<].追い風>





77.








馬車の前の窓を軽く叩かれて、ジオは顔を上げた。
「もうすぐブランチに到着します。」
御者の声が告げる場所は、今日の宿泊施設だ。
見ていた本を膝に乗せたまま、外へと視線を動かす。
ベル・ヒルを越え、緋の塔のあるルディアス領へ入った。
他と同じように領主との会見を行い、町を視察した後、中心街からは少しだけ離れた屋敷へと向かっていた。
本を閉じて、その表紙をなぞる。タイトルは、『ラ・サウラ』。
叡智の賢者から渡されたそれを、読み進めているところだ。
ふと、セリナの顔が浮かんで、窓枠に肘をかけた。


―――世界を壊してしまうその前に、…………。


手元に視線を戻し、手の平をぼんやりと眺めた。


―――ならば。
















6月。祭礼の夜。
それは、神殿での襲撃に対しての事後処理のために動いている時だった。
神殿から西翼へ向かう途中の庭で、彼女を見つけたのだ。
関係者たちが事態の収拾に走り回っている最中だというのに、彼女はのんきに月を見上げていた。
いるはずのない場所で。






1時間ほど前に、護衛を付けて部屋に帰したはずだった。
襲われたばかりだというのに、1人で佇む姿に見間違いかと思ったほどだ。
(何を考えて……。)
ラヴァリエは何をしているんだ、という苦い思いと共に、軽率さを咎めるべく廊下から庭へ下りて声をかけた。


「セリナ…―。」


振り向いた表情に、続くはずだった言葉を失った。
ほぼ反射的に伸ばされた手にすがりつかれて、驚きながらも抱き留めるしかできなかった。
はっと気づいて、引き離そうと肩を掴むが、とめどなく涙を流す相手に、その行動を躊躇う。
「……。」
祭礼用の白い衣装を両手で握りしめられたまま、ジオは肩を震わせる少女を腕の中に置いたまま、しばし途方に暮れた。
(これは、どういう状況だ。)
頭上を仰げば、輝く月が見えた。


―――どうして、あなたが私をかばうの。


襲撃者の剣を向けられた後、声をかけたジオにひどく冷静な返事をした女神。
まるでかばって欲しくなかった、とでも言いたげな言葉。
(今更、取り乱した? ……いや。)
そうだとしても、こんなに無防備にすがりつく相手が、『自分』であるはずがない。
「……。」
誰と勘違いしたのかはわからないが、突き放すにはタイミングを逸していた。
不自然に達観している少女が初めて見せた感情に、水を差すような真似も気が引ける。
逡巡して、結局。
肩にかけていた手を、背中へ回すと、あやすようにその背を優しく叩いた。


その涙を止める術などわからなくて、そうすることしかできなかったのだ。




そのまま眠りに落ちるまで付き合った後で、そこから一番近いアルテナの間へと運んだ。
ソファに寝かせて、涙の跡が残る頬を拭い、髪に指を伸ばす。
祭礼の時は結われていたが、今は飾りが外され、ただ自然に下ろされている。黒い髪。
改めて、触れる刹那に躊躇ったのは、その色を特別視しているからだ。
掬い上げるとさらりと指から落ちて行ったそれと、伏せられた黒い瞳に、どんな力があるのか本人も知らないのだろう。
もちろんジオにもわかりはしない。
「……。」
その後、精霊を使って呼び付けたのは、女神を探している騎士たち。
彼らに後を任せて、ジオはその側を離れた。
もちろん、口止めをしてから。
西翼に来た本来の目的は、襲撃者の自死について対応するためだ。
クルスやゼノの待つ会議室へと足を向け、巫女姫一行との処理をどうつけるべきかと考えながら、視線を上げれば。


