に挟まれたそれを、机の上を滑らせるようにフィルゼノン側の席へ寄越す。
「…休戦、か。これは、"新しい"フィルゼノン王への即位祝いだ。」
「は?」
「若き王、初めての『功績』としては、上々だろう? ありがたく受け取るがいい。」


(なにを…言って、いる。)


「"前の"フィルゼノン王への手向けでもあるのだから。」
にやりと口の端を上げた男に、ジオは頭に血が上るのがわかった。


(どの口がっ、そんな台詞を吐くんだ。)


オレが。
どんな思いで。
父が。
どんな気持ちで……っ!


手が己の剣にかかる。
引き抜いて振れば、その刃は相手の喉元を切り裂ける。
そのくらいの距離しか開いていない。
その瞬間に、躊躇いなどない。




―――『許し』は不可能だ。




目の前が、真っ赤に染まる。
腕が動いた。


キンッ、と金属音が天幕に響く。
















「それは、何の真似だ。調印後に、その暴挙、正気の沙汰とは思えません。」
ウルリヒーダ王の前に出た護衛、ギゼル=ハイデンの手は、剣に置かれていた。
眼光は鋭く、ジオの横に向けられている。
「っ、先に無礼を働いておきながら、よくも。」
「……ゼノ、下がれ。」
抜刀しかけたゼノの剣をその途中で押さえたのは、ジオの腕だった。
怒りをその瞳に宿したまま動かない近衛騎士に、ジオは再び短く命じる。


「下がれ。」


何かに耐えるような顔を一瞬だけ浮かべた後で、ゼノは剣を握る手から力を抜き、一歩後ろに下がった。
始終、一度も動じなかったアジャート王は、ジオを眺めてから、手を振ってギゼルを下がらせると、椅子から立ち上がった。
ジオが口を開くより前に、ウルリヒーダが、肩をすくめた。
「余興としては、まぁまぁだな。」
休戦破棄の意思表示だと、言われてもおかしくない状況だったが、アジャート王は流した。
静かに机に近づき、ジオは立ったまま署名する。
「……。」
何かを小さな声で呟いて、呆れたような、苦々しげな、何とも言えない微妙な表情を覗かせてから、ウルリヒーダは靴を鳴らした。
「会談は終いだ。帰るぞ。」
「はっ。」
アジャート王はジオに視線を止める。
「くれぐれも思い上がらないことだ。アジャートは、フィルゼノンに負けたわけではない。」
堂々とした足取りで、余裕すら滲ませながら、アジャート王はジオに背を見せた。


その背を眺めて、急に、先程の呟きを理解した。
―――「一度も顔色を変えないな。」


「ジオラルド様、申し訳……ッ。」
ジオの後ろで、ゼノが頭を下げる。
「いい、非は向こうにある。」
苦しげに顔をしかめて、ゼノは再び深く頭を下げた。


マルクスの蜂起によって、北に戦力を割いたアジャートに、再び攻め込むだけの力があるとは思えず、優先すべきは国の安定。民の生活だと。
国内の反対すら強引に退けて、臨んだその場で。
フィルゼノンからの休戦条約の申し出は、アジャートにとって、弱ったところを攻め込まれるよりも、屈辱的なことであったのだと悟った。
こちらが、まだ若輩であったことも神経に障ったのだろう。
今は、この話を蹴る時機ではないと判断していたからか、外見だけは円満であったけれど。
奇異な話ではあるが、この休戦を示す紙を挟んで対峙したからこそ。
互いが王である内は、『和解』という結末はあり得ないだろうことを。
ジオは痛感していた。


