<Y.剣と盾>





42.








「"黒の女神"様、只今ご到着にございます。」
ダンヘイトの隊長・ギゼル=ハイデンの声が響く。
セリナはその場で目を閉じ、胸の前で両手を握り込む。
そうすれば、力を借りられるような気がして。
ゆっくりと瞳を開けて、足を踏み出し謁見の間へ進んだ。
玉座の前、広間の中央にエドと並んで立つ。
背後で扉の閉まる音がして、セリナはゆっくりと深緑色のフードを下ろした。
静かな空間に、ほぉと感心したような男の呟きが消える。
伏せていた瞳を上げる。
目の前の、この国の王に向けて。
視線が交差する。


「ようこそ、我がグランディーン城へ。黒の女神、ディア・セリナ。」


落ち着いた声、表情は満足そうだった。
重厚なマントを肩にかけた王は、精悍な大男だった。
「我が名はウルリヒーダ。このアジャートの地を統べる者。」
玉座の傍らに置かれた2本の剣。
鍛えられ引き締まった体躯に、太い腕。
白が混じる青色の短い髪、隙の見えないアメジストの瞳。
アーフェの将軍も厳めしくはあったが、発する威圧感は比にならない。
(椅子に座っているだけではない。戦で前線を駆けるような王。)
セリナが相手を観察していたように、相手もセリナを眺めていた。
「その色。黒の女神とはかくありき、だな。なるほど、まったく似ておらぬ。」
「え?」
向けられた台詞を理解する間もなく、男は徐に立ち上がると玉座を下りて来る。
数歩で距離を詰め、間近に迫る。
後ずさりしそうになったのを、セリナはなんとか踏みとどまった。
彼の左目の上に傷跡があるのが見えたが、それすらも迫力を後押しする要素だ。
「貴女がこの地へ降りて来てから、今日の日までずっと御身を案じておった。フィルゼノンでは、ひどい扱いを受けておらぬか?」
問われた内容が想定外で、セリナは目を丸くする。
(保護されていたことを知らない? いえ、そんなわけない。)
「本物の黒の女神であると認める。そう言われながら、ずっと軟禁されておったのだろう。あの国から救い出すのに、随分時間がかかってしまった。」
どこまで本気で言っているのか計り知れなくて、困惑する。
言葉通りが、本心だとは信じがたいところがある。
「尽力したのは、我が配下の者でダンヘイトという。既に知っておろうが、そこに立つ男が隊長だ。」
そこに。と指をさされて、流れで振り向けば、隊長のギゼルが立っていた。
さっき発言していたので、彼がいるのは知っている。
ただ、振り向いたおかげで、今謁見の間にいるのが4人だけだと気づいた。
ダンヘイト兵士のマルスとビアンカ、そしてイザークも入室しなかったらしい。
セリナは、自分の前に立つウルリヒーダに視線を戻す。
背が高いので、見上げる形になってしまう。
「救い出したと。そう言われましたが、助けてくれたのは、ダンヘイトではありません。」
気持ちで負けないようにと、セリナは相手を見つめる。
外套の下、体の両脇で拳を握る。
「ここに。連れて来てくれたのも、ダンヘイトではなくて、エドです。」
緊張のせいか、区切るような話し方になってしまった。
セリナの言葉に、そこで初めて気づいたかのように、ウルリヒーダが視線を隣に向ける。
「エド。エドワード。」
「国王陛下。」
礼を取って頭を下げたエドの姿に、王はアメジストの瞳を眇めた。
(え?)
急に冷たくなった視線に、セリナがたじろいでしまう。
「なぜ、お前が黒の女神の隣に立つ。」
「陛下。」
顔を上げ、口を開いたエドの言葉を遮るように低い声で言い放つ。
「お前を城に呼び戻した覚えはない。」
「っ。」
「なんの権限でもって、お前はここにいる。この場に同席を許した覚えはないぞ、無礼者が。」
「陛下、どうか話を……。」
「話だと? 謁見が望みならば、正式に申し入れるがいい。用件がそれだけなら、さっさと出て行け。」
王の態度は頑なで、話を聞く気が少しもないことがありありと見て取れた。
なおも口を開きかけたエドだったが、王は視線をギゼルに向ける。
追い出すつもりなのだと気づいて、セリナは慌てる。
「私が!」
思わず手を出し、エドの腕を引き寄せる。
ウルリヒーダの視線がこちらに戻ったところで、セリナは腹をくくる。
「私が、エドの同席を希望します。」
数秒の沈黙。
のち、ウルリヒーダはふむ、と呟いた。
「話が逸れてしまったな。なんであったか……あぁ、そうだ。ダンヘイト。」
認めたというよりは、流したという対応だった。
セリナがエドを見上げると、彼は小さな苦笑で応じてくれた。
「気にしないで。」
セリナにだけ聞こえる声で呟いた。分かっていたことだから、と。
