75.








「木の葉がついている。」
「は……?」
セリナのヴェールに引っかかった葉っぱを摘むと、ジオはそれを風に飛ばした。
「葉……? 葉っぱ。え? あ、どうも。」
さっさと離れたジオの手に代わって、セリナはわたわたと両手で頭を触る。
(ま、紛らわしいわ! ムダにドキドキしたじゃないの!!)
やり場のない怒りと羞恥で、セリナは赤面した。
「……逃げないのだな。」
「え?」
小さな呟きに思わず聞き返すが、いや、と応じてジオは手を引いた。
理解が及ばず首を傾げるセリナに、思い出したという顔で、ジオは今更なことを告げる。
「そういえば、護衛が青ざめていたな。ライズといったか。"ラヴァリエ"の。」
「!! や、やだ、すぐ近くだから平気かと。」
慌てて後ろを振り向く。
「1人でうろうろするのは感心しないが、この程度の距離で騒ぐこともあるまい。」
「……。」
矛盾するようなジオの台詞に、呆気に取られて、セリナは上体を捻ったままという、間の抜けた格好で固まった。
「貴女の周りには過保護な人間が多いな。優秀な人材だと認識しているが、君がそうさせるのか?」
視線をはずしたままかけられた言葉に、セリナはむっと眉をひそめた。
「それは、私が頼りないからとか危なっかしいからとか、ということが言いたいのでしょうか。周囲が過剰に気を遣うと?」
バカにされたような気がしてセリナは、反発するように応える。
自分自身のことはともかく、周囲の人間を過小評価されるのは黙っていられなかった。
「私が至らないと言うなら、そうかもしれません。けれど、陛下。皆が優秀であるとの認識は間違っていません。気が利くし親切で、とても良くしてくれています。」
「だろうな。そういう意味で言ったのではない。」
敵対心を露わにするセリナとは対照的に、ジオは落ち着き払っている。
「優秀な彼らが、過度に君に尽くすのは、それだけの存在であるということなのかと。」
「……?」
「褒めたつもりだ。」
その言葉に、目を丸くする。
「気を悪くしないでくれ、"ディア"。」
ジオと目が合い、セリナは言葉に詰まった。


(―――ディア……?)


セリナ自身にも理解できないほど、ジオのその言葉に動揺した。












「……ラ。アエラ。」
軽く揺すられて、アエラは夢から覚醒する。
「ふわ!?」
慌てて目を開けて、腰を浮かした。
目の前にパトリックの顔があり身を引くと、木の幹に背中がぶつかった。
「ライズ様!」
「起きた? こんなのイサラさんに知られたら、きっと怒られるよ?」
言いながらパトリックは笑う。
狼狽して立ち上がり、ちらりとパトリックを見る。
「黙っておいてあげるから大丈夫。」
「す、すみません。」
頭を下げたアエラに、確かにここだと昼寝したくなるね、とまた笑う。
目を閉じたセリナに倣って目を伏せたのが失敗だった。
すっかり眠ってしまうとは、大失態も甚だしい。
その上、当のセリナの姿は隣にない。
「セリナ様は!?」
「あちらに。」
パトリックの示す方に視線をやれば、遠目にセリナの姿を確認できた。
「わたしったら、また。セリ……!」
「待って。」
慌てて走り出そうとするアエラの手を取り引き止める。
「セリナ様なら心配いらない。」
「え?」
「陛下とご一緒だから。」
言われてよく見れば、確かにセリナの横には国王が立っている。
「話の邪魔をしてはいけないだろう。」
「そうですね、はい。」
(そうよね、このくらいの気をすぐに回せるようにならなくては。)
よし、と頷いて、気遣いが護衛にも劣っているのだと気づいて1人落ち込んだ。
パトリックに止められなければ、乱入していたかもしれない。
「僕も姿が見えなくて、慌ててしまったんだけどね。いつもラスティに言われるんだ、もっと落ち着きを持てって。」
そよそよと吹く風を受けながら、パトリックが告げる。
「そんな! ライズ様はしっかりされてます。」
「あはは。アエラもそそっかしいからねぇ。」
さらりと言われて、アエラもあはは。と力なく笑った。
「女神……なのかな。」
「え?」
静かな声を聞き逃して、アエラはパトリックを見上げる。
彼の視線の先には2人の男女。
けれど、その瞳に映っているのは黒い髪の少女だけだった。


