88.








轟音が地を震わせる。
(近い。)
しきりに光る空と続く雷音。
追われる恐怖に、自然の恐怖が追い打ちをかけているようだ。
林の中の細い道を2頭の馬が駆け抜ける。
手綱からすっかり手を離したパトリックは敵の剣を受け、さらに凪ぐ。
「させるか……!」
苦しげな呻きにも似た男の声が聞こえた。
布で覆っているせいで声はくぐもって聞こえる。
際どい体勢から巧みに馬を操り、通り過ぎようとするパトリックを追う。
男は馬から落ちるのではないかというほど体を倒し、速度を上げた。
セリナたちの馬を追い抜きざま、剣を下から振り上げる。
「く!」
かろうじてパトリックがそれを交わすが、僅かにバランスを崩す。
「おらぁ!!」
馬から手を離した男は、振り上げた剣を両手で握るとさらに勢いをつけて振り下ろした。
「―――!」
身を硬くしたセリナは、反射的に目をつぶる。
近距離での剣の応酬に、ただでさえ心臓が破れそうな程の緊張を強いられているのだ。
手綱を離さないだけでも褒めてほしい。
ちなみに、セリナに自分が今馬を走らせているのだという自覚はあまりない。
ぐいっとセリナの持っている綱が引かれ、予期せぬ反動に思わずパトリックに背を預ける。
「!?」
どうやらパトリックが馬を操って、今の攻撃を避けたらしい。
固まったまま、パトリックの腕の中で目を白黒させた。
だが、馬は数歩進んだところで苦しげにその足を折る。
転倒する前に、パトリックはセリナを抱えて馬を飛び降りる。
(やだ、馬が!)
さっきの攻撃を避けきれなかったのか、馬の後ろ足から背にかけて太刀傷が走る。
「くそッ!」
パトリックがらしくない悪態をもらした。
セリナを木へと押しやり背後に庇いながら、彼は馬上の男に向かい合った。
ピカッと照らされた刹那に、敵の男は大声で問う。
「あんたらがそこまでして守る価値のある女か!?」
セリナが息をのむ声がしたが、それが雷光のせいかその問いのせいかパトリックには判断できなかった。
「ふざけるな!」
落ちた雷に負けないような声でパトリックが怒鳴る。
奇妙に首を傾げた格好で、男も馬を乗り捨てて剣を構えた。
ぽつぽつと降り出した雨が、地面に黒いシミをつくっていく。
「キサマらにとっちゃ、忌むべき存在なんだろーがよぉ!!」
空気を裂くように男の声は響いた。
2人の剣が交差し、すぐに相互に弾かれる。
「!!」
向けられる容赦のない言葉に、セリナは目を見開いた。
「何を、勝手なことを! 顔を隠した、卑怯な賊如きが!」
パトリックが剣を振り上げ、男に狙いを定める。
ガキンッ、と重く鈍い音がする。
男はパトリックに顔を近づけると嘲笑を含んだ声で囁いた。


「あの女は、この国を滅ぼすよ。」


パトリックの呼吸が止まる。
言葉を失ったのは、結界を通り抜けたセリナを思い出したからだ。
「!!」
その動揺が一瞬の隙を生み、あらぬ方向から来た攻撃に、反応が遅れた。
走った痛みに、パトリックは思わず膝をつく。
むっとしたように、剣を交わしていた敵は手から力を抜いて、顔を上げた。
「……邪魔しやがって。」
不機嫌に呟いた男の視線の先、林の中には同じ黒装束の仲間が弓を構えていた。
先程、道の中央へと躍り出てきた…サイモンが食い止めているはずの敵だった。
「――っぐあ!」
背後から右肩に刺さった矢を、パトリックは自らの手で引き抜く。
「パトリック!」
「来るな!!」
今にも駆けてきそうなセリナを一喝して、パトリックは剣を握り直す。
その気迫に圧されて、セリナはそれ以上足を踏み出せなくなる。
降り出した空は、すぐに大粒の雨に変わっていた。
パトリックは雫の落ちる前髪を、すっかり濡れてしまった髪ごと掻き上げる。
(何をしている、セリナ様を守るのが僕の使命だろう!?)
立ち上がり、相手から一歩距離をとる。
(惑わされるな!)
睨みつけるように敵を見据える。
馬上から落とされれば、圧倒的に不利になる。とリュートに評されてから、まだその弱点を克服できていない。
それでも、ここを退くわけにはいかない。
目の前の男は再び奇妙な角度に首を曲げた。
「災いの国賊を命懸けで守る? それじゃぁ、あんたも同罪ってことだぜ?」
ひゅんと飛んできた弓矢を、今度は剣でたたき落とす。
傷口からさらに鮮血が流れた。
パトリックの視界がクラリと揺れる。
(しまった、毒か!?)
踏み留まったパトリックのすぐ近くで、剣を持つ男の笑い声がヤケに響いた。
「いっそ憐れだな。」


