68.








王領にある邸宅・ホワイトローズ。


長い間、家人なしであった屋敷だが、管理が行き届いているので内部は清潔に保たれている。
セリナに用意されたのは、屋敷3階の東に面した部屋だった。
王城の部屋と比べれば狭いが、それでも十分な広さがある。
テーブルの上には、やはり白バラが花瓶に活けられていた。
「食事は、2階の広間にご用意いたします。時間になれば呼びにまいりますので、どうぞそれまでお寛ぎください。」
丁寧にお辞儀をして、案内役のメイドは退室して行った。
馴染みの顔だけになった部屋で、セリナは両手でヴェールを持ち上げた。
「そういえば、パトリックの姿が見えないけど?」
顔を見合わせたアエラとイサラに代わって、ラスティが口を開く。
「パトリックなら馬を繋ぎに行きました。しばらくすれば、戻って来ます。」
「そっか。」
頭数がいるためここの使用人だけでなく、兵士の何名かも馬を連れて小屋へ繋ぎに行っているのだ。
「じゃぁ、今、パトリックは馬と一緒?」
「えぇ、おそらく。」
きらりとセリナの瞳が光る。
「馬、見に行きたい。散歩がてら、外に出ちゃダメ?」
無言でラスティがイサラに目をやり、出歩くことを許可するかどうかの判断を仰いだ。
「そうですわね。夕食まで時間もあるようですし、少し歩かれますか。」
「やった!」
イサラの答えに、アエラは意外そうな顔をした。
アエラの心を見透かしたように、苦笑しながら口を開く。
「ここでダメだというなら、馬車の中での会話の時に苦言を呈していますよ。」
「あ……。」
パトリックとセリナが話している時、その場にいたのだから当然である。
「約束を破らせるような真似を、主にさせるわけにはいかないでしょう。」
まったく、というような口調のイサラに、神妙な顔でアエラは頷いた。
イサラに手を放されて、ラスティは渋々といった感じで、わかりましたと応じる。
「少しここでお待ち下さい。メイヤード様に伝えてきますので、出歩かれるのはそれから。」
「はい。」
にっこりと返事をして、ラスティを見送る。
女神一行の視察中の行動は、エリティス隊長に代わって近衛騎士隊の副隊長であるグリフ=メイヤードが統括することになっているのだ。
しばらくして、ラスティは『大変快い承認』と共に戻ってきた。








