56.








時が止まった。




何かが破裂するような鋭い音が響いたせいだ。




何が起こったのか、わからなかった。
否。わかりたくなかった。




「ぐぅ…!」
どさり、と重い音。
呻きながら体を傾けたのはアジャート国王。
持っていた剣を床に突き立て支えにしたのもつかの間、謁見の間に敷かれた赤いじゅうたんの上に倒れ込んだ。








「どう…してっ。」
口元を押さえても、声がこぼれる。
震える手に力を込めて、セリナは嗚咽が漏れるのを堪えた。
崩れ落ちそうなセリナを支えてくれるルーイの顔も、色を失っていた。
「兄上、なんということを……。」




イザークの腕を取るのだと思っていたエドの手には、黒く鈍く光る何かが握られていた。
(そうだった、"銀の盾"のところにもアレはあった。)
彼が持っていても不思議はない。
ゆっくりとエドはイザークの手を握り、そして数秒、顔を伏せる。
「さぁ、黒の女神。長らく続いた戦いを終わらせよう。」
イザークを床に横たわらせ、エドが立ち上がった。
「そして僕は、この地に平和をもたらす"英雄"になる。隣に女神の姿があることは、それだけで『力』になると言ったでしょう。」
「エ、エド。」
「まずはイレの地。グラシーヴァ卿を戻して、まずは事態を収束させないと。国内の騒ぎが落ち着くまでは、『アジャートの武器庫』は彼に抑えてもらうのがもっとも効率的だからね。」
「卿は……恩人だって。」
「えぇ。イレは重要な土地。卿には後々退いてもらいますが、まぁ、暗殺するようなことはしませんよ。相手が変な気を起こさなければ、ですけど。」
状況に不釣り合いな、穏やかな苦笑いを見せる。
赤く染まった服が妙な迫力を足している。
「先遣隊の兵も、手を打たないと。」
「兄上、こんなことが許されると……。」
セリナを背後へと押しやって、ルーイは掠れた声を出した。
「こんなことって、僕が何をしたって?」
エドに視線を定めたままでルーイは、剣に手を置く。
「ルードリッヒ、まさか僕に剣を向けるつもり?」
「兄上こそ、オレが見逃すとでも?」
柄を握るルーイの腕に力がこもる。


「王を討ったのは、いや、撃ったのはイザーク。そうだろう?」


「何言って。」
「アジャートを守る剣になるんだったね。なれるさ、なればいい。ルーイの腕はよく知っている。協力は惜しまない。」
「っあの優しい兄上が、どうして!」
「平和を手に入れるためだよ。この国を救うためだ。」
「そんな詭弁で、犯した罪が消えるとでも!? これは、ただの反逆行為です。」
「意見の不一致だな。残念だよ。ルーイの理想も叶えられるのに。」
「ふざけないでください!」


「君も、崇高な兵士だと思ったのだけどな。」


気落ちしたように顔を伏せるが、薄紫の瞳をひたりとルーイへと向けた。
「まぁ、仕方ないね……なかなかすべて思い通りに、とはいかないものだ。」
ふぅ、と小さく息を吐く。
「剣の腕はとても敵わない、けど、これならどうかな。」
体の陰に隠れていた右腕を持ち上げる。
引き金に指をかけて、キール・バーダがルーイに向けられた。


「!!」


距離の差。剣の間合いに入るために、ルーイが詰めるべきそれは、エドの武器には関係ない。
エドの指先に力が込められる。
「やめっ…!」
震える足を叱咤して、セリナは目の前のルーイへ腕を伸ばす。




「王妃様、なりません!」
「離せ、無礼者。わたくしに指図する気か!」




鋭い声と共に、広間の奥の扉が開かれる。
姿を見せたのは、赤いドレスを揺らすグレーティアとオリーブ色の制服を着たダンヘイト隊長ギゼルだ。
「陛下! 外の騒ぎは……っ!」
背後のギゼルを振り払い、きっと睨みつけるように広間に瞳を向けた王妃は、その場で固まった。
状況を把握するためか、言葉を失ったままその場にいる者たちを順に眺めやる。
一方のギゼルは、一瞬で事態を確認し、臨戦態勢を取っていた。
その手には既に剣が握られ、『敵』に狙いが定められている。
王妃の口が、無音のままエドワードと動く。








「母上。ここは危険です、部屋へお戻りを……。」
視線をグレーティアと向けた、エドの台詞は最後まで紡がれなかった。


乾いた音が響く。


崩れ落ちるように、床に膝をついたのはエドワード。
「っ。」
絞り出すような息を吐き、自分の胸を押さえた。
「…っは。アジャートの王ともあろう人が、背後からの不意打ちとは。」
彼の手が流れ出る赤色で染まっていく。
首を巡らせ、床に倒れたままの王へ薄紫の瞳を向ける。
王の手に握られたキール・バーダの銃口から煙が上がっていた。


