8.








翌日。
ベッドから起き上がれるようになったセリナは、部屋の窓から外を眺めていた。
寒々しい中庭と壁が見えるだけで、砦の外の様子はわからない。
今の状況では、フィルゼノンの方向さえ見当も立たなかった。


ノックの後、ジーナが顔を見せる。
「入るよ。調子はどう?」
声をかけてくるジーナの後ろに、見知らぬ男の姿がある。
てっきりジーナだけだと思っていたセリナは、警戒を濃くした。
「……。」
思わず値踏みするような目で男の顔を見てしまう。
綺麗な翡翠色の瞳、それとまともに目があうと、男は手を差し出して来た。
「クラウスです。」
「……?」
「クラウス=ディケンズ、私の名前です。初めまして、女神殿。」
そう言って、静かに笑みを浮かべた。
(えぇと…。)
反応の鈍いセリナに、差し出した手をひらりと小さく振って存在を主張する。
「お手をどうぞ?」
胡乱気な目で見上げると、温度のない笑顔が見下ろしていた。
(きっと、味方ではないのでしょうね。)
自分にとって、いったい誰が味方で誰が敵なのかはわからない。
災厄を運ぶ者なら、誰にとっても自分は敵になると言える。
(ここでもノアの予言は、知られているのかしら。)
この状況で抵抗をしたところで、事態を打破できるとは思えなかったセリナは、逡巡した後、差し出された手を取った。
それに気を良くしたのか、クラウスは笑顔を作り直す。
「ルードリッヒ様が、貴女に話があると。ご案内致します。」
ジーナが掛けてくれた上着に袖を通して、大人しく部屋を出た。
「ここはどこなの。」
前を向いたままで隣を歩くクラウスに聞く。
石造りの廊下に、2人の歩く音が響いている。
「貴女が、先日までいた場所ではないことは確かですね。」
からかうような口調に、セリナは眉根を寄せる。
「アジャートでしょう、砦だと聞いたけど。」
「えぇ、先の戦でも要所として使われていた場所です。」
「戦って……。」
「フィルゼノンとの戦ですよ。」
「……。」
さらに眉間に力が入ってしまい、セリナは会話を打ち切り周りに視線をやる。
高い天井。アーチ窓。何本もの太い石柱。
壁のレリーフも、配置された像も、これまで目にしてきた物とは雰囲気が違う。
(全体的に大きい? 造りが大胆で飾り気が少ないけど、すごい威圧感。)
砦という役目のせいか、武器や防具類も視界に入る。
場の雰囲気に気圧されるように、自然と足取りが重くなる。
「着きました。」
大きな扉の前で、クラウスにそう告げられセリナは顔を上げる。
「……。」
促されるままセリナがその部屋へと足を踏み入れれば、簡素な調度品の並んだ部屋の中央に、男が2人いた。
片方はルーイだが、もう1人に見覚えはない。
「お連れしました。」
クラウスに押されるように歩を進める。
(なんか、怖いんですけど。)
無言で一瞥された後、男は椅子から立ち上がった。
「初めまして。私は、ロベルト=ウォルシュ。ルードリッヒ様の副官です。」
座ったままのルーイに目を向ければ、ふっと笑われた。
「いいヤツだから怖がらなくていいぞ。」
(別に、そんな情報が聞きたいわけじゃ。)
知らない人物を前に、ルーイに言い返すのは我慢しておいた。
この状況を見極めるのに、張っている気が削がれかねない。
「話は弾んだか、クラウス。久しぶりに同郷の者に会うのだろう?」
「同郷?」
単語を聞きとめ、訝しがるセリナに、ルーイはあぁ、と呟いた。
「姫君にとって、あそこが自分の国というわけではないか。これは失礼。」
わざとずれた返答をするルーイに、セリナは尋ねる相手を変える。
「あなたフィルゼノンの出身なの? なぜ、ここに。」
クラウスを見上げる。
服装や装飾品は両国でずいぶん異なっている。
アジャート式の身なりだが、確かに青みがかった銀髪や翡翠のような瞳はフィルゼノンでもよく見たものだ。
「まさかこの人も攫って?」
非難するように呟いたセリナに、クラウスがふっと笑った。
「囚われの身に見えますか、この私が?」
「……。」
「オレに、人攫いの嫌疑をかけるな。そんな趣味はない。」
自分を襲った者たちと、ルーイは無関係。
そう聞いてはいても、どうしても切り離しきれない。
(無関係だと、信じていいのかもわからないもの。)
だが一方で、むっとした表情で応じるルーイに、セリナは罪悪感を持つ。
「私は自分の意思でここにいるんですよ、女神殿。」
クラウスの言葉に、セリナは首を傾げる。
「なぜ。」
「『なぜ』……ねぇ。助けてくれたのがルードリッヒ様だったから、でしょうか。」
「……。」
「手負いでね、瀕死のところを。」
「だから、アジャートの味方を?」
「『だから』? それは恩人だからという意味? そうではありませんよ、目的のためです。」
「目的。」
呟いてから、そうするべきではなかったとセリナは思った。
その先を、聞きたいとは思っていない。
いっそ爽やかなほどの笑みを浮かべてクラウスは告げる。


