45.








「セリナ。これとこれ、どっちの香りが好き?」
「こっち、かな。」
今セリナは、ルーイに案内された貴賓室にいた。
テーブルを挟んで2人の女が、立ったままで台の上を覗き込んでいる。
部屋には城のメイドたちが控えていたのだが、しばらくするとジーナがやって来たのだ。
バスルームでお湯を使い、着替えを終えたタイミングだった。
白衣を着た女性の訪問をどう解釈したのかは不明だが、何も言わずジーナと入れ替わるようにメイドたちは下がって行った。
ジーナが持って来たのは何種類かの薬草で、効果としてはアロマキャンドルのような物だった。
「じゃぁ、これを置いておくわ。」
身を起こしたジーナに、セリナははたと思い出す。
「そうだ。ジーナさんに、髪留めを返さなきゃと思ってたんです。」
リシュバインの砦を発つ時に付けていた髪留めを、棚の上から取り上げる。
移動中、ずいぶんと役に立った物だ。
「あら、それは君にあげたのに。気に入らなかった?」
「そういうわけでは!」
「じゃぁ、返すなんて言わないで。」
にっこりと美人に微笑まれ、手の中の髪留めを握りしめる。
「あ、りがとうございます。」
「ふふ、セリナ、あれから髪伸びたわね。」
テーブルの上に広げた薬草を、ジーナは手際よく箱にしまっていく。
(髪……。)
その作業を眺めながら、セリナは思い切って口を開く。
「ジーナさん、はさみ持っていますか?」
驚いたらしく目を丸くしたジーナが、手を止めてセリナを見た。
「はさみ? ナイフなら持っているけど。」
「ナイフ、はちょっと。」
セリナは眉を下げる。
「はさみ、ねぇ。要るなら用意はできるけど、何に使うの?」
「えぇと、その。」
言い淀むセリナに、ジーナは首を傾げる。
「髪を、切りたくて。」
目を瞬くジーナに、セリナは目を泳がせる。
怯えられたのは嫌な記憶だ。
ジーナなら平気かと切り出したのだが、答えを待つのは緊張した。
一歩近づいたジーナが静かに問う。
「髪、触ってもいいかしら?」
頷くセリナを確認して、さらさらと指を滑らせるジーナ。
自然な仕草に、セリナはされるがままだ。
さっき洗ったばかりで良かった、とジーナの綺麗な緑色の髪を見つめながら思う。
「切るって、どのくらい?」
「えと、前髪を。伸びたので揃えようかと思って。」
美容室に行くような余裕はなかったので、いつも自分で切っていたのだ。
あぁ、と呟いたジーナが、セリナと目を合わせる。
「これでも、手先は器用なの。セリナが良ければ私が揃えてあげる。」
「いいんですか?」
「もちろん。」
「"黒の女神"だと言われてから、初めてです。」
「フィルゼノンじゃ、この髪に触れることも畏れ多いのね。髪を結うことはあっても、切るなんて以ての外なのかしら。お手入れを思えば、困るわね。」
ジーナが髪から手を離す。
「あちらに頼める相手は、いなかったの?」
問われて、セリナの頭に思い浮かんだ人物がいた。
メイドに怖がられてから言うのを止めていたけれど、頼めば応じてくれるだろうか。
(イサラなら。多分、きっと。)
セリナの表情を見て、ジーナが笑う。
「良かった。」
「え?」
「ふふ、なんでもない。じゃ、少し準備してくるわ。」
薬草の箱をさっさと片付けて持ち上げると、ウィンクを残してジーナは部屋を出て行った。




その後、すぐに戻って来たジーナの手元には銀色のはさみ。
シャキン、シャキンと金属の音を小気味よく響かせて、軽快に動かすジーナ。
自分で器用だと言っていただけあるその腕前に、セリナは、彼女が本当は美容師ではないのかと思ったくらいだ。
「こんなものかしら。」
頬に指を当てて鏡の中のセリナに問うのはジーナだ。
きれいに揃えられたのは前髪だけではなく、伸びた後ろ髪も傷んだ毛先を中心にはさみが入れられた。
丁寧に櫛がとおり、放置気味だった黒髪が艶めいている。
「ありがとうございます。ジーナさん。」
何かと注目されがちな"黒い髪"。
フィルゼノンでは恐れられながらも手入れされていたが、アジャートに来てからはそれもしていない。
首元に掛けていた白い布をはずし、床に広げた布もたたんでジーナが回収していく。
もう一度お礼を述べたセリナに、ジーナが微笑んでその手を伸ばした。
優しくセリナの頭を撫で、髪がさらりと流れ落ちる。
出来栄えに満足している、という様子だ。
されるがまま大人しくしていると、ジーナと視線が合った。
「今後も、きちんとお手入れするのよ?」
頷くと、ふふ、と美人が微笑みを返してくれる。
「明日、朝食が終わる頃にまた来るわ。知らない場所に1人じゃ不安でしょう?」
「はい。ジーナさんがいてくれるなら、心強いです。」
じゃあねと言って指をひらひらさせるジーナを見送って、セリナは改めて髪に触れる。
(さらさらだ。)
ジーナに感謝しつつ、セリナは鏡を覗き込んで自分を見つめた。