あの鏡の部屋で、使われたそれだった。


「エド…ワ、ード。」


「情けを、かけたのが間違い…った。あの王妃の子、ゆえ、いずれ…お前も気づく…だろ…と。」
「へ、陛下。エド…。」
わなわなと体を震わせて、王妃は数歩進み、床に座り込んだ。
「ワシは誓ったのだ。終わ…せると。」


「―――ッ!!」


「陛下!」
ギゼル=ハイデンが鋭い声を上げ、剣を振り上げた。




「!!」
「セリナ!」
目を見開いたセリナだったが、その視界はルーイによって遮られた。
抱き込まれ、耳も塞がれて。訪れたのは暗転と静寂。




アジャート王へ向けて再び銃を構えたエドワードと。
それを阻止しようと踏み出したダンヘイトの隊長と。
誰が、何が、どう。そこで起こったのか。
































「セリナ。」




目の前は真っ暗なのに、頭の中は真っ白だ。
「セリナ。」
ごく至近距離で、アメジストの瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「……。」
見えるのはルーイの顔、揺れる青い髪。
肩を軽く揺らす動きに、彼に名前を呼ばれていたことに気づいて、ようやく瞬きする。
「ルーイ……。」
声を出すと、ルーイはあからさまにほっとした様子を見せた。




彼の肩越しに見えた光景に、セリナは身を強張らせた。
エドとイザークの姿は見えず、床に広げられた赤い布の傍らに、顔を伏せたギゼル=ハイデンが膝を付いていた。
布は元々壁に掛かっていた飾り幕だ。アジャートでは、砦や城の他の部屋でもよく飾られていた。
倒れたアジャート王の隣には、グレーティアが寄り添っている。
(何、が起こった……?)


床に落ちたキール・バーダが、ひどく異質な物に見えた。




「国のためにと非道な剣も振るった。このまま、と思ったこともあったが。この世は止まることを知らぬようだ。」
天井を見たままアジャート王は、言葉をこぼす。
「繰り返さぬと…この手で終わらせると……。」
「陛下っ…。」
「グレーティア。」
「陛下、わたくしはここに。」
「迷惑を…かける。」
ぶんぶんと王妃は首を振る。
握った手に力がこもる。
赤いドレスが、さらに赤に染まる。
「あの子を、救ってやれんかった……許せ。」
「ウルリヒーダ様っ!!」
はらはらと涙をこぼし、グレーティアはウルリヒーダに抱きついた。
「だから戻れと……言ったのにッ、こんな…申し訳、ありません、ウルリヒーダ様。」








「……どうして、こんな。」
ずるりとセリナはその場に座り込む。
セリナ、と名前を呼んだルーイが、こちらに手を差し出しかけた時。


ドン!と床が大きく揺れ、ひと際大きな衝撃に襲われた。


ぎょっとしたのはセリナだけではなかったらしく、グレーティアの悲鳴も上がる。
「王妃様!」
「セリナ!」
ギゼルの声が聞こえたと同時に、自らもしゃがみ込んだルーイに引き寄せられ、セリナは彼の服を掴んだ。
物が壊れる音が響く。
おそらくこの広間の外でも、同じ状況なのだろう。




揺れがおさまった後、そろそろと顔を上げる。
壁と床には亀裂が走り、壁際に飾られていた彫像が倒れていた。
(今の、地震……?)
「また"盾"の仕業か?」
ルーイが身を起して、天井を見上げる。
(盾……今のも?)
だとしたら、彼らの計画は成功したのかもしれない。
彼らが奪った食べ物が、飢えに苦しむ者たちの元へ届けられたなら。


「王妃様、ここは危険です。避難してください!」
パラパラと天井から何かが落ちて来る。
立っている柱にも、ヒビが入っていた。
ギゼル=ハイデンの声に、グレーティアが身を起こす。
「ウルリヒーダ様を、エドを……置いていけない。」
「陛下は私が運びます! 殿下もすぐに。ですから、お早く。」
ダンヘイト隊長の指示に、ようやくよろよろと立ち上がり、わかったと頷く。
僅かの間ぼうっとしたものの、王妃は乱れた髪を耳にかけ、顔を上げた。
「ルードリッヒ王子、無事か。」
声を出したグレーティアは、既に毅然とした姿を見せていた。
「この混乱を収束させねばならない。わかるな。」
「は。」
床に片膝を付いたルーイが、短く答え頭を下げた。
セリナが視線を向ければ、王妃と目が合う。
何も語らず、けれど、グレーティアは涙に濡れたその瞳をゆっくりと伏せた。
「では、王子。急ぎ、己が成すべきことを成せ。」
再び頭を下げた後で、ルーイはセリナの方を振り向く。
「セリナも、すぐにここから避難を。立てるか?」
ルーイの手を借り、セリナはふらつきながら立ち上がる。
次にセリナが顔を上げた時には、グレーティアはギゼルが開けた奥の扉から出て行くところだった。
(……。)
そうしようと意識したわけではなかったが、床に刺さった剣が視界に入る。
けれど、ルーイに頬を挟まれ、すぐにその光景から顔を外すように仕向けられた。
「ルーイ……。」
「断じてお前のせいなどではないからな。」
胸が詰まる。
声が出ない。
「こんな事態になったのは、今までの行いの報いだ。それだけのことを、この国の者が、オレたちがしてきたということ。」
「けど…っ!」
「"黒の女神"は災いを招かない、と言ったことを覚えているか?」
強い口調で問われ、セリナは逡巡したのち頷く。
「忘れるなよ。」
目の前で起こった惨状を、誰かのせいにすることはとても楽で容易いこと。
けれど、彼はそうしない。
「お前は、災いではない。夜明けを導く"黎明の女神"。肩書をたくさん持っているようだが、二つ名を与えるなら、それこそお前に相応しい。」
セリナは、首を横に振る。
「光を導くのがこの国でないとしても、その価値に変わりはない。」
もう一度、セリナは首を振った。
「ま、お前にとって、女神はうんざりかもしれないな。」
眉を下げて、小さく笑う。
「とにかく、セリナが負い目に感じることなど、何1つもない。」
決してセリナを責めたりはしない。
それどころか、セリナを救おうとすらしてくれる。
(あぁ、この人は……。)