「私は、滅びの訪れを歓迎する者。」


感じた衝撃に、思わず息をのむ。
(フィルゼノンが滅びてもいいってこと?)
奇妙な沈黙を、ルーイの声が破った。
「さて。国の近況も気になるだろうから、存分に語り合ってもらって構わない。が、まぁこれ以上は、後でな。」
「はい。」
クラウスの返事を聞いてから、ルーイはセリナに視線を戻した。
「まだ体調が優れないところを、わざわざ呼び出して悪かった。」
ルーイは、座るようにとセリナに椅子を示す。
四角い机のそれぞれの辺に一客ずつ椅子が並ぶ。
ぎこちなく意識をクラウスから離して、セリナはロベルトが引いてくれた椅子に腰を下ろした。
「別に。そんなに重症なわけじゃない。」
「そうか……なら安心だ。だが、まだ調子が悪いということにしておけ。」
「は?」
「実は、セリナに会いたいという者がいてな。」
(なんなの、本当に。)
人の話を聞かない男だ。
「あの部屋に通すのもどうかと思ったので、こちらに出向いてもらった次第だ。入ってもらえ。」
指示を受けてクラウスは、セリナが入って来たのとは別の扉を開けた。
隣室に控えていたのは、またしても男性2人。
(何者?)
会釈をして部屋に足を踏み入れた2人と入れ違いに、クラウスはそこから退室してしまう。
無意識のうちにその背中を追うが、あっさり閉まった扉に遮られる。
あちらの部屋からも、廊下に出ていけるらしい。
「シャトーアルジャイド所属ラウドグリム系団フラット"ダンヘイト"隊長、ギゼル=ハイデンと申します。それからこちらの者は、同じく、ラウドグリム系団フラット"ダンヘイト"隊員、マルス=ヘンダーリンです。」
そう告げて男たちは深々と頭を下げた。
「……。」
セリナが表情もなく無言で眺めたのは、別に相手を無視したからではない。
(何、今の呪文………意味わかんない。)
一瞬、言葉が通じなくなったのかと考え焦る。
理解できなかったのを察したのか、横に座るルーイが小声で耳打ちする。
「おっさんがギゼル、若いのがマルスという名だ。」
なんというざっとした説明だ、と突っ込みたいところだが、それでようやくさっきの呪文が、自己紹介だったらしいと理解できたのでセリナはおとなしく頷いた。
「まずは、セリナ様に怪我をさせてしまったことをお詫び申し上げる。目の行き届かなかった故の失態、私の責任です。一刻も早い快癒を、心よりお祈りいたします。」
再び頭を下げられて、セリナは僅かに首を捻った。
(なぜこの人が謝るの?)
先程の呪文では、彼らの正体などわかるはずもない。
(ルーイの部下ではない? この砦の人?)
「どうぞ、お掛けになってください。」
ロベルトに促され、ギゼルだけがルーイの向かいの椅子に座る。
マルスは、その横に一歩距離をおいて立ったまま控えた。
セリナの無言について、ギゼルは言葉をかけられなくても仕方がないと判じたのか先を続けた。
「我々"ダンヘイト"は、都合により一足先にここを発ちます。セリナ様のことは、治療も含めてルードリッヒ様にお願いをしているところですが、こちらのヘンダーリンを貴女様の警護役として付かせてください。」
そこで、茶色の髪の少年が会釈をした。
ちらりとルーイに顔を向ければ、ん?という顔をされたが口元は笑みを浮かべていた。
どうやら両者で合意済みのことらしい、とセリナは推測する。
(なら、私が何を言おうと関係ないんじゃ。)
リュートのような役目か、と思いついて小さく頷く。
「マルスからも挨拶を。」
ギゼルの言葉にセリナが少し顔を上げると、同じように顔を上げたマルスと視線が絡む。
「……。」
その目を見て、セリナは呼吸が止まる。
(何……この人、知ってる。)
「どうした?」
ルーイに声をかけられたが、それに反応できない。
相手が口を開く動作が、スローモーションのように見えた。
ザワリとした嫌な感触が背中を駆け上がり、知らず体に力が入る。
「マルス=ヘンダーリンです。以後お見知りおきを。」
「―――ッ!!」
声を聞いた途端、戦慄が走る。
得体のしれない恐怖に襲われ、セリナが勢いよく椅子から立ち上がると、その反動で派手な音を立てて椅子が床に倒れた。
「セリナ!?」
ぎょっとしたようにルーイも立ち上がるが、セリナの目には映らない。
(私は、この人を知っている。)
血の気が引くのが自分でもわかった。
愕然としながらもマルスから目を外せない。
返されるのは、無表情と冷めきった瞳。