「身分も明かさず、ろくな説明もせず、女神を連れ出したと聞いた。救い出したい一心で行ったこととはいえ、貴女には怖い思いをさせたようだな。だが、あのままあの国に女神を置いておくことは、できなかったのだ。」
アジャート王は、まるで何もなかったかのように続ける。
「女神がいることを知りながら、そこへ攻撃を加えるのは、どうにも気が重くてな。なんとしても、それは回避したかった。こうして、安全な地へお連れできて胸のつかえも取れたというもの。」
攻撃という単語に、セリナは反応する。
「フィルゼノンに、戦いを仕掛けるつもりなの?」
それこそ本題だ。
いきなり翻意させることは難しくとも、開戦を引き止める方向に持っていかなくては。
意気込んだセリナとは裏腹に、ウルリヒーダはぽんと自分の手のひらを拳で叩く。
「そう。我が国はいかがだったかな。いろいろと各地を巡っていたようだ。あちらでは余程自由がなかったのであろうな。アジャートで羽を存分に伸ばすことはできたか?」
「……。」
「本当は、一刻も早く御身を保護したかったのだが、我が国にいる間くらいはとも思うてな。ダンヘイトがおれば滅多なことにもなるまいし、時が来るまで行きたいところへ行くも良いかと。」
(なんだか、まるで遊ばせていたみたいな言い方。)
これまでの行程がこの男の許可のもとにあったかのようだ、と考えてぞっとした。
(違う。みたいじゃなくて、そう、なの?)
彼がそうしたいと思えば、いつでもこの場所へセリナを立たせることができたのだろう。
ぐっと息が詰まるような感覚。
(時が来るまでって……それはいつ。)
それに猶予がないことは、セリナにもわかっている。
「機会があれば、女神から見た我が国のことを聞かせてもらいたいものだ。」
社交辞令のような台詞を口にしている相手を前に、上手く反応できないでいたセリナだったが、その耳に扉をノックする音が聞こえた。
先程と同じようにゆっくりと扉が開き、1人の男が姿を見せた。
「おぉ、来たな。こちらだ。」
オリーブ色の制服に身を包んでいることから、アジャートの兵士だとすぐにわかる。
「失礼いたします。」
敬礼を直し、顔を上げて真っ直ぐに入って来た相手をセリナは驚きで見つめた。
(なんで。)
「黒の女神が到着したゆえ、お前にも会わせておこうと思ってな。」
それで呼んだのだと、どこか嬉しそうに王が手招きをする。
「お心遣い、感謝いたします。」
「互いに初対面ではないだろうが、まぁ、挨拶でもするがよい。」
「お久しぶりです、ディア・セリナ。」
呆けていたセリナの右手を恭しく持ち上げて、甲にキスするふりをする。
近づいたところで、青い髪の男はいたずらめいて片目を閉じた。
「よぉ、元気そうで良かった。」
「ルーイ。」
「城に乗り込んで来るとは、驚いたけどな。」
「……私も今、驚いている。」
ここで登場するとは夢にも思わない。
きちんと制服を着たルードリッヒ=オーフェンは、ウルリヒーダに向き直ると再度礼を取る。
「よいよい、どうせギゼルしかおらぬ。そう畏まるな。」
やけに気安い調子でルーイに応じて見せて、ウルリヒーダは玉座へと戻って座り直した。
(ルーイ本人から王に目をかけられている、とは聞いていたけれど。)
向きを変えたルーイは、今度はエドに礼を取る。
「エドワード殿下に拝謁いたします。」
「ルードリッヒ。活躍は聞いているよ、アーフェの遠征のこともね。」
「あれはオッズ将軍の……。」
「ルーイ。」
エドに返事するルーイは、それを途中で王の声に遮られた。
中途半端に開いた口を閉じてエドに一礼したルーイは、セリナと玉座との中間辺りで端に寄った。
「ダンヘイトに引き渡した後のこととはいえ、女神の行方が不明となってルーイも心配していただろう。」
ルーイは軽く会釈で応じる。
その当事者たちが集まるこの場で、それ以外に返せる反応もない。
「陛下。1つお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。」
場の空気を変える、という程でもないが、ルーイは話題を切り替える。
「なんだ?」
「叶うならば、後ほど彼女と話をする機会をいただきたいのです。」
ルーイの言葉に、王が僅かに顎を上げた。
「部下たちも女神の無事な姿を見れば、安心すると思いますので。」
ふむ、と呟いた後で、ウルリヒーダはセリナに目を向けた。
「ディア・セリナは、どうしたい?」
問われて、セリナはルーイを見る。
「……私も、そのようにしたいです。」
「ならば、そうするといい。」
あっさりと頷いた王に、再度頭を下げるルーイ。
「して、ディア・セリナ。」
改めて声をかけられ、セリナは視線を上げる。