―――言っただろう。この手を取れば。アジャートにいる間は、オレがセリナを守ると。


セリナは、ルーイを見つめる。
似ていると、思った。
もう1人。知っているあの人と。
セリナは胸を押さえる。
嗚咽を堪えて、俯いた。
目を逸らしたくはなかったのに。


耳に心地いいエドの語る理想を、実現できると手を貸したのは自分だ。
それが彼の行動において、動機の1つになったことを、否定などできない。
それはあまりにも美しすぎて。
そうなればいいと本気で思った。
頭の中だけで組み立てた理論だと、気づかなかった愚かさに思い至っても遅すぎる。
心はずっと前から、警鐘を鳴らしていたのに。
自分で選んだ道だと思っていたけれど、彼の示す選択肢では、初めから彼の望む答えに誘導されていたこと。
右腕だと公言する相手を、思うように動かしていたこと。
使いの梟を「便利な鳥」だと口にした彼が、それを道具としてしか見てないということ。
目にしたその時々に、引っ掛かりを覚えながら、その違和感を口に出せなかった。
もっと早く確かめるべきだった、たった1つの質問すら、答えを聞くのが怖かった。
(一度も、私を名前で呼ばなかった。)
誰よりセリナを『女神』としてしか見ていなかった。
(理由を確かめたら、理想的な未来にヒビが入るって、どこかで気づいていた。)


巧妙に語られた昔話で作られたのは、偽りを含んだ王子の姿。
セリナが口にした間違ったラウラリアの話。それを誰から聞いたのか、アジャート王はすぐに気づいていた。
そして、それにセリナも気づいたのに、目を逸らした。
塔に部屋を移されたのは、誰から隠すためだったのか。
そこに身柄があると知っていてなお、破壊した塔の地下。
陽動だと言ったそれは、きっと当初の計画通りで。変更しないその計画の中で、イザークたちにセリナの存在はどう伝えられたのだろう。
(囚われている塔から、陽動のついでに女神を救出することを『綺麗な理由』で語ったのだろうか。あの爆破で? 女神だから平気だとでも?)
胸が痛くなるような会話を、隠れて聞かせるよう仕組んだのは。
―――中の状況がわからないだろうから、上から確認するようにと……。


そうして、実現しようと望んだのは。


「平和な国……。」


(わからない、わからなくなる。何が正しいのか。)
戦いではなく、平和を手に入れたいと思った。
侵略ではなく、フィルゼノンに戻りたかった。
災いではなく、自分の存在を認めてほしかった。


見ている世界がひっくり返る。


赤と黒の間(ハザマ)で、足下が崩れバランスを崩す。
落ちる、と思った瞬間。世界は反転し、逆さを向いて立つ。
赤と黒の位置が変わり。
ふと気づく。
反転したのではなく、元々こうだったのかもしれないと。
見たいものだけを見ていたから、逆さの世界に気づかなかっただけで。


(こんな思いを、私は既に知っていた気がする。)


それがどこで感じたものなのかは思い出せないけれど。
『今』よりも前に、セリナはきっとどこかで。
「……っ。」


現実はそんなに簡単に、思い通りに動きはしない。
―――自分と周囲をよく見ろ。世間を知れ、現実は容赦なく君を傷つける。
(あぁ、ジオの言葉はどこまでも真実だわ。)
堪えていた涙が一筋こぼれ落ちた。


(どうしてだろう、今、どうしようもなく彼に会いたい。)


セリナは、ドレスの胸元で手を握りしめる。
アジャートへ来てから、何度も何度もそうしてきたように。




そこにある綺麗な青色の石を、両手で握りしめた。








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