『―――貴女がおとなしく従えば、この騎士は見逃して差し上げます。』


「なんでここに。」
はっと、気づいてルーイに視線を向ける。
襲撃を仕掛けた一派から、助け出されたのかと思っていた。
仲間ではないと言い、嫌っている素振りを見せていたが、確かにそうとは言っていない。
(救助したって、他に誰もいないって……。)
ルーイはセリナを彼らから助けたのではなく、彼らごと助けていたのだ。
ずっと同じ砦の中にいた。
あの雨の日。
セリナたちを襲い、パトリックを殺そうとした者たちと。


(誰、が警護につくって?)


ゾッとして、セリナは後ずさる。
今のセリナの事態を知っていて、それを容認するルーイもルーイだ。
(やっぱり敵は敵。)
崩れ落ちそうな体を支えるため机に手をつく。
肩に痛みが走り、セリナは顔をしかめた。
「セリナ。」
椅子を起こすロベルトを横目に、ルーイはセリナの体を支えようと手を伸ばす。
「無理に動いては傷に障ります。」
再び聞こえたマルスの声に、セリナは強く目を瞑った。
震える手は恐怖ではなく、怒りに変わる。
ルーイの手を避けて、つかつかとマルスの元へ歩み寄る。
「あなたに心配などされたくない。彼を……どうしたの。」
低く抑えた声で、マルスを睨むように見上げる。
それだけでなんのことかわかったらしく、落ち着き払って相手は答えた。
「約束は違えていません。」
ほっと安堵の息をつきかけるが、それは無情な声で遮られた。
「助かるよう手は打ちました。後は、向こうの対応次第です。」
「何、それ。」
呆然と問いかけるセリナに、少年は平然と口を開いた。
「発見が遅いか、本人の体力がなければもう既に生きては……。」
パンッと乾いた音が響く。
「条件を守ると言ったくせに、ふざけないで!」
振り上げられたセリナの手の平を、避けることなく受けたマルスは、ゆっくりと顔を正面に戻した。
左頬が赤くなっている。
「ご気分を害したなら謝ります。申し訳ありません。」
さっき、ギゼルから出た詫びの言葉を思い出して、拳を作った。
すぐに気づけなかった、自分の愚かしさに腹が立つ。
セリナ自身の感覚からも、先程の台詞からもギゼルはあの場の敵3人の中にはいなかったことは推察できた。
そうは言っても、ギゼルが責任者。
そのギゼルが詫びたのは「セリナの怪我」についてのみ。
そして今、マルスが謝るのは「気分を害した」ことに対して。
どちらもセリナに対しての謝罪だが、肝心な点には触れていない。
それ以外のことは容認しており、謝ることではないという態度が見て取れる。
ぎり、と手に力が入る。
「セリナ。」
ルーイの咎めるような口調に、苛としてさらに視線を鋭くする。
「あなたたちに、心配などされたくない。」
そもそも誰のせいでこうなったのだと、批判も露わに言い放つ。
「それについては、大変心苦しく思って……。」
ギゼルの言葉をセリナは遮る。
「あなたが責任者で、謝ってるんだろうけど! あなたに謝られったって嬉しくなんかないのよ。薄っぺらい言葉より、彼が無事だという証拠を見せて!」