「他に、何かしたいことはあるか?」


玉座からアメジストの瞳を向けられて、隠している考えを見透かされたのかと、一瞬の動揺で言葉に詰まった。
「……。」
表情を変えないようにしながら、必死で相手を見つめる。
(フィルゼノンへ戻りたい、は違う。)
何を言えば、この王と会話を成せるのだろうか。
(したいこと。望み、戦をしないでと? 違う。それでは怒りを買うか、話を流されるだけな気がする。)
どうすれば、と頭をまわして、さっきのルーイを真似することにした。
「では、アジャート王にお聞きしたいことがあります。」
自分の要望に、まず相手の許可を請う。
「問うても、よろしいでしょうか。」
「ほぅ? 言うてみよ。」
気分を害したふうもなく、そうセリナに応じた。
「アジャート王は、戦を始めようとしているのですか。」
問いかけたのは同じ質問。
「そのために、黒の女神をここへ呼んだのですか。」
セリナの存在をどう利用するつもりなのか、直球で問う。
まっすぐ見上げるセリナ。
その視線を受け止めるアメジストの瞳が揺れた。
「ディア・セリナ、黒の女神。稀有な色を持つ者よ。」
アジャート王から発せられる言葉を、セリナは聞き逃さないように気を張る。


「さては、後宮入りの話を聞いたのだな。」


不意打ちの発言に、セリナは肩すかしをくらった気分だった。
(は?)
「ダンヘイトから聞かなんだか?」
ギゼルの方を見て、ウルリヒーダは薄く笑う。
「否、理由など説明などしておらぬだろうな。そこまで気の利く者たちではないか。」
肯定のつもりなのか、控えているギゼルが頭を下げた。
(いやいやいや、なんでそっちに話がいくの?! そんな話をふったわけじゃ!)
「女神の身柄の安全を確保するためには、後宮へ入るのが一番なのでな。何、準備はもう整っておるし、世話係もおる。わからぬことは、誰ぞに聞けばよいし、王妃にもそなたに目をかけるように頼んでおいた。」
「ア、アジャート王! 私の質問に答えていません。」
「何を言う、これが答えではないか。」
「いえっ、……え?」
「黒の女神をフィルゼノンから救い出したのは、女神の身を守るため。」
「仰っている意味が。」


「フィルゼノンは、"黒の女神"を殺す。」


断定の言葉に、セリナは一瞬口を閉ざした。
「あの国において、"黒の女神"は災厄。ラウラリアとして迎え入れればディア・セリナも、繁栄をもたらす女神として国を挙げて歓迎されたであろうに。フィルゼノン王は、"黒の女神"として迎えた。それこそが、あの国の答えだ。」
(ラウラリアとして?)
内容に小さな違和を感じるが、相手はお構いなしに話を進めて行く。
「我は"黒の女神"を守る。フィルゼノンで起こる悲劇は、我が国では起こり得ない悲劇だ。」
「それは、ノアの予言のことを言っているの?」
ノアに縛られないこの国なら、確かに女神が災厄として厭われることはない。
けれど。
「戦を始めるために黒の女神を城に呼んだ、というのは語弊がある。確かに、始める前に女神を呼び寄せねばとは思うたが、先に言ったように、それは御身を危険に晒さぬための措置。女神を理由に戦、というのは少し違う。」
(戦を始めることは、否定しない。)
「ダンヘイトの取ったやり方で招かれて、後宮へと聞けば、連れて来られた理由を訝しむのも道理。」
『招かれた』という表現には反論もあるが、後半も眉をひそめる内容だった。
後宮の話がなくても、拉致の理由は知りたい事項だ。
「心配せずとも不便のあるような扱いをする気はない。安心して我が宮へ入るがいい。」
相手の発言を黙って聞いていたセリナだったが、徐々に感情が揺れ出す。
(いや、安心してってなんだ。)
戦の話の前に、こちらを先にどうにかしておかなければならないらしい。
(どう断れば……。)
「畏れながら、国王陛下。」
セリナが言葉を発する前に、別の声が広間に響く。
「なんだ、ルーイ。今は女神に話しておる。」
「発言の許可を頂きたく。」
「この話に口出しは無用だ。」
「しかし、このまま黙っておくことは、オレには出来かねます。どうか。」
王へと礼を取り、ルーイが深々と頭を下げる。
不機嫌そうな表情でそれを見下ろしていたが、やがてウルリヒーダは玉座に背を預けて姿勢を崩した。
「よかろう、言うてみよ。」
許可を得て、ルーイが顔を上げる。
その彼が視線を向けて来て、セリナは急に嫌な予感に襲われた。
「後宮の話、お考え直しいただきたく。」
「なんだと?」
明らかにアジャート王の纏う空気が冷える。
「ルーイ、お前なんのつもりだ。」