風に乗って、レーニアの香りが通り抜けた。












「ディアって……。」
「そう呼ばれているらしいな。大神殿からの贈り物なのだろう? 良い響きだ。」
セリナの様子には気づかず、ジオは話を続ける。
「『ディア』とは、なかなか巧い名だ。自然に広まって、いつの間にか騎士の間でも定着していると聞く。存在を認めようという、意思の表れだとも言えるし……どうした?」
愕然とした表情で沈黙するセリナに、ジオは眉根を寄せた。
(ディア……巧い名って何? どうして、彼が。)
「ディアじゃない。」
「…………何?」
ジオを直視できず、セリナは俯く。
「わ、私の名前は芹奈よ。」
「……。」
「"ディア"なんて、表面だけ取り繕ったような呼び方。」
眉をひそめたまま見下ろしているジオの気配を感じる。
新星の神と親愛を意味する古語に由来すると言っていた。
大それた名称だが、"黒の女神"と呼ぶ代わりに使われているだけである。
悪意ではないけれど、それは善意とも違う。
便利な呼称として使用されるそれは、客観的には理解できると思った。
(騎士や兵士……街の人たちがそう呼ぶのは、そういうものなんだと思った。)
その名が自分を指すのだと、受け入れもした。
セリナは両手を握りしめる。
(だけど、その名を口にするのはそういう人たちだけじゃないの?)
「なぜ、あなたがその名を口にするの。」
「……。」
「国王陛下でしょう? 一番偉いんでしょう? 私みたいな小娘に、よく"ディア"なんて!」
(違う。)
言葉に出たのは、伝えたいことと食い違うことだった。
(言いたいのはそんなことじゃないのに!)
見下ろす瞳に、見くだされているような劣等感を抱く。
酷く惨めな気持ちだが、どうしてこんなふうに心が乱れるのか、セリナ自身にもわからない。
「陛下は、今までそんな呼び方したことないじゃない……! なんで今更!」
きゅ、と唇を噛んで俯く。
(嫌だ。なんで、どうしてこんなこと。)
まるで子供の駄々だ。
「ディアという名が、気に入らない……わけではないのだな。」
ジオは、自身で確認するように言葉をこぼした
「で、ディアと呼ばれるのは嫌だと?」
「……。」
少し冷静さを取り戻して、セリナは視線を逸らしたまま肩を落とす。
ふぅと呆れたようなため息が聞こえた。
「とりわけ、私に。」
その台詞に、セリナはぎょっとして顔を上げた。
「な、え。べ、別にっ、そんなことは……!」
「違うのか?」
「いや、そ……っ、その。」
反論の言葉を探すが出てこなかった。
(そうまとめられると、なんか私すごいこと言ってる!?)
「えぇと……。」
(他の人が呼んだ時は、こんな気持ちにならなかった。嫌なのは、相手がこの人だから?)
セリナはそう考えて、さらに混乱した。
ジオは静かに困ったなと呟き、顎に手をあてた。
「では、なんと呼べばいい?」
「え!? そ、それは……これまでと同じように。」
「…………。」
考え込むようにして、ジオは視線を逸らした。
「君は私を陛下と呼ぶ。私が君をディアと呼ぶことが、それとどう違う?」
「そんなこと。」
大違いだ。とは、言えなかった。
両者に差違はない。
セリナがジオを"陛下"と呼んでいるのに、相手には誰もが使うその名を呼ぶな、とはずいぶんな要求だ。
けれどそれを認めることもできなくて、セリナは苦し紛れに思いついた言葉を発した。
「私は、あなたの名前聞いてないもの!」
「―――は?」
ジオにしては珍しく、声とともに心情が素直に顔に現れた。
セリナは動揺したまま、取り消せない台詞の収拾をつけようとする。
「聞いてないもの。私の名前を知ってる陛下とは立場が違う。だから……だから別なのよ!」
「支離滅裂だぞ。」
「う。」
呆気なく玉砕して、黙り込む。
「しかし、まさか今頃、名を知らないと言われるとは思わなかった。」
些か同情を含んだ眼差しでジオはセリナを見つめた。
「ちょっと! いくらなんでも知ってるわよ!」
可哀想な子を見るような痛い視線に、セリナはびしっとジオを指さした。
誤解して憐れまないで欲しい。
「聞いてないと言ったではないか。」
「それは、あなたから聞いてないって意味よ! ティリアとかリュートとか…みんなが呼んでたから、名前はわかるわよ。」
他人が呼んでいるのを聞いて、初めて彼の名前を知ったのだ。
「というか、そもそも初対面の時に、自己紹介くらいしなさいよ! 大人なんだから、自分の名前くらい自分で名乗りなさい! いくら王様だからって、それは、人としての礼儀よ!!」
「落ち着け。」
淡々としたジオに、ぐっと詰まってセリナは深呼吸する。
「本当に、良くわからない理屈をこねる。王が一番偉いと言ったくせに、欠片もそう思ってないだろう?」
「今のは、一個人として最低限の礼儀の話よ!」
都合の悪い矛盾は、勢いで一蹴してやった。
口元に手を当てたまま、ジオはセリナを見やる。
「くっ。」
手で顔を覆ってジオは俯くと、楽しげな声を漏らした。
金色の髪が一束流れ落ちる。
空いた左手を腰において、くつくつと笑う。
「……な。」
目の前の光景が信じられず、セリナは唖然とする。
ひらりと手の平をかざしてジオはゆっくりと顔を上げた。
「いや、すまない。あまりにも確固たる主張だったもので、つい。」
笑いながら言われれば、褒めてないことくらいは察しがつく。
「笑うことじゃないと思うんですけど。」
じとっとした目を向けて、低い声で答える。
「そんなことを言われたのは初めてだ。私の名前など皆知っている、今更それを問う者などいない。」
自信過剰にも聞こえるが、それが事実なのだろう。
「ど、どうせ私は物知らずですよ。」
ジオの笑顔を直視できず、ちらちらと盗み見るように視線をやる。
「いや、君の立場からすれば当然のことだ。」
その表情は、今まで見た中で一番無防備だった。
「君の。」
笑みを引っ込めて、ジオがいつもの顔に戻る。
それでもどこか雰囲気は穏やかだ。
「名前は、できるだけ呼ばないようにしようと思っていたのだがな。」
ジオの言葉に、セリナは突然、突き放されたような、頼りない気持ちになる。
「ぇ、どうして……。」
少なくとも、セリナはジオが自分の名前を呼ばないと感じたことはない。
思い返しても、ジオは普通にセリナの名を呼んでいたはずだ。
(なぜ、そんなことを?)
目を逸らさないセリナに負けたのか、ジオは小さく息をつく。
「私が、名前を呼ぶと、いつも君は泣くだろう。」
「ッ!?」
「正確には、泣くか泣きそうになる…か?」
「そんなことは。」
ないと続けようとして、記憶を辿る。
舞踏会の夜、ジオの前で大泣きしたのは忘れようにも忘れられない。
「1回だけじゃ?」
セリナに一瞥をくれて、ジオはレーニアに視線を移した。
「自覚無し、か。かまわないが、度重なるとな。」
「そ、そんなに何度も?」
裏返った声で繰り返してから、セリナは頭を抱えた。
(い、いつの話?)
確かに彼との会話では、厳しい言葉を受けることが多かったが、セリナにその意識はない。
動揺しながら、さらに記憶を辿っていると、困ったような顔で微かに笑みを浮かべて、ジオは口を開いた。


