<\.願いを>





67.








「あ、川だ。ねぇ、見て川! 橋も見えた! 大きいー。」
ぶんぶんと手を振ってアエラを呼び、もう一方の手で窓の外の景色を指さす。
「は、はぁ。あれはクロッセ河です。」
「橋はグレートハーリア橋、もう1つ上流に架かっているのがハーリア橋です。」
セリナの向かいの席に座るアエラとイサラが説明する。
「へー。」
流れる景色から目を離さないまま、セリナが感嘆の声を上げる。
ガタン、と1度馬車が揺れ、再び規則的な音が響く。


女神を視察に同行させるということは、あっさりと発表された。
諸侯や民に動揺が広がったものの、『事情』が巧く伝わったのか混乱には至らず、また周囲の人間は、その急な予定で準備に追われたのだが、当初の日程から遅れることもなく、視察の日を迎えていた。


「セ、セリナ様、橋や川は珍しいのですか?」
妙に機嫌のいいセリナに、アエラは戸惑いながら尋ねた。
「んー、珍しいわけじゃないんだけどね。いや、石畳とかあの辺の街灯とか、中世ヨーロッパみたいだから。そこは珍しいと言えば珍しいわね。」
わかるような、わからないような、という感じでアエラは「はぁ」と頷いた。
「似ているから、なんか嬉しいのかも。」
『外出』という現状に、セリナの気分は妙に高ぶっていた。
遊びではないということはわかっているが、観光めいた雰囲気が隠せないのだ。
忍んで出かけた時とは違い、遠慮することなく辺りを見回すことができる。
右手側の窓から上流の橋を探していたセリナだったが、橋を渡りきった段階で視線の先を変えた。
「あ、後方にお城が見える。結構、離れたのね。」
少し前まであの中にいたのかと思うと不思議な気がした。
(本当に、世界が違う。まるで映画に出てくる景色。)
馬車の窓に張り付くように後ろの景色を眺めるセリナに、アエラとイサラは無言で顔を見合わせた。
「あ、窓開くんだ。こういう乗り物の窓は嵌め殺しかと思ってた。」
嬉しそうな声を上げて、セリナは上部の留め具を外して窓を押し下げた。
(身を乗り出すにはちょっと小さい。いや、貴人の乗り物だから、そもそもそういうことはしないのか?)
開閉は風通しのためという実用的な理由によるものである。
豪華だが品のいい拵えの馬車の内部には、日除けのカーテンや柔らかなクッションがいくつもある。
外見では小さく見えたが、室内は狭さを感じさせない作りになっている。
「楽しそうですね。」
セリナの視界に、ぬぅっと現われた馬から声がした。
「!?」
驚いた表情のまま馬の背に目をやれば、笑顔のパトリックがいる。
(う、馬がしゃべったのかと思った。)
内心の動揺を隠しつつ、セリナは微笑みを作った。
「うん、楽しいよ。」
「何か面白い物でもありましたか?」
「えーと、全部?かな。」
「全部……ですか?」
ぐるりと周囲を見渡してから、パトリックは「全部…」と不思議そうに繰り返した。
「さっきの橋も川も。遠くに見えるお城の姿もこの辺りの町並みも。それから、パトリックの乗ってる馬も、全部。」
笑いながらそう説明する。
「あぁ。こちらに来られてから、城の外に出るのは初めてでしたよね。」
「ん? うん…まぁ、そうかなぁ。」
抜け出したことを知らないパトリックの言葉に、セリナは横目でイサラとアエラを見つつ曖昧に答えた。
話題の転換、とばかりに窓越しに並走するパトリックを見上げる。
「馬に乗れるなんてすごいよね。」
「はは、騎士ですから。これくらいはできないと。セリナ様は、乗馬のご経験は?」
「ないよ。私の国では、日常生活で馬や馬車に乗ったりしないもの。馬を、こんな近くで見るのも初めて。」
優美に揺れるたてがみと、パッチリとした優しい目の馬だ。
「後で、馬に触ってみてもいい?」
好奇心からそう尋ねる。
少し考える素振りを見せた後で、パトリックは困ったように笑った。
「そうですね。少しだけなら。」
「ありがとう。」
「パトリック、列を乱すな。」
ラスティの低い声がして、パトリックは後ろを振り向いた。
セリナも窓から覗くが、ラスティは馬車の反対側にいるので姿は見えない。
「ごめん、ごめん。……では、また後で。」
軽い調子でラスティに謝った後、セリナに挨拶すると馬の速度を落として、馬車の後方に下がった。
それをきっかけにセリナも張り付いていた窓から身を離す。
リュートが選んだ護衛は、パトリック=ライズとラスティ=ナクシリアだった。
(城の警備にも人はいるから、動かせる人員は限られてくるものね。)
セリナが今回の視察に同行することをリュートに告げた時、いたく驚いた後でずいぶん心配された。
国王の決定だということで反対こそしなかったが、内心ではどう思っていたのかは不明だ。
ぼんやりと彷徨わせていた視界に、列の前方が見えた。
道が曲がっているらしい。
出発時、城の正面広場に用意されていた貴人用馬車は2台。
前を走る馬車には、必然的に国王陛下が乗っていることになる。
随行する騎士と、見送る騎士や兵士たちが広場に整然と並ぶ様子は圧巻だった。
(ヴェールを被って顔を隠してたとはいえ、人前に"女神"が出たのは今日が初めてよね。)
祭礼は、あくまでも限られた人しか参加していなかった。
「……。」
その存在を強調するためか、保護をアピールするためか。
城の玄関ホールへ下りる時から馬車に乗り込むまで、セリナの手を取ってリードしたのはラヴァリエ隊長のリュートだった。
馬車に乗る前のことを思い出して、セリナは自分の頬を押さえた。








