62.








襲撃を阻止できなかったことも、すぐに迎えをやれなかったことも、こんなことに巻き込んだことも。
全部。








初めて見た時、触れるのをためらった。
目に映るものに身を引いたのだが、それは近づいている間に気づいていたことでもあった。
だから。
躊躇した自分に驚いてもいたのだ。


星の輝く夜に名前を呼んだ時、振り向いた彼女の顔を忘れない。
紡いだ音への、相手の反応は予想外で。
縋りつく手を振り払うことも、流れる涙の意味を問うこともできなくて。
珍しく途方に暮れた。


祭礼の席で、隣に注意を向けたのは初めてだった。
視線を巡らせたのは、隣席の彼女が手を動かしたからなのか、目の前を通った精霊がひどく嬉しそうだったからなのかはわからない。
その時、初めて微笑む彼女を見たのだ。
目を奪われた理由を考えれば、決してその笑みに魅せられたからなどではなくて、魔力が皆無の少女が精霊をあやしていたからだ、と容易に察しがつく。それが答えだと納得するが、それでも何か言いようのない引っかかりが残ってしまった。


城を抜け出した少女を、自ら迎えに行った行動の意味を知らない。


崩れ落ち、大声を上げて泣いた少女の心の傷を知らない。


突き落とされたかもしれないと、聞いた時の動揺を理解できない。


初めに警告したのは自分だった。
けれど、その警告をなぞって彼女が覚悟を口にした時。




嫌だ、と。




心に浮かんだ感情を、伝える術を彼は知らない。








奪われた存在を、自ら取り戻すにはしがらみが多すぎて、講じることができる策は頼りない一本の糸を切らないようにすることだけだった。
取り戻すことが、正しいかどうかもわからない。けれど、過去の過ちを繰り返すことは許しがたくて、糸から伝わる情報に一縷の望みを託した。
思うように動けない歯がゆさを外に見せることはない。
混乱を招かないために、己のすべきことをするだけだ。
国を守るため。
民を守るため。
彼女を守るため。


できうる限りの手は打った。それがどれだけ彼女の力になったのかはわからない。
第一に考えるべきことは、彼女のことだけではないから。
乱暴な扱いは受けないという予想はしていた。
あの王はそれを許さない。
けれど、襲撃をはじめ、武器を向けられたのは事実。その後、どんな状況で、どんな思いを抱いたかまではわからない。
女神を利用したい隣国で見た物が、優しいモノだけだったはずもないだろう。
鏡越しに姿を見た。その後、あの国の混乱の場に居合わせたことは想像に難くない。


憔悴した表情。黒曜石の瞳は伏せられた瞼のために見えない。
国境を越え、気丈にも最後まで自分の足で戻って来た後に、糸が切れたよう意識を落とした。


暴動が起きたという城で、現場にいた少女が受けたダメージは計り知れない。
("女神"があの城を抜け出せるような混乱。)
それは、決して彼女の存在がもたらしたものではない。
否、彼女のせいであるはずがないのだ。
惨劇が繰り返される間際。
戦火の口火が切られる刹那に、内側で何かが崩れた。それはあの国が積み重ねて来たこれまで行いの結果だ。
その罪を少女になすりつけて、楽になろうとすることは許されない。
"黒の女神"が怖いのはそこだ、とジオは思う。
(あらゆる事象において、その存在がスケープゴートのようになってしまう危険性。)
不幸を誰かのせいにしてしまえば、自分が楽なのだ。それが、わかりやすく「特別」であれば、尚更押し付けやすい。
(だから……。)


―――未だ、解呪の方法もわからぬと見える。魔法大国の王が聞いて呆れるな。


不意に甦った声に、ジオは拳を握り込む。
(まさに"呪い"だな。)




「じ…オ?」
小さく掠れた声に呼ばれ、見ていた報告書から視線を上げた。
読んでいる途中で意識が別に飛び、先に進んでいなかったことに気づく。
身じろぎして起き上がろうとする相手を制して、息を吐いた。
「いい、寝ていろ。」
「……。」
大人しくこちらの言葉に従い力を抜いたものの、目は閉じないままだ。
「ここ、フィルゼノン?」
「あぁ。」
「戻って、来たんだよね。」
「そうだな。」
「そっか。」
「いいから、もう少し寝ていろ。」
ゆっくりと2度瞬きをした後で、声が紡がれた。
「ねぇ。」
「なんだ。」
応じるが、続く言葉はなかなか聞こえずセリナに目を向ける。
思いがけず漆黒の瞳に見つめられていて、言葉を失った。
「……ううん、なんでもない。」
「……。」
「ジオ。」
「なんだ。」
おそらく目的はない呼びかけ。だが、応じるのに面倒だとも感じない。


「――――っ。」


声を詰まらして顔を覆ったセリナに、静かに椅子から腰を浮かせる。
手を伸ばしかけて途中で止めた。
「休め。……話があるなら、後で聞く。」
小さく呟いた少女を見下ろしながら、ジオは目を眇めた。