ふと気がついて、セリナは更に鋭い視線を向ける。
「彼を、傷つけたあの男はどこよ! 剣を振るっていた張本人は!!」
興奮して、掴みかからんばかりのセリナを、ルーイが抱き留めるように抑えた。
「ハイデン殿、会談は終わりだ。これ以上、彼女を興奮させるな。また熱を出しかねない。」
「放して! 触らないでよっ!!」
力を込めて暴れるが、セリナの力ではルーイの腕を解くことは適わない。
怪我に触れないよう気遣った上での拘束状態ですら、歯が立たないのだから忌々しい。
「……わかりました。」
仕方なく、という感じで頷きギゼルは椅子から立つ。
「詫びるなら本人が言え! 私じゃなくて、パトリックに謝罪しなさいよ!!」
「失礼いたします。」
叫ぶセリナに一礼して、ギゼルとマルスは部屋を出て行く。
「聞いてるの!? 逃げるな!!」
尚も声を荒げるセリナだったが、扉が閉まってしまうと不意に脱力した。
「セリナ。」
ルーイに抱えられているので床に倒れることは免れたが、とても1人で立ってはいられない。
くらくらする頭を押さえると、視界が揺れた。
「無理をするな。」
ゆっくりと下ろされ、抱きかかえられたまま床に座り込む。
どくどくと早鐘のような心臓の音がする。
こんなに怒りの感情を爆発させたのは、いつ以来だろうか。と頭の片隅で考えるが、外聞も遠慮もなく他人に怒鳴った経験を思い出すことはできない。
ただでさえ、感情をストレートに表現するには力がいると思い始めてから、気持ちは押し殺して心の奥に沈めてしまうばかりだったのだ。
そして、やはり怒ることは、ひどくセリナの体力を消耗させた。
「動かない方がいいだろう、もう少し気分が楽になったら部屋まで送る。」
「……やめて。あなただって同じよ。」
「ん?」
「あなたに、心配などされたくない。」
ぐいと腕を張り、セリナはルーイの体を遠ざける。
「部屋へは自分で戻れる、放して。顔も見たくない。」
顔を背け距離を取ろうとするが、伸ばしていた腕を絡み取られ、それはあっさり阻止された。
抗議しようとキッと睨めば、真剣な顔のルーイがいた。
「お前が、どう思おうが構わない。されたくないと言われても、オレはセリナを心配する。」
「……。」
あまりに直球な宣言に、セリナは目を見開く。
ルーイがふっと口元を緩めると、一気に空気が和らいだ。
「見たくなかろーが、オレは行きたい時にセリナに会いに行くしな。」
どうだ、と言わんばかりに今度は得意げに告げた。
ぽかんとしたセリナだったが、僅かに眉を寄せる。
「………変な人。」
「失礼だな。」
むっとしたような顔のルーイから顔を背けると、すぅっと意識が落ちるのを感じる。
「おい!」




突然力が抜け、ぐったりと気絶してしまったセリナを、ルーイは注意深く抱き直す。
「ロベルト、隣の簡易ベッド整えてきてくれ。」
成り行きを見守っていたロベルトは、そこで息を吐くと優しい苦笑いを浮かべた。
「承知しました。」








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