セリナが馬車の横に立つ。
用意された乗降台の前にリュートが立ち止まったので、セリナは乗り込めないままその場に立ちつくした。
「リュート?」
しゃべってはいけないと言われていたが、小声で名前を呼ぶ。
白手袋をしたリュートの手に、少し力が込められる。
右手は後ろに回したままで、腰を折る。
それはひどく優雅な仕草だった。
掴んでいたセリナの手の甲にリュートの唇が微かに触れた。
「!」
体を起こしながら向けられた上目づかいの視線にぶつかり、セリナは再度息をのむ。
「お気をつけて。」
そう告げると一歩下がり、セリナのために乗降台の前を明け渡す。


「…ありがとう。」


馬車に乗り込む刹那、セリナはかろうじて一言だけ返した。








(アピールの補強だっただけかもしれないし、貴族にはよくある儀礼なのかもしれないけど。)
挨拶でラシャクにされた時以上に動悸が激しかったのは、人目に晒されていたからだろうか。
セリナはレースの付いた白い手袋をはめた自分の両手を見下ろす。
どちらも手袋をしていたので、直接肌が触れたわけではない。
馬車に乗った後は、はずしてもかまわないと言われたが、なんとなく手袋は付けたままだ。
(……。)
「どうかされました?」
イサラに問われて、はっとセリナは顔を上げる。
「いえ、なんでもないの。えーと、今日の目的地はグリサール?だっけ?」
初日の今日は移動日である。
城下の様子を見る程度で、視察に下りることはせず、夕方頃泊まる屋敷に入る予定になっていた。
「グリサール領北部にある王領に。王家の縁荘・ホワイトローズに到着予定です。」
ようやく座席に落ち着いて、セリナは首を傾げた。
「縁荘。って、別荘みたいなもの?」
「そうですね、そのようなものです。普段は使っていないので、担当執事が管理しています。」
(し、執事!?)
さらりと出て来た単語に、思わずセリナは目を瞬かせたのだった。