「……。」


しばらく睨めっこをした後、息を吐いて項垂れ、その場を離れた。
ぽすん、と。
背中から寝台に倒れ込めば、柔らかく受け止められた。
きちんとした場所で休むのは久しぶりだ。
よく知らない人たちと共に行動し、慣れない土地で野宿をしたりしてここまで来た。
今だって安全な場所だと言えるわけではない。
ぎゅう、と胸元を服の上から握りしめる。
(考えなきゃ。)
少しだけ軽くなった頭で。
セリナの持っているこの色を、どう扱うべきなのか。


炎帝と称されるアジャート王。
名前の通り炎のような激しさを持った人物だった。
パトリックたちに危害を加えたのはダンヘイトだが、命令を下したのは彼だ。
交渉をと考えていた一方で、恐れも感じていた相手。
(話を流されたとはいえ、委縮しないで会話ができたのは我ながらよくやったと思う。)
相手から、敵意を向けられなかった点は大きいが。
(けれど、いろいろ思っていたのと違う。)
案じていたとか救い出したとか、そんな言葉を鵜呑みにするわけではないが、もっと無理やり、女神を利用しようとしているのだと思っていた。
(なぜアジャート王は"黒の女神"を呼び寄せたの。)
黒の女神が理由で戦を起こすわけではない。
しかし、戦を始める気はあるらしい。
うぅ、と思わず唸って、セリナは身を起こす。
("黒の女神"は勝利の女神だと。なら、アジャートにいるだけでも、何か意味を持ってしまうのかもしれない。エドもそんなことを言っていたし。)


―――フィルゼノンは、"黒の女神"を殺す。


聞いた言葉が蘇る。
(そうさせないため? だから後宮という話も出た。だけど、いざ来てみれば、そうでなくてもいいという。ルーイを選んでも構わないと。)
整合性が取れていない。
そう思えるけれど、でも騙されているとも思えない。
(アジャート王の行動に、本当は一貫性があるとすれば。まだ足りないピースがある。)
だから、こんなにも違和感があるのだ。
「そう例えば。」
ラウラリア。
フィルゼノンで、ラウラリアとして迎え入れられていれば歓迎されたと彼は言った。
(変よね。ラウラリアは、アジャートに夜明けをもたらす存在。戦乙女で、勝利をもたらす。フィルゼノンの建国の女神だとしても、後世の他国へあんな言葉を遺した女神を歓迎する?)
"黒の女神"。ノアの予言にある災厄、とされるよりはということだろうか。
セリナは軽く頭を振って、窓を見つめた。
(アジャート王の思惑は、掴み切れない。……なら、もう1つの方はどうだろう。)
わざわざ王城へやって来た理由は、説得しようとしただけではない。
浮かんだのは、クラウス=ディケンズの顔だった。
(あの武器。)
セリナは口元を押さえる。
(中央に集まっていると言っていた。クラウスの目的ははっきりしないけど、武器庫に案内するなら、彼の行動に便乗してそれも確認できるはず。フィルゼノンとの戦に使われることを阻止する方法が、何かあればいいんだけど。)
セリナが、キル・スプラと呼ばれる武器を気にしていることは、まだ誰にも知られていないはずだ。
(あの武器を壊す方法。)
それが叶えば、アジャートにとって痛手を与えることができる。
(せめて、あの武器の存在をフィルゼノンへ伝えられたらいいんだけど。私1人じゃ限界がある。)
今後どう自分が動くべきなのか、そう考えて、セリナは拳を握った。
(戦を止めるために、"銀の盾"が何か計画している。目指すところは同じ、なら。)
ふ、とセリナは息を吐く。
(強気で乗り込んで来ておいて、このままいいように利用されて、結局戦争だって止められなくて、フィルゼノンにも戻れなくて。ここで、1人で。)
ぞわりと背中が寒くなる。


―――怖い。


もう一度、胸元を握り直す。
マルス=ヘンダーリンの言葉に動揺したのは、否定もできない。
(あの時、来ているのがリュートだと知っていたら。私、どうしてた?)
今、ここに居ただろうか。
クラウスに偉そうなことを言って背を向けたが、その先にいるのが知らない『使い』ではなく、リュートだと知っていたら。
(走ってたかも……いえ、きっとマルクスへ走ってた。)
そうしていたら、リュートが走り出て来てくれたに違いないのだ。
そして今頃はとっくにフィルゼノンの城に戻って、パトリックやアエラや、ラスティやイサラにも再開していて彼らの無事を確認できていただろう。
心配をかけたティリアには謝って、魔法陣で送り出してくれたアシュレーにも謝って。
迷惑かけたジオには怒られてしまうかもしれない。
(怒られたっていいや。)
ぎゅっと握りしめた拳が白くなる。
そうだったら良かったのに。と考えて、小さく苦笑が浮かんだ。




















