87.








「パトリック。」
神殿の前に立ち周囲を警戒しながら、ラスティは声をかけた。
「林に入る前……馬車を降りた時、何か言いかけていなかったか?」
あぁ、と唸るような声を出して、パトリックはすっと真剣な表情を浮かべる。
「実は、馬車の車軸に亀裂が。」
「なんだと!?」
「大声出すなよ。」
ぐっと喉を詰まらせたラスティは、声を低くする。
「なぜ、すぐに言わなかった?!」
「あの場で言ったら、セリナ様を不安させるだろう。」
セリナが近くにいた状況で、事を伏せたパトリックの気持ちはわかるが、ラスティは眉を寄せた。
レイクたちの視線を避けるように顔を背け、声を抑える。
「そんな状況なら、引き返すべきだった。」
ラグルゼの兵士が、馬車を点検しないわけがない。だというのに、大惨事に成りかねない不備があったのなら、警戒すべきだ。
馬車を止めたサイモンも、それに気づいたはずだ。
(あるいは、気づいたから止めた?)
「ラスティだって、わかっているだろう。引き返すのは、諦めること。僕たちが、隊長から任されてここにいるのは、セリナ様の力になるためだ。」
パトリックが、その役目を果たそうとしていることは十分わかっている。
ラスティは、神殿を振り返った。
ここまで来た以上、今更引き返すなどという話が無意味なこともわかっている。
「……。」
ラスティが人影に気づいたのと同時に、アエラの声が響いた。
「セリナ様!」








外へ出るとアエラが駆けて来た。
「お待たせ。」
何気なく顔を向ければ、頭を下げている4人の男。
苦い顔で笑ってセリナは声をかける。
「雨が降りそうね。」
すぐにパトリックが顔を上げて、セリナの元へ近づいて来た。
「他に調べたいところはありますか?」
「いいえ。そろそろラグルゼに戻らないといけないのでは、と思って。」
レイクが一歩前に出る。
「そうですね。この天気なので、暗くなり始める前に林を抜けたいところです。」
「雨を凌ぐ場所もないですし、濡れて風邪を召されても良くない。」
サイモンの言葉にアエラが大げさに頷いて見せた。
話がまとまると、レイクとサイモンは繋いだ馬を引きに行った。
「何かわかりましたか?」
アエラが小さな声で問うた。
隣の少女を見おろしてセリナは、同じく小さな声で答える。
「精霊に会った。」
「え!!??」
突然の大声にラスティたちはもちろん、離れたところにいるレイクたちまで振り向いた。
慌てて口を押さえて、すみませんとアエラは小さくなる。
「ど、どういうことですか。この中にいるということなのですか?」
「もう、いないわ。私が中に入ったのに気づいて、やって来た感じ。」
「見えたのですか、精霊が。」
よほど驚いたようで、珍しくありありと表情を浮かべたラスティが呟く。
「向こうも驚いてた。まれだって。」
「それは、つまり……声も聞こえたということですか?」
「やっぱり普通じゃない?」
セリナの言葉に、ラスティは奇妙な顔で口を閉ざした。
「精霊に会えるなんて……。」
アエラがぽつりとこぼすのと同時に、パトリックが声が出した。
「それで、セリナ様の目的は果たせましたか?」
「調べる方向を間違えていたのかもしれない。精霊にも見当違いをつかれた。」
「そう……ですか。」
残念そうにパトリックは肩を落とす。
「急ぎましょう。風が湿ってきたようです。」
パトリックたちに馬を渡しながら、レイクが告げた。
セリナは風雨除けのグレーの外套を羽織ると、パトリックの手を借りながら再び馬に乗る。
往路と同じく、アエラはラスティと一緒だ。
全員が乗ったのを確認してレイクは、先頭きってオリーブの林の中を走り出した。
「寒くはないですか、セリナ様。」
いつ降り出してもおかしくない空模様。
頬に当たる風はひんやりとしているが、身を切るほどではない。
「ん、平気。」