「……広い。」
前方に建つ館の屋根を眺めつつ、セリナは呆然と呟いた。
門をくぐり、到着したと思ってから、もうずいぶんな距離を進んでいる。
王領にある王家の屋敷なのだから、ある程度は予測していたが、前庭だけでも相当なものである。
(貴族だって城を持ってる土地柄よね。日本の家と比較する方が無理なのかも。)
浮かぶ苦笑を押さえてから数分後、アーチ門をくぐった後で、ようやく白い屋敷が近づいて来た。
ヴェールを手に取り、支度を促すイサラの様子に、やっと到着らしいと悟る。
馬車を始めとして一行が玄関前に到着し、先に随行の騎士たちが馬を下りる。
外から馬車の扉が開けられ、セリナはラスティの差し出した手に掴まり馬車を出ると、再度被ったヴェール越しに、周囲の景色に目を向けた。


玄関前には数名のメイドと老年の男性が立って、一行を待っていた。
ガタンと、前の馬車の扉が開きジオが下りてくる。
出迎えに並ぶ人たちと随行の騎士たちが一斉に頭を垂れた。
一瞬遅れてセリナも礼を取る。
こういう礼節はいくら習っていても、実際身に付くには経験が必要だ。
「お待ち申し上げておりました。」
老年の男が頭を上げて、ジオに声をかけた。
彼がここの管理人で責任者の、執事・テイラーである。
ジオの側にいた騎士数名とセリナが顔を上げる。
柔和な雰囲気をもった管理人は、視線が合うとセリナにも丁寧なお辞儀をした。
「久しいな、テイラー。変わりないか。」
ジオが親しげに応じる。
深々と礼をした後、皺を刻む笑みを浮かべた。
「はい。ジオラルド陛下もご健在の様子何よりです。」
あぁ、と答えたジオの後ろから、近衛騎士隊メビウスロザードの隊長であるゼノ=ディハイトが進み出て軽く頭を下げた。
それにも応えてから、テイラーは一行を屋敷の中へと案内する。
「セリナ様。」
イサラに小さく呼ばれて、慌ててセリナも歩き出した。
セリナたちがホールに入った後で、控えていた使用人たちがそれぞれの仕事のために動き出す。
馬を預かる者、騎士たちを部屋へと案内するメイドたち。
(手馴れている。)
様子を眺めていたセリナが視線を前に戻すと、ジオの隣に控えたテイラーが2つ折りのカードのような手紙を差し出すところだった。
「グリサール伯爵から伝言を預かってございます。」
「あぁ……。」
ちらりと眺めただけで、ジオはゼノに目配せした。
手紙を受け取ったゼノが中身を確認する。
「領内視察についての挨拶状です。明日、伯爵はグリサール領北部のブランチで出迎えに来られるようです。謹んでお待ち申し上げる、と。」
その会話を耳の端で捉えてセリナは感嘆する。
(はぁ……屋敷に着いたから今日の仕事はもう終わり、ってわけにはいかないのね。)
玄関に入ると、ホール中央に台座があり、その上に大きな花瓶が置いてある。
その花瓶には、溢れんばかりの白バラが活けられていた。
(あ、だからホワイトローズ?)
1人で納得して、ついでにホールの中を見渡す。
あまりにキョロキョロしていたので、途中でイサラに袖を引っ張られ注意を受けたくらいだ。
テイラーはホールにいたメイドを呼ぶと、案内を。と述べた。
「お部屋にご案内します。」
メイドに促されて、セリナは階段に足をかける。
上階ではなく、ホールから続く部屋へと通されるジオたちとはそこで別れた。
階段を上るセリナの背後で、部屋の扉が閉まる前にテイラーの言葉が聞こえた。
「陛下に、バラが届いております。どうぞ、ご確認下さい。」
「セリナ様?」
アエラにきょとんとした顔を向けられ、セリナは慌ててメイドの後ろを追った。
(あんなに飾ってあるのに、この上、まだバラが届くなんて不思議。)








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