イザークは床に落ちたクッションを慎重な手つきで拾い上げた。
「イザーク。」
疲れたようにソファに沈んでいるエドを振り向けば、薄紫の瞳と視線がぶつかった。
「そんなこといいから、お茶を淹れてくれないか。」
「かしこまりました。」
持っていたクッションは空いているソファに戻し、茶器の準備をする。
「国王に謁見を申し込んできたよ。」
「日程はいつに?」
「返事は来ていない。さすがに今回は無視されないとは思うけれど、どうかな。自信はない。」
「……。」
「とりあえず、1日は待とうと思う。アルノーたちには、まだ待機だと。」
「承知しました。」
足元に重なった緑色の『布のかたまり』を避けて、イザークはエドの前のテーブルにカップを置く。
「あぁ、美味しいね。」
身を起こしカップに口をつけたエドは、ほっとしたように感想をもらす。
それに小さく会釈してから、イザークは部屋の大きな窓に視線を向けた。
「後で、新しい物を用意しておきます。」
くすりと笑ったエドは目を細める。
「そう? では、任せよう。」
不意に上から白い羽が1枚、ひらひらと降って来る。
「お前は余計な気を遣わなくていいんだよ。」
「エドワード様。」
「いつも、そう言っているだろう。」
「はい。」
「イザークの素晴らしいところは、そうであっても、いつだって私の考えを汲んで動いてくれるところだけどね。」
さらにカップに口をつけて、エドが微笑む。
「本当に頼りなる私の右腕だよ。」
「そんなっ。もったいないお言葉です。」
持っていたソーサーごとカップを机に戻して、エドは笑みを消す。
「お前は本当に良くやってくれている。ただ今が重要な局面だということはわかるな。」
エドは、側で膝をついたイザークの肩を叩く。
真剣な表情のイザークに、小さく頷いて。
「もう少しお前の力を貸してくれ。」
「もちろんです。この命に代えてもっ。」
微笑んだエドがソファに再び沈むと、白い羽が舞い上がった。
それはふわふわと落ち、濃い緑色のじゅうたんの上で散る白の面積を増やした。
















「おかえりなさい、ロベルト。」
屋敷の玄関をくぐれば、すぐに妻が駆け寄って来る。
「ただいま、アイリーン。」
抱きついてくる相手を受け止める。
身長差がある妻の頭はロベルトの肩の位置だ。
迎えに出て来たハウスメイドに、器用に空いている手で外套を渡す。
この光景は見慣れたものなので、ハウスメイドも淡々と仕事をこなしていく。
「あぁ、君にもおかえり、というべきかな。」
そうアイリーンに聞けば、まぁと目を丸くして、なぜか頬を染める。
「ただいまです。」
そして、またぎゅうっと抱きつかれた。
「せっかく旦那様が王都に戻って来たのに、留守にしてしまいごめんなさい。」
「何か急ぎの用件だったのだろう。無事にすんだか?」
「はい。」
「なら、良かった。」
頭をなでてやると、アイリーンは藍色の瞳を細めてうっとりとした表情を見せる。
ピンク色の髪の毛は、サイドが編み込まれたりして手の込んだ髪型になっており、彼女に良く似合っている。
崩してしまわないかと気になって、ロベルトはすぐに手を離した。
リビングへ向かうロベルトの腕に絡みつきながら、アイリーンは嬉しそうだ。
「事情があって、詳細は話せないけれど。とても良いことをしましたの。」
妻が、とびきりの笑顔で微笑んだ。
ふわっとした印象を与えるその見た目とは裏腹に、アイリーンには行動力がある。
ルーイたちが言うように、過激、なのも否定できない。
切羽詰まった事態に陥った彼女の父親から、泣きながら娘をどうか頼むと懇願されたのはあの場だけの秘密だ。
勢いで押し切られ、否、既に外堀も埋められていたが、結婚したロベルトも彼女に愛情は抱いている。
可愛いとも、愛しいとも、守りたいとも思う。
それに、彼女は愚かではなかった。
わがままに見られがちだが、本当に無理なことは決して言わないし、他者への優しさもある。
ロベルトを困らせることはあっても、足を引っ張るようなことはしない。
「そうか。」
見おろして微笑んでやれば、きらきらと目を輝かせていた。
「"羽の精霊"のお手伝いをしておりましたの。つまり、1つの愛を守ったのです。」
「……そうか。」
ロベルトは、再び微笑む。
「素晴らしいお仕事でしたわ。」
時々、彼女の理解しがたい発言で困惑することがあるのだが、それも愛嬌の内だと。ロベルトはそう考えていた。
ルーイが聞けば、それが甘やかしているのだと怒りそうだから、口にはしないが。








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