林を入ってすぐに、ラスティは馬の足を速めレイクの隣に寄る。
「ナクシリア殿も気づきましたか。」
ちらりと目視して、レイクは語りかけた。
「そう言われるということは……特務隊とは別なのですね?」
「えぇ、どうも動きが乱れている。」
事情がわからないアエラは怪訝な表情を浮かべる。
距離を詰めたパトリックとサイモンの馬を確認して、レイクは2本立てた指で合図を出す。
「どうしたの?」
不穏な空気を感じてセリナはパトリックを見上げた。
「つけられているようです。走りますのでしっかり掴まっていて下さい。」
「え!?」
聞き返そうとしたが、スピードの増した状況に舌を噛みそうになり急いで口を閉じる。
(な、何!? なんか非常事態っぽい。)
そう考えた途端、林の中から馬が現れた。
「レイクさん! 敵襲です!! リルドがやられました。」
セリナは一瞬敵かと思ったのだが、どうやら仲間のようだ。
(今まで全然、わからなかった。)
表だって同行するのは、レイクとサイモンだけだったが、それ以外にも警護が付くことは昨夜説明を受けていた。
目立たないよう少人数で構成された一行から、距離を取って特務部の兵士2名が付いて来ていたのだが、セリナにはまったく気配を感じることができなかった。今の今まで。
「相手は!?」
「3……いや4人! かなりの手練です。」
彼が言い終わるか終らないかのうちに、横合いから馬に乗った者たちが飛び出て来た。
その数3つ。いずれも黒い装束を身にまとっている。
「サイモン! 先行しろ。林を抜けるんだ!」
「はい!」
レイクに代わり先頭に立ったサイモンに続いて、パトリックが馬を並べる。
セリナを横目で捉えたレイクは馬を反転させると、剣を抜いた。
「ここは我々が食い止める! 行くぞ!!」
「はっ!!」
報告に現れた男は、レイクの言葉に鋭く答えると抜き身の剣を構えた。
すぐさまキンという高い音が聞こえ、争う声が響く。
(ウソ、これってまさか私のせい!?)
しがみつくのが精一杯で後ろを向く余裕など無いが、嫌でも伝わる空気にセリナは青ざめる。
「まだ1人いる!」
気配に気づいてラスティが叫んだ。
さっき現れた3人をレイクたちが相手しているが、まだ敵がいるのはあまりにも簡単な計算だ。
すぐ前を走るパトリックの背中越しにセリナの姿を認め、ラスティは手綱を握る両手に力を込めた。
「ナクシリア様! わたしのことならお気になさらずに!」
まるで心を読まれたかのようなタイミングでのアエラの台詞に、ラスティはぎょっとする。
今の状況で追っ手の相手をできるのはラスティだけだ。
セリナを乗せているパトリックも案内役のサイモンも、セリナの安全を考えれば欠くことはできない。
だが、レイクのようにすぐに身を翻すことはできないのは、アエラが乗っているからだ。
「このような状況で、足手まといにはなりたくありません!」
常にない鋭さで言い放つアエラに、ラスティはその胸中を知る。
「すまない。アエラ。」
「とんでもありません!」
馬のスピードを上げラスティはサイモンの隣に並んだ。
「サイモン殿! 彼女を頼む!」
「承知した。」
「え?」
2人のやり取りの意味が分からず、アエラは狼狽する。
「アエラ、しっかり手綱を持て。」
「は? はい!!」
「彼が掴むまで決して離すなよ。」
「へ、え? あ。」
言われた通りしっかりと手綱を握りしめたままでアエラはおろおろする。
次の瞬間。
「な、ナクシリア様!?」
ラスティは自ら馬を飛び降りると、受け身を取り地に転がる。
立ち上がった時には、すでに剣を抜いて敵に向かっていた。
「ラスティ!!」
今度こそセリナは後ろを振り向くが、その姿はすぐに遠くなる。
「ぅきゃああああぁぁ、どうしたら!?」
1人、馬の背に残されたアエラは半狂乱で叫ぶ。
「落ち着いて下さい、侍女殿。」
そのアエラの後ろでサイモンの声がした。
