76.








ジオがその名を呼ぶ。




「セリナ。」




セリナは目を大きく見開く。
今は見えないはずの大きな月が輝いた気がした。
心臓が跳ねる。
組んでいた両手が震えた。
空の青が、草原の緑が、花の赤が、湖の光が、霞んだ。


目の前の人物が揺れて、記憶の中のシルエットと重なる。








「セリナ様?」
イサラに声をかけられて、ビクリと体を揺らす。
「どうされました? 食欲がないようですが、どこか具合でも……。」
「いえ、平気よ。」
にこりと微笑んで、セリナはフォークを口に運んだ。
草原の北側。
セリナは、陣営の中央に張られた天幕の中で昼食の席についていた。
心配をかけまいと食事の手を進めるが、セリナは上の空だった。
見上げられたサファイアの瞳。
これまでの記憶が次々と浮かんでくる。


―――セリナ。


冷静な時に名前を呼ばれたのは、初めてだった。
それに思い至って、セリナははっとする。
(『私が名前を呼ぶといつも泣くだろう。』)
冷静だったから、ようやく気づいたのだ。
ジオの声をセリナはずっと前から知っている。
(初めから、気にかかっていたはずなのに、どうして今までわからなかったんだろう。初めてしゃべった時も、受け入れてくれたあの時も、あの夜も、全部。)


―――芹奈。


そう呼ぶ人とよく似た声音。
自分では制御できない渦巻く感情を、穏やかに戻してくれた声。
押し殺していた心を、外へ出していいのだと教えてくれた声。








グラスの水を飲み干すと、セリナは天幕の外に出た。
背中にイサラとアエラの声がかかるが、それはどこか遠くで聞こえた。
頭上から太陽の光を浴びて目を細める。
その先に、アシュレーの姿を見つけて、誘われるように足を進めた。
アシュレーはセリナに気づくと、ゆっくりと頭を垂れた。
「御機嫌麗しく、ディア様。」
「こんにちは。」
緊張した面持ちのセリナを見て、アシュレーは表情を引き締めた。
「お話なら、伺いますよ。」
セリナは迷いながら顔を上げ、アシュレーの瞳にぶつかると再び俯いた。
「……アシュリオさんは、知っていたんですよね?」
「?」
穏やかな顔のまま首を傾げる。
「昨日の話の続きです。あなたは私を見つけたのが誰なのか知っていた。」
「……誰だったのか、わかったのですか?」
セリナは頷く。
その可能性をセリナは最初から消していた。そんなはずがないと思い込んでいた。
「口止め、されていたんですか? リュートも知っていた?」
アシュレーは肯定も否定もしなかった。
けれど、あの翌日、セリナの問いに微妙な表情を見せたリュートから答えは自ずと知れる。
「そんなことをできるのは彼しかいない、少し考えればわかることだったのに。あなたをあの部屋に呼んだのも彼でしょう?」
笑みを崩さないまま、アシュレーは無言でセリナを見つめる。
「語るのはあなたじゃない……のね。でも1つだけ聞かせて。」
すっと顔を上げて、セリナはまっすぐにアシュレーを捕える。
「アシュリオさんがアルテナの間に来た時、そこにもう陛下はいなかったの?」
迎えを待つことなく、離れてしまったのか。
「ソファに寝ていたのは1人だったと申し上げました。」
「…………そう、だったわね。」
視線を落としたセリナに、アシュレーは口角を上げた。
「私が部屋に行くまで側についていたお方は、ディア様の傍らに座っていましたから。」
「!!」
核心を交わしていたくせに、こんな時だけ直球で答えが戻って来る。
不意に泣きそうになって、セリナは無理矢理笑顔をつくる。
彼は、知っていたはずだ。
けれど、それを口にすることは決してない。
「言ったはずです。力を持つのは、あちらだと。」
そう言って指をさしたのは、今度は天空ではなく丘の上だった。
「あ。」
そこにはジオの姿があった。
「……ありがとう、アシュリオさん。」
「どうぞ、これ以後はアシュレーと。」
真顔でそう付け加えられて、セリナは思わず目を瞬いた。
そういうことを言われるのはもう何度目になるのか、というやりとりだ。
(いつも注意されているのに、うっかりしてた。)
了承の意を示しかけて、思い直したセリナは青銅色の髪を持つ騎士に笑いかけた。
「では、アシュレーも、"ディア"と呼ぶのをやめなくてはね。」
思いがけない切り返しだったのか、アシュレーは目を丸くした後、困ったような顔で笑うとゆっくりと頭を下げた。
















「ここの景色は、あなたのお気に入り?」
ジオの側に近付きながら、セリナは声をかけた。
返事はなく振り向きもしないが、少しだけ笑った気配がした。
風になびく髪をヴェール越しに押さえて、セリナはジオの横に立つ。
広がる景色は相変わらず心を震わせる。
―――バッカスは、まだ成長しますわ。
見てきた景色も出会った人も、すべてがセリナの心に響く。
いつの間にか「精一杯に生きること」が強迫観念のようになっていた。
それと気づかず追い詰められていたセリナを、ここまで救い上げてくれたのはこの世界だ。
(心が死んでいた私に、もう一度息を吹き返すチャンスをくれた。)
狭い世界で呼吸できなくなっていたセリナは、今立つ場所から世界は果てしなく広がっていることを思い出した。
世界に色があることを思い出せた。
自分に感情があることを、それを外に出してもいいのだと思い出した。