口に出しかけた言葉は、立場が邪魔をして音にできなかった。
それを言って、許されるものでもないだろう。
(全部だ。)
椅子に座り直し、ジオは組んだ手の上に額を乗せた。
(そもそも、彼女を"黒の女神"にしてしまったことから、全部。)
同じ過ちを繰り返すことは許しがたい。
『あの時』の喪失感、やり切れなさをもう一度味わうことも、周囲に味あわせるのも。
だから、これは後悔とは違う。
セリナが現れたあの日をやり直せるとしても、ジオは同じ判断を下す。


やがて聞こえてきた規則正しい寝息に、ジオは顔を上げた。


そのために、すべきことをするだけ。
(セリナに、"あの人"と同じ思いはさせない。)
























部屋のバルコニーに出て、セリナは花咲く庭をぼんやりと眺める。


あの翌日、セリナは昼近くになってから目を覚ました。
既にジオの姿はなかったが、部屋にいたアエラとの再会は大変だった。
セリナが名前を呼んだ途端、その場に崩れ落ち号泣したのだ。
泣きながら、無事で良かっただの、役に立たなくてごめんなさいだのという趣旨のことを、切れ切れに訴えていたのだが、ほとんど聞き取れなかった。
イサラと2人で、必死で宥めた。
怖い思いさせてごめんね、と告げたら、余計にアエラの嗚咽が酷くなったので後は黙っておいた。
一緒にアエラの背中をさするイサラにも、心配かけたことを謝ると、彼女はゆっくりと首を振った。
「セリナ様がご無事に戻られて良かった」と言ったイサラの瞳が潤んでいて、セリナもつい涙腺が緩んでしまった。
(フィルゼノンに戻って来た。みんなの無事も確認できて……。)
重い体は、さらに1日休息をとると、ずいぶん楽になった。
疲れに効くという薬湯を準備したのは、ここの執事だと聞いた。
(向こうは、どうなったんだろう。"緋騎士"は兵が退いたって言っていたけど。戦は? あの騒ぎで、今みんなは……。)
セリナのところまで、外の情報は聞こえて来ない。
(『何をしたか』って。私が、何をした? 何ができた? 一緒にいたのに、あの場所にいたのに。)
きゅっと唇を噛み、そのまま俯く。
(何を。)
「セリナ様。」
急に名前を呼ばれて、セリナは肩を揺らす。
慌てて振り向くと、イサラが立っていた。
「っ。」
「今日は少し冷えるので、外に出るなら羽織っておいてください。」
セリナの動揺などないかのように、イサラは上着をセリナの肩にかける。
「あ、ありがとう。」
「花をご覧に?」
「……あぁ、うん。」
特に観賞していたわけではないが、セリナは頷く。
「白バラ以外にも、綺麗な花が咲いてるなって思って。」
ここはこんなにも綺麗に花が咲いているのに、と浮かんだ仄暗い気持ちは押し込める。
比較したところで、何も変わりはしない。
上着を押さえ身を翻しかけて、ふと隣のバルコニーが視界に入る。
「……。」
(そうだ、ここで朝日を見たんだった。)
「あの時も、薄着は風邪ひくって。」
つい口からこぼれた言葉に、イサラが首を傾げたので、慌ててなんでもないと手を振った。
今は誰もいないその場所をセリナは見つめる。
(何をした、何ができた、に意味はない。)
話があるなら聞く、と言われた言葉を思い出し、上着を掴む手に力を込めた。


(何をするか。私に、何ができるか。今、できることを。)
















「もう本当に体調は良いの?」
「心配をかけてごめんなさい、ティリア。」
「それはいいの。こちらこそお見舞いが突然になってしまって、ごめんなさいね。」
「ここは、許可がないと入れないって。それと関係が?」
「実はお兄様に無理言って、ホワイトローズに訪問できるよう手配してもらったの。普通にお願いしても、許可がおりなくて。時間が決められていて、長居はできないけれどね。」
「ティリアでも?」
「今は特に警備が厳しいから。」
神妙な顔で頷くセリナ。
その顔色が悪くないことに、ティリアがそっと息を吐く。
「視察が終わってから今まで、セリナはずっとここで静養していたことになっているわ。」
「私、結局どのくらいいなかった?」
「ひと月くらいね。元気になったら城に戻るって話で。でも、城の関係者は、不在だったことはわかっている。」
「そうだよね。」
肩を落とすセリナだったが、情けない顔で笑みを見せた。
「どんな話になってるんだろう。」
「噂はいろいろだけど、心配はいらないわ。セリナの肩身が狭くなるようなことにはならない。」
ティリアの言葉に、セリナは目を瞬く。
(この言い方は。きっと、そうはならないように動いている人がいるってことだから。)
そう指示をした人物にも心当たって、セリナは胸元を押さえた。
(どうして。『そう』動いてくれるんだろう。)
「セリナ?」
首を傾げたティリアに、セリナは笑みを浮かべ直す。
「いえ、すぐには城に戻れないから、ここに滞在をって言われてるの。その調整ができるまで、ってことなんだろうなと思って。」
その言葉に、ティリアが小さく頷いて納得したような顔を見せた。
「城の中も外も慌ただしい状態よ。隣国も動きがあったようだけど、まだ詳しいことまで聞こえて来ないわ。」
「しばらくは、このままなのかな。」
「そうねぇ、でもきっと、滞在は数日のことだと思う。」
そんなに早く?と首を捻りかけたセリナに、ティリアが微笑んだ。
「いつセリナが戻って来てもいいように、準備は整えていたもの。」
目を瞬いたセリナは、どう返していいのか困って、水の入ったグラスに手を伸ばした。
嬉しいような、気恥ずかしいような、ありがたいけれど同時に申し訳ないような。
(災厄の使者、"黒の女神"だって言ってるくせに、いつもそう。向けられるのは、敵意じゃなくて気遣い。)