「オレは、ディア・セリナに求婚しました。」


「っ!」
ぎゃあと、セリナが声を上げなかったのは奇跡だ。
隣に立つエドも息をのんだのが聞こえた。
(なんで、今そんなことをカミングアウト!)
確かにそんな話をされた記憶は残っているが、とっくに流れた話だと思っていた。
「リシュバインにいる時に、まだ後宮入りの話を聞く前でしたので。我が妻にと、彼女に請いました。」
「ルーイ、笑えぬ冗談だな。」
一段低くなったウルリヒーダの声に、ゆっくりセリナが視線だけを向ければ、想像通り不機嫌を隠しもしない表情で彼はいた。
控えめに言って、怖い。
「冗談でこのようなことは口にしません。」
「女神と共にあった時間は、我とて知るところ。お前が求婚だと? 作り話ならば容赦せぬぞ。」
「時間の長短は問題ではありません、国王陛下。」
深々頭を下げたまま、それでもルーイの返答は揺るぎない。
相手は今にも立ち上がって、側にある剣を抜きそうなほどの怒気だ。
緊迫した空気に、セリナは身動きもできない。
「ディア・セリナ!」
突然、ウルリヒーダがセリナに顔を向け怒鳴った。
びくぅと肩を揺らしたセリナは、アメジストの瞳に射られたような心持ちだ。
「今の話、真か。」
今度はやや落ち着いたトーンで声を掛けられ、表情にも鋭さがないため、セリナが怒られているわけではないらしいと知る。
先程のも、勢いがあっただけで、どうやらただ名前を呼んだだけのようだ。
視線をルーイに向け、また怖々とアジャート王に戻す。
(一部、嘘入ってましたケド。)
後宮の話知ってたよね、と指摘したところで、ややこしくなるだけだ。
「はい。」
「して、返事は。」
答えに窮したセリナの代わりに、ルーイが口を開いた。
「まだ、もらっておりません。」
王の眉がぐっと寄せられる。
(ひぃぃ。なんで、こんな展開になったの!? 私の質問とずれてるよねぇ!?)
危険な空気に包まれる中、同席しているダンヘイト隊長が完全にその気配を消しているのは、さすがと言うべきなのか。
じっくりとセリナを眺めた後で、ウルリヒーダはルーイへと顔を向ける。
「……。」
セリナにとっては、重い重い沈黙。
エドの様子も気になるが、そちらを振り返るような余裕はない。
やがてウルリヒーダは、ふむと呟いた。


「既に黒の女神を見染めておったとはのぉ。」


寄せた眉はそのままに、王が独り言のように語る。
「リシュバインで、ダンヘイトに助力しておる間に、か。この事態は想像してなかった……が、お前が結婚を考えるようになったとあっては、無下にもできぬ。」
(へ?)
さっきまでの勢いはどこへやら、玉座で顎を撫でながらルーイを眺めやるウルリヒーダから怒りは消えていた。
「アジャートで女神の安全が確保されるなら、ディア・セリナの所在は1つにこだわるものでもない。それに。」
ちらりとセリナに一瞥をくれる。
「後宮に押し込めてしまうよりは、ルードリッヒと共にある方が、何かと良いかもしれぬな。その方がフィルゼノンへ与える影響は大きそうだ。」
(影響?)
何か不穏な発言が聞こえた。
「では、求婚を認めていただけるのですか。」
「認めるも何もない。選ぶのは、女神だ。」
「はっ。」
(えぇぇーーー。)
突然回って来た決定権。
もはや押し付けを越えて、投げつけられた気分だ。
「ディア・セリナよ。我が後宮に入るか、ルーイの妻になるか。しばし猶予を与えよう。好きな方を選ぶがいい。」
「なんでその二択?!」という、もっともな意見のはずの言葉は、あまりの事態に声にならなかった。
そして、さらに続く台詞に、セリナは絶句することになる。
「このような存外の興をもたらすとは、楽しませてくれるな。ルードリッヒ。」
王の言葉に、ルーイが恭しく頭を下げる。
「我が息子よ、黒の女神をその手中に収められるか見せてもらうとしよう。」








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