ずいぶん傾いた位置に、金色の月が浮かんでいた。
















ブランチキャッスルの門をくぐったところで、ジオは手にした本を箱へとしまう。
その箱の中に、宰相から渡された『目通し』して欲しいとかいう書類が様々に入っているのが、なんとも忌々しい。
箱を閉め、ジオは背もたれに体を預けた。
「同じ理由。」
祭礼の夜と、舞踏会の夜の、セリナの号泣は根底に同じものがある。
(女神の過去?)
そして気付いたのは、セリナの感情を動かしているのが『ここ』で起きている出来事に対してではないということ。
ここでの痛みに付随して表出してくる何かが、冷静さを装うセリナの壁を崩す。
けれど、それを引き起こした理由を知ることはかなわない。
現実の敵からなら守る方法もあるが、彼女の内にあるものからは守りようがない。
だから、何を言えばいいのか、どうすればその涙を止められるのかわからなくて、戸惑うしかできないのだ。
これまでに吐き出されているものが全てだとも思っていないが、今時点で聞き取った情報、拾い上げた言葉の欠片から、過去や思いを推量するしかない。


それはまるで、"ノアの予言"を読み解くことに似ている。








屋敷に到着したらしく、馬車が動きを止めた。
「……。」
馬車の扉が開かれ、ジオは地面に足を下ろす。
目の前に立つ灰色の屋敷は、記憶にあるより寂れて見えた。ただ、周囲に緑は増えている。
ルディアス領のブランチ"ダイレナン"。
前回、ここに足を踏み入れたのは6年前。まだ王子と呼ばれていた頃だ。
緋の塔とさほど離れてもいないこの場所で、わざわざ宿を取るのは別に時間調整のためではない。
(ここにはあまり、いい思い出はないのだが。)
先の戦で、塔の後方支援として陣が敷かれていた場所であり、建物にも戦時の傷が残っている。
何があるわけでも、居心地がいいわけでもないが、当時の記憶を喚起させる場所ではある。
騎士の士気を上げるには、十分だ。
加えて、屋敷の『機能上』も、大事な中継地点であった。
「陛下。」
近衛隊長の声に促されて、ジオは視線を戻し歩き出す。
後ろの馬車からも、扉が開いて人が出て来る気配があった。
振り向くことなく、ジオは玄関をくぐる。
「……。」
見覚えのあるホールに、昔の記憶が蘇る。


―――『こうなっても尚、あの時の判断を悔やみはしない。』


ジオに、そう告げた人物は、もうこの世にいない。
(振り返った時に、そう思える判断なら、それは真実だ。)
たとえ。
その立場や、その結末が、どんなものであったとしても。




自分の手の平を、ゆっくりと握り込む。
―――逃げないのだな。
とっくにわかっていたのに、口に出してしまった。
(瞳を逸らさないからだ。)
伸ばしたこの手から、逃げないのか、と。
容赦しないと、初めに伝えた事実は、恐怖を与えたはずだった。
次に自分の姿を見た時だって、怯えていたのだ。
抵抗らしい抵抗も見せず、力を込めた手を振り払わなかったセリナ。
その後も、何度か彼女に向けてこの手を伸ばしたが、払われることはなかった。
(なぜ拒絶しない。)
呼吸を奪いかけた手なのに。
(挙句、願うか。)


現れた"女神"は初め、この世界に無関心で、まるで傍観者のようだった。
何を考えているのかわからない存在。
とかく人は、得体の知れないモノを恐れる。
祭礼の件で選択を迫ったのは、考えていることを知りたかったからだ。
答えは何でもよかった。選びさえすれば。
そうやって、徐々に実体を捉えて来たのだ。
ここに目を向け足を付けるのなら、可能な範囲でいくらでも願いを叶えるつもりでいた。
謁見も、外出も、『知りたい』と望むことも。
舞踏会の夜、絞り出すように告げられた願いも。


微笑みながら、告げられた願いも。








それが、彼女の願いならば。








かつてのあの人のように、躊躇わずに言い切ることができるのかはわからない。
(いつか振り返った時に、その判断を悔やむ日が来るのかもしれない。)
けれど、同時に理解してもいる。


だとしても、それは今ではないと。








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