部屋から出て、4人でぞろぞろと屋敷の裏手へと向かう。
「ねぇ、アエラ。」
階段を降りながらふと思い出して、セリナは疑問だったことを口にした。
「ブランチって地名?」
「ブランチ? いえ、地名では……。」
僅かに首を傾げて、アエラは答える。
脈絡のない質問に怪訝な表情を浮かべていた。
「さっきホールで話してたでしょ? てっきり地名なのかなって。食事のことではなさそうだったから。」
あぁ、と後ろでイサラが呟いた。
「話されていたのは、ブランチキャッスル…支城のことですね。」
「シジョウ?」
「あるいは枝城と。領地の境にある屋敷のことです。城主が常駐していない補助的な邸宅……造りによっては砦とも言います。」
「領地の境に……あぁ、それでそこで待ってるって。」
ようやく納得して、セリナはこくこくと頷いた。
玄関ホールには数名の騎士が立っていて、セリナに気づくとそれぞれが頭を下げた。
思わずセリナも会釈を返してしまい、彼らは不思議そうな表情を浮かべる。
ヴェールを被っているので表情は相手には見えないが、セリナは曖昧に笑顔を作った。
入り口とは反対に伸びる廊下を進み、裏口から外へ出る。
「グリサール領北部、王領との境にロンドという伯爵の支城があるのです。おそらく陛下を迎えるため、マナーハウスからそちらに移って待っているのでしょう。」
「……マナーハウス?」
再び耳慣れない単語にセリナは「?」を飛ばす。
石畳に沿って歩くと、しばらくして馬小屋が見えた。
「領地にある屋敷のことです。城下に構える邸宅をタウンハウスと言います。例外はありますが、基本的に地方を治める各諸侯は"社交期"にはタウンハウスに集まり、それ以外の時期はマナーハウスで過ごされるのです。」
タウンハウスのことは、ティリアからも聞いている。
「へぇ〜。別荘とは違うね、自宅が2つある感じかな。そういえば、今もまだ社交期?」
「いえ、社交期は夏の3ヶ月をさします。今はシーズンオフに当たりますので、皆様概ねご自身の領地に。」
(あら、いつの間にか終わってたんだ。)
セリナにとっては始まりもよくわからなかったが、夏の季節は過ぎたということだ。
小屋につくと、そこでは何人かの男たちが馬の世話をしており、パトリックも栗毛の馬にブラシをかけていた。
セリナたちに気がつくと、驚いたような顔を見せた後で表情を緩め、頭を下げた。
「これがパトリックの馬?」
「えぇ、シェリーです。美人でしょう?」
「うん。すごく綺麗。」
間髪入れずに答えると、パトリックが笑う。
「触っても平気?」
「えぇ。」
セリナがゆっくり手を伸ばすと、シェリーも鼻先を寄せた。
逃げるでも威嚇するでもなく、優しげな瞳でセリナを見つめている。
「ぅわあ、馬に触れたの初めて。大きいから近くに行くと怖いのかなと思ってたけど、平気ね。穏やかだぁ。瞳ぱっちり、きれー。」
顔を上気させながら、セリナが捲し立てる。
「ラスティの馬は? 隣の子?」
撫でながら、顔だけをラスティに向ける。
「はい。」
綺麗な青鹿毛の馬は、向けられた視線に気づくと小さくいなないた。
ラスティが近付くと首を突き出す。
「やっぱりわかるんだ。」
セリナの呟きに、パトリックは小声で応えた。
「カーリンは、主人以外には懐かないんですよ。」
カーリンというのがラスティの馬の名前だ。
「へぇ。」
そう言われれば凛とした姿が、つんと澄ましたように見えてくるから不思議だ。
「なかなかにわがままで。困りものです。」
カーリンの首を叩きながら、ラスティが口を開く。
抗議するように、カーリンが再びいなないた。
それを宥めるラスティの表情が和らぐ。
(あ、優しい顔。)
口ではそう言っていても、信頼関係が築かれているのはセリナにもわかった。
「パートナーみたいなもの?」
セリナの言葉にラスティが顔を上げた。
ややあってから、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべて見せた。
「そうですね。」
(あ……初めてかも。彼がこんな顔をしてくれるのは。)
驚き含めた動揺を隠そうと、セリナは両手を振る。
「あ、シェリーたちの世話してたんだよね。続けて? 邪魔にならないように見てるから。ラスティもっ。」
愛馬なら労わりたいのが心情だろう。
シェリーもカーリンも、また明日から共に旅路を歩む仲間だ。
「見ているだけでよろしいのですか?」
「いいの、それで十分楽しいから。」
パトリックは微笑んでから、そうですかと頷く。
少し離れた場所にセリナが腰を下ろすと、その後ろにイサラとアエラが控えた。
「イサラは、馬に乗ったことは?」
「ありますよ。主人のお供や使いで必要でしたから。」
『主人』との言葉に王妃の単語が蘇るが、それについて言及することもできずセリナは別の質問を発する。
「やはり習うの?」
「えぇ。周囲が当然に乗れていたので、自然の流れで学びました。」
「アエラは?」
「わ、わたしはだめです。まず乗れないしッ……乗っても落とされるし!」
「落ちる、じゃなくて落とされるの? 馬に?」
問うたセリナに、アエラは肩を落とす。
「いえ、その。なんというか、どうにも苦手で。蹴られそうですし。」
「馬は賢い動物ですから、こちらが気をつけていれば、蹴られたりしませんよ。」
「そう、なんでしょうけど。」
頭ではわかっているんですが、とアエラは情けなく呟いた。
移動手段や荷物を運ぶのに利用されている馬は、ここでの生活に不可欠な存在だ。
「馬が苦手なら、いろいろ不便そうね。」
セリナの独白に、アエラはしみじみと頷いた。
「セリナ様も、乗れるようになった方がよろしいかもしれませんね。習ってみてはいかがです? 今の講義内容に、乗馬は入っていなかったはずですよね。」
「え? いいの? 興味はあるけど、難しそうだな。」
「きちんと教えてもらえばすぐに。」
「そうかな?」
イサラの言葉に心が動いて、セリナはふむと唸って目の前の馬を眺めた。








セリナの座った場所、控えた侍女と近くにいる騎士、出入り口の位置を把握してから、ラスティはブラシを手に取る。
だが、カーリンに手を伸ばす前に、パトリックの様子に気づいて動きを止めた。
「……。」
その視線を感じたのか、セリナを見つめていたパトリックが弾かれたように、ラスティの方を向いた。
「……あ。」
気恥ずかしそうな表情を浮かべて、彼は頭を掻いた。
いなないたカーリンに、ラスティはその首をゆっくりと撫でてやる。
何も言わないラスティに、パトリックから口を開いた。
「隊長の代わり…は無理かもしれないけど、しっかりお守りしなきゃいけないなと思って。」
「……そうだな。」
短く答えてちらりと視線を流せば、パトリックは愛馬に向き直るところだった。
「やっぱり、お優しくて素直な方なんだよなぁ。」
呟きを肯定するように、シェリーが首を振る。
お前もそう思う?と声をかける相棒の騎士に、ラスティは苦笑を浮かべて、カーリンにブラシを当てた。