「ぅえ!?」
併走していたサイモンは自分の馬を捨て、いつの間にかアエラの馬に移っていた。
アエラの掴む手綱をサイモンも握ると、さらにスピードを上げた。
「急ぎましょう。」
「はい。」
促されてパトリックも速度を速める。
不気味に空が光り、遠雷が響いた。
「ラスティなら大丈夫ですよ、セリナ様。あいつは強いですから。」
安心させるように告げたパトリックの言葉にセリナは無言で頷く。
オリーブの木の間を疾走しながら、サイモンは眉をしかめた。
「なぜここが……っ。」
今考えても仕方がないとはわかっていても、その思いは拭えない。
待ち伏せされていたとしか思えない。
思考を遮るように、ひゅんと風を切る音がした。
何事かと理解するより早く、サイモンとアエラの乗った馬が高く前足を上げて嘶いた。
「!!」
「きゃあぁ!!」
馬が倒れ、アエラたちも投げ出される。
「アエラ!!」
「セリナ様!」
身を乗り出したセリナが落馬しないように、慌ててパトリックは彼女を抱えた。
その間にも風を切って林の中から矢が飛んでくる。
剣を抜きパトリックが矢を叩き落とす。
セリナを護りながらなので、動きが制限され思わず顔をしかめた。
「ッ新手、いや、離脱して来たのか?」
体勢を立て直したサイモンも剣を抜く。
倒れた馬の体には矢が刺さっていて、走れそうにはない。
「アエラ!」
「わ、たしは平気です……。」
よろりとアエラが力なく立ち上がる。
サイモンにかばわれたとはいえ、あの速度からの転倒の衝撃ははかりしれない。
「ライズ殿! この道をまっすぐに!」
だが、それを阻むかのように黒装束の敵が道の中央に躍り出た。
その手には狙いを定めた弓矢。
「ここは私が!!」
剣を構えて走り出るサイモンに、矢が放たれる。
それをサイモンが避けるのを確認するより前に、敵も馬から飛び降りた。
パトリックはアエラに視線を走らせ苦渋の表情を浮かべる。
「行って下さい!!」
アエラの悲痛な声。
セリナを逃がすためには、アエラをここに残していくことになる。
「だめ、パトリック! アエラも一緒に!!」
青ざめたセリナの心情も痛いほどわかる。
パトリックは手綱を引いた。
迷っている暇はない。
「奴らの狙いはセリナ様です。」
傷つけたいわけではないが、ここを切り抜けるためにわざと告げた。
―――だから、ここを離れた方がいいのだと。
「ライズ殿!」
サイモンに急かされ、馬の鼻先を前方へ向けた。
交戦する2人の横を抜けようとするが、さらにそちら側から敵が現れた。
「!?」
先程の交戦から抜けて来たのか、それとも他にもいたのか。今はそれを確認する術はない。
「手綱をしっかりと握っていて下さい。」
「え!?」
まるで先刻のアエラのようだ。
「強行突破します!」
(ひぇぇええ!)
拒否する暇もなく、駆ける馬の背にセリナは必死でしがみ付いた。




アエラはオリーブの木に手をつきセリナを見送ると体を反転させ、盾となる覚悟で立ちはだかった。
弓を持っていた敵は、武器を剣に代えてサイモンと交戦していた。
「く……っ。」
地面の窪みに足を取られサイモンがバランスを崩す。
その隙を見逃さず敵は剣を振るう。
「―――!!」
体が硬直して動くこともできず、悲鳴も音にはならなかった。
ガクガクと震える足から力が抜けてアエラはその場に座り込んだ。
「サ、サイモ…ン様。」
掠れるように呼ぶが答える者はいない。
敵がアエラの前に立ち、その喉元に剣を突き付けた。
黒い布で覆われた相手の表情は見えない。
かろうじて覗く敵の双眸は、尖った氷のような冷淡さに満ちていた。
(あぁ、セリナ様。どうぞ御無事で…―――。)
恐怖からか閉じることすらできないアエラの瞳に、鈍色に沈む空に走る雷光が映った。
それが最後の景色。
次に来るだろう雷音をアエラが聞くことはなかった。








BACK≪ ≫NEXT