「パトリック!!」


目の前の光景より先にセリナの声を認識した。
はっと意識を取り戻した時、パトリックの目に映ったのは、黒い空と痛いほどの光と銀色の刃。


そして、この雨の中で驚くほどサラリと流れる黒い髪だった。


同時に轟音が鳴り響き、大地が揺れた。
「……っ!」
倒れ込んで来たセリナを、抱き留めた腕に力がこもる。
うるさいほど心臓が高鳴り、息が上がっている。
「……セリナ、様?」
「チィ!! どいつもこいつも邪魔ばかりしやがる!!」
悪態をつく男が振り下ろした剣先を視認して、パトリックはようやく理解する。
セリナにかばわれたのだと。
「セリナ様!!」
「パトリ…ク、私は平気よ。」
黒い髪が広がる肩口、外套の一部が裂け、血がにじむのに気づいてかっとなる。
「っ!」
「大丈夫。少し、掠っただけ。」
セリナはゆっくりと笑って見せるが、パトリックは顔を歪めた。
「愚か者が。対象に危害を加えてどうする。」
弓を片手に林から出てきた男が、忌々しげに吐き捨てた。
「知るかよ! こいつが飛び出してきただけだ!」
「同じ台詞で言い訳をするがいいさ。」
「てめぇ!」
激昂する仲間に背を向けて、弓を持った男は強引にセリナの腕を掴み、パトリックから奪うと無理やり立ち上がらせた。
く…ぅ。」
無理な方向に腕を引かれて、セリナは痛みに顔をしかめた。
「その手を離せっ。セリナ様をどうするつもりだ!」
揺れる視界に首を振り、剣を構えて間に割って入るが、そのパトリックをもう1人の男が蹴りつけた。
「邪魔だっつってんだよ! あぁ、クソがっ! 全員邪魔だ!!」
「いや、放してよ!」
セリナは力の限り抵抗するが、肩の痛みに加えぬかるんだ地面では踏ん張ることもできない。
「貴女には我々と共に来てもらう。」
顔も合わさずに淡々と告げられた言葉。
「セリナ様!!」
阻止しようと動いたパトリックが、その手を伸ばす。
「なめてんじゃねーぞッ!」
鋭い言葉とともに向けられた剣をパトリックは受け止めるが、男は力まかせにそれを振り切った。
「うらぁ!!」
「ぅあ…!」
剣がパトリックの足を切り裂き、彼がその場に崩れ落ちる。
「死ねぇ!!」
ガクリと両膝をつき項垂れたような格好のその首目掛けて、男は剣を振り下ろした。


「嫌ぁ!やめてぇぇ!!」


風が吹いた。
刹那の沈黙。
次の瞬間には、ざぁざぁと雨の音が聞こえた。
ドサリと響いた音に、拘束されたまま恐る恐るセリナは視線を上げた。
「戦闘の中止を要求します。あなたのやり方は、実に効率的でない。禍根を残すような真似ばかりする。」
「……また邪魔者かよ。」
さらに増えた黒装束の人物の足下に、パトリックが倒れていた。
僅かに体が上下しているのに気づいてセリナは安堵する。
「いらねぇんだよ、そいつはよぉ! 殺らせろや!」
怒鳴る男を無視して、新たな敵はセリナに視線を止めた。
「貴女がおとなしく従えば、この騎士は見逃して差し上げます。」
その申し出にセリナは目を見開く。
「断った場合、この方にはトドメを。そして、貴女にはもう少し痛い思いをしてもらうことになりますが。どうされますか?」
「―――な。
出た声は掠れていた。
(4人いると言っていた敵の3人がここにいる……。)
深くは思考しないが、現状の意味を問えばセリナの脳裏に影を落とす。
「後から出てきて勝手なことぬかしてんじゃねーぞ!」
「目的を忘れたのですか? 勝手な振る舞いをしているのは自分の方でしょう。」
気がつけば涙が流れていた。
頬を流れているのは雨だと思っていたが、どうやらそうではないということに思い至る。
掴まれた腕が軋んだ。
「あな、たちの狙いは……私?」
雨音に消えてしまいそうな微かな呟きにも、その人物は気づいた。
「それ以外に何があるのです。」
「こん、なことに……なったのは私のせい……?」
倒れたパトリックの肩に血の赤色が広がる。
けれどそれはすぐに雨で薄められていく。
それはまるで命が消えていく様を現しているかのようだった。
(嫌だ。)
「時間はありませんよ。こうしている間にも、毒に冒された彼は死に近づいている。」
「毒……。」
「さぁ、答えを。」
有無を言わせない強さで迫られる。
(イヤだ。)
痛いほどの力で掴まれた腕で支えられているせいで、かろうじて立っていられる。
「…ぃ、けません、………リナ…様…。」
ぐぐ、と渾身の力を込めて、剣を地面に突き立て、騎士が身を起こす。
「パトリック……!!」
「あーあー。かっわいそうにぃ……ラクにしてあげようカ?」
ふらり、とパトリックに近づく男に、セリナは叫ぶ。
「いや、だ! ダメ!!」
「さぁ。」
「セ、リナ様……ッ。」
「黙ってろ!!」
「ぐっ。」
蹴りつけられて、パトリックが地面に沈み、動かなくなる。
「やめて! やめさせて!!」
「毒じゃ面白くねぇ、どうせなら血だ! オレなら、ほら、一瞬。」
剣を構え、狙いを定めた先は、倒れた彼の心臓の位置。
―――また、私のせいで誰かが死ぬのはイヤ。
項垂れるようにぬかるんだ地面に目を向け、そして静かに瞳を閉じた。


「彼を殺さないで……っ。」


「大人しく従う、ということですね?」
「……。」
「だそうです。剣を引け。」
悔しげに泥を蹴り上げる音が聞こえた。
「せっかくの獲物がよぉ! くそ!!」
気力を振り絞って、セリナは落ち着き払った男を睨みつけた。




彼が死んだら、許さない。




凄味のある声に男は目を細めた。
首の後ろに衝撃を受けて、セリナの視界が揺れる。
嘲笑うかのような声音が隣から雨と共に降り注ぐ。
「さすがは"黒の女神"。」
その言葉を最後に、セリナの意識は深くに沈んでいった。




















空の章・了

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