ジオに用意された部屋は、屋敷の3階にある主寝室だった。
足を踏み入れると、目の前の机に白バラが活けられている。
その花瓶の前に赤いクッションが置かれ、その上に"贈り物"が載っていた。
精緻な彫りと金色のフレームが施された四角い宝石箱だ。
蓋を開けると、ガラス細工のバラが1本入っていた。
そのバラを、窓から差し込む夕日にかざして、ジオは目を細めた。
(見事に隠し込んだものだ。)
箱の右隅にバラの茎を差し込む。
途端、透明なガラスの花は色彩を帯びた。
緑の茎と葉、赤い花弁。
そこから、きらきらとあふれ出た光の粒子が、空中に文字を綴りだす。
「あぁ。」
納得したように呟いて、ジオは手の平を差し出した。
ジオの魔力に反応して、ゆらゆらと揺れる文字は、意味のある順序へと並び変わった。
魔法で隠されていた手紙は、彼以外には読めない物だ。
宝石箱の底に描かれた鷹の刻印にジオは息をつく。
「"ソラリスの鷹"……ずいぶんな念の入れようだな。」
通常は、王城のジオの部屋へ届けられる類の手紙だった。
(視察で移動するのを考慮しての采配か。)
他人の手に一度預ける方法を選んだのだから、念を入れるのは当然でもある。
光の文字が告げる内容に、ジオは渋面を浮かべてもう一度息を吐いた。
開いた手を閉じれば、光が散る。
同時に、箱の底の刻印が光り、差し込まれていたバラを熱のない青い炎が焼いた。
「気の利くことだ。」
呆れたような感心したような感想をもらす。
後には、なんの変哲もない箱が残るだけだ。
ジオは落日の茜色の空に視線を移して、眉根を寄せた。
見ているのは西。
もたらされたのは不穏な知らせ。
「アジャート、視察への牽制のつもりか……?」
















「そろそろ戻りましょうか。メイドが呼びに来る頃ですわ。」
イサラの声でセリナは立ち上がる。
他の騎士たちの視線もあり、あまり長居することはできない。
ただでさえ特異な存在である少女が、馬小屋などにいるのだから気にならないわけがない。
片付けのあるパトリックを小屋に残して、セリナたちは来たのと同じ顔ぶれで歩き出した。
「夕焼け綺麗ね。明日も晴れかな。」
茜に染まり黒と混じる西の空を見上げて、セリナは呟くように告げた。
視界を遮るヴェールを持ち上げる。
(人目を気にしなきゃいけないっていうのは、ずいぶん面倒だわ。)
ガチャリと屋敷の扉が開いて、見知った騎士が現れた。
「これは。」
ゼノ=ディハイトはセリナに気づき、目を瞬いた。
「こちらにおいででしたか、ディア様。」
(ディア?)
そこに中からテイラーが出てきた。
「ディハイト様、陛下がお呼びですよ。」
「おや、そうでしたか。すぐに参る。……では、失礼いたします。」
後半の言葉をセリナに向け、頭を下げてから、ゼノは身を翻した。
執事は綺麗なお辞儀をして、セリナのために扉を押さえた。
「あ、ありがとう……ございます。」
礼を述べると、老紳士はにっこりと笑った。








部屋へ戻り、セリナはようやくヴェールを外す。
動きでおきた風に乗ってバラの香りがした。
「ねぇ、さっきの騎士さん……ディアって呼んでたけど、あれは私のこと?」
「はい。」
アエラが頷いて、イサラが後を引き継ぐ。
「あまり面識のない者が、直接名前をお呼びするのは憚られる、ということで、最近では皆がそう呼んでいますわ。巫女姫から賜ったお名前だそうですね。」
「うん……いつの間に広まったんだろう。」
巫女姫からのあの贈り物のことを、誰かに話したことはない。
不思議な事態に、セリナは首を傾げた。
予言の言葉がある以上"黒の女神"と呼ぶことは、お互いにとってあまり望ましくはない。
(国が、認めているのだから今更な話なんだけど。面と向かって"女神"とも言い難いか。)
困った彼らに、巫女姫の付けた名前はちょうど良い存在だったのだろう。
(まぁ、気遣いってことなのかな?)
そう結論付けて、セリナはとりあえず自分の呼称として受け入れることにしたのだった。








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