広がる景色を目に焼き付ける。


「あの夜、黙って胸を貸してくれたのは……アルテナの間に運んでくれたのは、あなただったのね。」


父親だと思って抱きつき、幼子のように号泣して、疲れて眠って。
(名乗り出なかったのには、理由がある。)
胸を貸したのは自分だと、ジオが自らそんなことを告げるはずがない。
あの時はまだ、信用なんてされてなかったはずだ。
夜に1人、庭に立っていれば誰でも不審に思うだろうし、それが、そこにいるはずのない相手ならなおさらだ。
妙な噂を立てるのを嫌うなら、自分から軽々しく公言するはずがない。
2度目の号泣時、セリナがジオの言葉に救われたと認識するよりも遥か以前から、彼はセリナの救いになっていた。
(ラシャクさんじゃなかった。)
確認するように考えて、セリナは一気に理解した。
(そう、最初から私は彼の声に惹かれてた。父に似ている彼の声に。そして、彼を知る度に気持ちは動いていた。)
父親を求めたわけではない。
けれど、良く知る声に似た音は、いつだって何より深くセリナの心に響いた。
厳しい現実を突きつけるくせに、わかりにくい気遣いを見せてくれる。
それに気づくたびに、嫌われているわけではないのかもと、期待する気持があったのは事実。


―――本当に知りたいのなら、本人に訊いてみるのも手ですよ。


「あの声は……あの時、宥めてくれたのはあなただった。」
ゆっくりとジオの横顔を見上げる。
「そうでしょう?」
「……。」
「ずっとお礼を言いたかったの。迷惑をかけてしまったけれど、突き放さないでいてくれてありがとう。」
セリナに視線を向けないまま、ジオは小さく息を吐いた。
「どうしていいかわからない、と言っただろう。」
その答えに、セリナはふふっと声をもらした。
「舞踏会の夜も、部屋を出たのは、『あなた』を追って……のつもりだったの。」
「!」
さすがに意外だったのか、表情を動かしたジオに、セリナはその後を思い出して苦笑いを浮かべる。
「知ってのとおり。まったくの別人で……ひどく迷惑をかけてしまったのだけど。」
「礼のためだけに?」
「そう。」
「……。」
「とても感謝していたから。」
恥ずかしくて合わせる顔もないと思いながら、ずっと会いたかったのだ。
風が吹き抜ける。
心地いい沈黙。
きらめく湖面に目を奪われて、セリナは小さく微笑んだ。
(あぁ、なんてこの世界は…………。)


「ねぇ、ジオラルド。」


初めて口にのせた名前に、少しだけ緊張が混じる。
「この世界は美しい。」
「……。」
「この国は優しくて、人は温かい。景色も、人も。この世界に触れてから、何度も心が震えたの。」
同じ風景を眺める人に、セリナは前を見たまま語りかける。
今から口にすることが、正しいかどうかはわからない。
けれど、ただ1つ言えるのは、その時『あまりにも世界は美しかった』のだ。
「お願いがあるの。」
人々が誇るこの人が、守りたいものであるならば。
(自分がソレを壊すことなんてしたくない。)


ずっとどうするべきかを、考えていた。
その時、どうすることがいいのか、ずっと悩んでいた。


ゆっくりと視線を向けるジオに、セリナは穏やかな気持ちで告げた。
「私がこの国に災いを成す存在ならば。」


持ち上げた自分の手の、その指先で心臓を押さえる。






「世界を壊してしまうその前に、私を『止めて』ね。」






―――願わくば、眩し過ぎる存在の貴方の手で。


「容赦しない」と宣言してくれた人だから。
民を守るために、必要ならば自らの手を汚すことも厭わない人ならば。
(きっと世界を守ってくれる。)
それは、心優しい人に願う、残酷な頼み。
「なぜ、君がそれを口にする。」
握りしめた拳。
苛立ちの表れた声とは異なり、その表情は苦渋に歪む。
「命を繋ぐ、責任。」
「!?」
「バッカスの視察で聞いたの。同じだと気づいたわ。"女神"を保護すると決めたあなたは、その責任を自分が負うことを厭わない。」
一度瞳を閉じて、ゆっくりと目を開く。
今なら、あの行動の意味を推し量ることができる。
セリナは自分の首に右手を添わせた。
「あれは、脅しじゃないでしょう?」
意味はそれだけで誤解なく伝わる。
あれは事実であり、彼の覚悟でもある。
「あなたはこの国に必要な人だから……私もこの国を好きだから、自分がこの国に災いをもたらすなんて嫌なの。」
「セリナ!」
「あなたに頼んでごめんなさい。でも、あなたになら……。」
「この国は、君を受け入れようとしている。それがわからないか?」
「わかるよ。それが嬉しいから言ってるの。ジオラルド。もちろん、諦めないよ。私は生きてるもの。」
鼓動を刻む心臓を押さえて、ジオを正面から見つめる。
あんなふうに『必死に』生きることを、自分に課す必要なんてなかったのに。
見えなかったのだ。
「それと気づかずに、自分を追い詰めながら生きてた私に、この世界は命を吹き込んでくれたの。息の仕方を……世界の広さを、人の優しさを…もう一度教えてくれた。そうして生かされている私は…私の存在は、人に災いをもたらすためなんかじゃ、絶対にない。」
「……セリナ、君は。」
「私が、"黒の女神"でも"災厄の使者"でも、ココを煩わせる存在にはなりたくないの。」




「だから、あなたに。この願いを。」




そう言ってセリナは微笑む。




「……。」
ジオはセリナから顔を背ける。
やがて握っていた拳から力を抜くと、再び視線を向けた。
「―――ならば。」


風が吹いて、赤い花びらが1枚―――空を舞った。




















<].追い風>へ続く









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