「我が名は、ジオラルド=レイ=アシオン=クライスフィル。名乗り遅れた非礼は、どうぞお許しを。」


風で揺れたヴェールを手に取ると、その裾に軽く口づけた。
「!!」
「御満足いただけましたか、姫君。」
「っ……!」
サファイアの瞳に見つめられて、セリナは息をのんだ。
頬だけではなく、耳まで赤くなっているに違いない。
記憶の旅から、一瞬で今に引き戻された。衝撃が大きすぎる。
(〜〜〜っ!)
ジオの手からさらりと滑り落ちるヴェール。
衝撃から抜け出せていないセリナは、口をパクパクさせる。
そんなセリナを面白そうに眺めながら、ジオはふ、と息を抜いた。
「一個人の礼儀か。」
「ぅあ、それは。」
本音ではあるが、勢いに任せて偉そうなことを言ってしまったという自覚はある。
「『国は民なくしてあり得ない。王は国民を守るのが務め』。王であれ、民のためにあれとは言われ続けてきたが、面と向かって一個人だと言われたのは初めてだ。」
丘に視線を向けて、ジオは軽く口角を上げる。
(……あ。)
「与えられる称賛も麗句も、個人に向けられたものなどない……すべては王の息子、王位継承者、国王、それらの肩書きに贈られたもの。貴女は、面白いな。少なくとも、さっきは位などという意識は皆無だった。」
いつになく饒舌な国王の横顔を見ながら、セリナは両手を胸の前で組んだ。
「幼い時から周囲の言動は、裏の裏まで読むのが普通だった。会話の中にある、情報や隠された意味を見つけられないようでは王宮では生きていけない。」
風が吹く。
赤い花びらがはらりと舞った。
「君の言動には、打算がない。まっすぐで裏がないから、どうしていいのかわからなくなる。打算のない感情のままに、涙を流す人を……どう扱っていいのか。だから…名前は、極力呼ばないようにしようと。」
ジオの心を少しだけ垣間見た気がした。
けれど、それはすぐにまた深い場所へと隠される。
花びらが地面に落ちる。
セリナに顔が向けられた時には、いつもどうりのジオに戻っていた。
「"ディア"ならば、ちょうどいいと思ったのだが。本人の願いとあらば、望みのままに。」
ほんの少しだけ柔らかな表情を浮かべて、ジオはその名を呼ぶ。


「セリナ、と呼ぶことにしよう。」








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