「……戻ろう。"中"の始末もしなければ。」


実行犯で捕らえられた者たちは、予想通り下っ端で使われていただけだったが、近衛騎士隊服で偽装して潜り込んでいた者と、先に城壁外で制圧された連絡役だった男から、情報を聞き出すことができた。
加えて、昏睡状態で回復は絶望的と言われていたはずの男、"ラヴァリエ"の前隊長マリスウードから数々の証拠が提出された結果。
王宮騎士団の反逆は、暴かれた。
先王の近衛騎士隊員とジオ自身の近衛騎士たち、第2の元隊長らの調査で、王宮騎士団の私有化と腐敗は、騎士団長の推薦を受けたノイエメイデンの隊長がその任に付いてから、徐々に進められていたことが判明する。
先の遠征で、重傷を負い生死の境をさ迷ったラヴァリエの隊長は、奇跡的に意識を取り戻したものの、その事実は隠されていた。
遠征での裏切り云々だけでなく、その後の王宮騎士団の在り様に不審を抱き、調べるのに好都合だったからだ。調査は、マリスウードを救出した"ラヴァリエ"の騎士と傭兵で進められていた。
事件に関わった者は、すべてその職を解かれることとなる。
その影響は騎士団に留まらず、助力していた諸侯にもおよび、大規模な人事刷新が行われた。
そんな事情があったから、そうせざるを得ない面も持っていたのが、『若手登用』だ。
ただこれは、若い王の政策の目玉として民に好意的に受け止められた。


瓦解していたラヴァリエの立て直しのため、マリスウードは、リュート=エリティスを隊長に、傭兵のジルド=ホーソンを王宮騎士に推挙する。
マリスウード自身は、騎士団長の職に。また、追い出されるような形になっていた第2騎士隊"フェアノワール"の元隊長も、その職に戻り、ノイエメイデンにおいても、方針に逆らってクビになっていた騎士の何人かが王宮に戻って来た。


襲撃計画阻止の活躍と、推薦を受けたリュートの昇任だったが、本人は当初それを辞去していた。
「この休戦を守った騎士が、なにゆえに断るのか。」
「私には、大役すぎます。」
「騎士リュート。隊長が託した思いを継がずに、今後その剣をいかに振るうつもりだ。」
伏せたエメラルドの瞳。それでも、揺れるのがわかった。
ジオは、膝をつくリュートを見おろした。
「その力を、この国ために捧げよ。」
ゆっくりと伏せていた顔が上がる。
ジオは真っ直ぐに、リュートに視線を向けた。
視線の交差は刹那。
胸に手を置いたリュートは最敬礼で、頭を下げた。
「王に忠誠を尽くす騎士であるべく、お受けいたします。」




***




宿泊棟の部屋に入ったジオは、上着を脱ぐ。
領主館近辺の騒動の報告書が届いているのを手に取り、目を通す。
近衛騎士から、その対応をしていた騎士たちも砦に戻ったと聞いている。
(領主館が狙われたのは、こちらよりは警備が手薄だからか? それとも、女神がいると思っていたからか?)
女神の護衛として顔の知れたリュートをそちらに行かせたのは、わざとだ。
仲介役の足止めは、交渉の邪魔としては間接的だが効果的だ。
トン、とジオは机を指で叩く。
(妨害を画策する程度のことはあるかもしれないが。こちらは、特に問題はないだろう。問題は明日の、アジャートか。)




レイポイントから戻って、セリナと廊下で別れる前、ふと思い出して聞いた。
「昼間、アジャートのグレーティア前王妃が来ないと聞いて意外そうだったな。」
少し驚いたように黒曜石の瞳を瞬かせた後、セリナは口元に手を置いた。
「うん……なんていうか、女神の同席を希望したのが彼女だろうって言ってたでしょ? だから本人が出席しないとは思ってなくて。」
ジオの視線を受けて、セリナは曖昧な笑みを見せた。
「国政にも関わっているって聞いてたし。何か考えがあるのかなって、思ってたから。あ、もちろん数回会っただけで、王妃様のことをよく知ってるわけじゃないんだけどね。」
言い訳のように早口で説明してから、セリナは眉を下げた。
「思い込み、と言いますか。ただ単純に、意外だなって思っただけで。」
「そうか。……あちらで、第2王子と面識はなかったはずだったな。」
「えぇ、どんな人なのかはさっぱり。」
そう言って、少女はふるふると首を横に振った。




(アジャートの新王と、セリナに接点がなかったなら、確かにわざわざ仲介人として女神を望む意味は体面的なもの以外になさそうだが。)
この要望に、何か意味があると考えるのは当然だろう。
髪をかき上げてジオは、窓の外に瞳を向けた。
(セリナには、明日になればわかることだ、とは言ったものの。)
セリナの台詞を反芻して、ジオは扉の外に控えている近衛騎士に声をかける。
そして、彼に砦に戻って来たばかりだろう騎士、きっと廊下の反対側の部屋の前に控えているはずの男、を呼び出すよう指示した。




















<XI.交渉>に続く

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