しばらく雑談をしていたが、やがて館のメイドが、馬車の準備ができたと言って部屋の扉を叩いた。
顔を見合わせたセリナとティリアだったが、「そういう約束で訪問したものね」とティリアは椅子から立ち上がる。
「メルフィスでセリナを待っている。と言いたいところだけど、実はこの後、家へ戻る予定なの。」
「家、というと領地の? マナーハウス。」
「えぇ。」
「そっか、そうだよね。社交期が終わったらみんな戻るって。」
ホワイトローズから帰るティリアを見送ろうと、セリナも一緒に部屋を出る。
見舞いに来たのに、見送りなど不要だと部屋に押しとどめるティリアだったが、せめて玄関までとセリナも食い下がる。
押し問答をしていると、廊下にいた館のメイドに咳ばらいをされてしまい、結局先に折れたのはティリアだった。
「もしかして、ティリアがメルフィスに残っていたのは……。」
眉尻を下げたセリナに、ティリアが微笑む。
「わたくしが羽を伸ばしたかっただけよ。本当はリビス祭までの予定だったから、さすがに一度帰らなくてはね。」
玄関ホールまで行くと、そこで赤髪の侍女カナンと巻き髪の侍女リルが待っていた。
ティリアに気づいて背筋を伸ばし、表情を変えないままながら、セリナにお辞儀を見せた。
見送りのためなのか、玄関には執事のテイラーの姿もある。
「カナンとリルはここから先には入れなくて。」
こっそりとティリアがセリナに耳打ちをする。
(警備が厳しいって、徹底してるなぁ。)
階段を降りたところでティリアが振り返る。
「さ、セリナの見送りはここまでよ。」
「また会えるよね?」
「えぇ、きっとすぐに。」
ひらひらと手を振って、玄関をくぐったティリアたちを案内するのは執事だ。
その向こうにアーカヴィ家の馬車がすぐに待っていた。
馬車が見えなくなるまで、ホールの窓から見送ってセリナはほぅと息をつく。
邸内から外に出ないようにと言われているので、一応それは守っている。
視察の時、メイドや侍従がたくさんいた館だが、あれは視察に備えて人を増やしていただけで、本来ホワイトローズで働く人数は10名にも満たないという。
筆頭のテイラーをはじめ、王領の使用人たちはいずれも長年勤める信頼の厚い者たちなのだというのはイサラの談だ。
(静かで穏やかな空間は、確かに静養するにはうってつけかもしれない。)
空気も綺麗で、景色も美しい。などと考えていたセリナは、ふと目の前の光景に首を傾げる。
「こんなところに壁あったっけ?」
来たとおりに廊下を戻ったつもりだったのだが、思った場所に部屋の扉がなかった。
(間違えた。)
さっきの廊下へ戻るべく踵を返す。
「!!」
「わ、ごめんなさい。」
角を曲がってやって来たメイドと出合い頭にぶつかりそうになる。
衝突を避けたメイドはバランスを崩し、その手に持っていた箱を取り落とした。
体勢を立て直した相手は、セリナを見て目を丸くした…気配があった。というのも、長い前髪のせいでその瞳はほとんど見えなかったからだ。
焦ったように一歩下がり、頭を下げる。
「失礼いたしました。」
「いえ、こちらこそ。曲がるところを間違えてしまったみたいで。」
「間違え……。」
「部屋に帰りたかったのだけど。」
「ディア様のお部屋でしたら、もう1つ先の廊下の奥です。」
セリナは足元に落ちた箱を拾い上げる。
それは精緻な彫りと金色のフレームが施された四角い宝石箱だった。
細かい彫りの模様はバラ。
落ちた衝撃で蓋が開いたが、中身は入っていなかった。
「これ、あなたの物よね。壊れてないかな?」
メイドは奪い取るようにそれを受け取り、その動きとは対照的に丁寧なお辞儀を見せた。
「お気になさらず。私は仕事がありますので、これで。」
引き止める間もなく立ち去った銀髪のメイドを見送り、セリナは廊下に戻る。
(もう1つ先。って、この廊下こんな長かったっけ?)
不思議に思いつつ足を進めれば、今度は目的の扉の前に着いた。
「セリナ様、おかえりなさいませ。」
出迎えたアエラに、ただいまと応じる。
一度だけ廊下を振り返るが、セリナは小さく肩をすくめた。








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