<U.変革する景色>





7.








「………ぅ。」
小さく唸って体を動かすと、軋むような痛みに襲われた。
光を感じて目をゆっくり開ける。
灰色の天井に石の壁。
(ここは。)
殺風景な部屋に装飾らしきものは、壁に掛けられた深紅の布だけだ。
頭を押さえて顔を歪めた。
酷い倦怠感だ。
(のどが渇いた…。)
サイドテーブルに置かれた水差しを見つけて、セリナは身をよじるが、思うようには動けない。
「気がついた?」
不意に声をかけられ、顔を動かす。
「……。」
白衣のポケットに両手を突っ込んでいる女性が、扉の前に立っていた。
見たことのない顔に、頭が真っ白になる。
すたすた近づいて来た女は、セリナの上体を起こすと、水を注いだグラスを差し出す。
「どうぞ。」
こちらが水を口にするのを待ってから、無遠慮に伸ばされた手が、セリナの額に当てられる。
「熱もだいぶ下がったようだし、よく頑張ったね。」
そう言って、にっこりと笑う人物は美しい。
「あの。」
無意識に自分でも額を押さえようと上げた手は、中途半端なところを彷徨う。
「ここはリシュバインの砦。アジャートよ。何があったのか、思い出せる?」
問われて、記憶を辿る。
「アジャート?」
聞き覚えはあるが、それはどこだっただろうか。
視察に同行し、"緋の塔"からポセイライナへ向かった。それから。
「!!」
記憶の波が押し寄せて、すべてを思い出した。
「アジャート!!」
(フィルゼノンの敵!)
共に来てもらうと言ったのは、誰だったのか。
はっと顔を上げて、セリナは周囲を確認する。
「パトリック! パトリックは!?」
「ちょっと。」
「彼は無事なの!? ……っ!」
目の前の相手に掴みかからんばかりに近寄って、そこでくらりと頭が揺れた。
「病み上がりでむちゃするー。ほら、落ち着いて。」
「なんの騒ぎだ。」
部屋に入って来た男が、状況を見て軽く目を見開いた。
「大丈夫、目を覚ましただけだから。」
セリナをベッドへ戻しながら、女性は彼に答える。


「あなたたちは。」


警戒心も露わなセリナの様子に苦笑を浮かべて、男は肩をすくめる。
「寝直せと言っても、聞き入れそうにないな。」
オリーブ色の服を着崩した男は、近くの丸椅子に腰を掛ける。
「オレは、ルードリッヒ。一応、ここの責任者だ。こっちは、医者のジーナ。」
男の紹介に、女性は口を挟む。
「最初なんだから、正確に言ってよね。私は、美人女医のジーナ=ノーファー。君の命の恩人ってことになるけど、多大な感謝は構わないよ。」
深緑色の髪をサイドで緩く結んで白衣を着た女性は、確かに整った容姿をしている。
「恩人というなら、オレの方だろう。命じたのは、オレなんだから。」
おいおい、というように訂正を求める男は、鍛えられた身体つきをしており、精悍な顔立ちながらどこか育ちの良さを感じる。
「はぁ? 医者の職分に割り込もうっての? ちょっと図々しくない?」
「あぁん? 誰に向かって言ってるんだ。」
美男美女と評して差し支えないはずなのだが、口を開かなければ、という条件が付きそうだ。
「あなたたちは、あいつらの仲間…なの?」
訝しさを隠しもせず問えば、2人は動きを止める。
「あいつら……っていうのは、君を連れて来た者たちのコトよね?」
「心外だな。オレを、あれと一緒にしないでくれ。」
「私も、仲間とは思われたくないなー。まぁ、そんなわけで悪いんだけど、そのパトリック?とかいう相手のことも、わからないのね。向こうで、一緒にいた人?」
「……。」
黙り込んだセリナに頓着せず、ジーナはルーイへと視線を移す。
「ルーイ様、何か聞いてる?」
「いいや。他に誰かいたという話は、聞いていない。」
本当に知らない様子なのを見て、セリナは唇を引き結ぶ。
恩人かどうかはさておき、この2人は襲撃者の仲間ではないらしい。
(敵でないとは言い切れないけど。)
ひとまず敵意を引っ込めると、疲労感に襲われる。
「あぁ、まだ熱が下がりきったわけじゃないんだから。」
呆れたようなジーナの声に、セリナは頭を押さえる。
「熱。」
「嵐の海を越えて来たらしいけど、覚えている? 船が難破して、ノーラの第3砦ってところに流れ着いたのを、ルーイ様が救助したのよ。君、長時間雨に打たれたせいで、ひどい高熱だったんだから。」
「なんとなく……、はっきりとは思い出せないけど。」
襲撃を受けて以後、目を覚ますまでの記憶は酷く曖昧だ。
言われて考えてみれば、激しい揺れを感じたし、身を切るような冷たさの正体は、海水か雨だったのだろうと推測できた。
熱のせいで体力の消耗が激しく意識も朦朧としていたので、あまり実感は湧かない。
「……。」
一瞬、口にするのを躊躇うが、セリナは顔を上げる。
「私は、捕まったの?」
問えば、ルーイが歯切れ悪く応じる。
「まぁ……"黒の女神"の"ディア・セリナ"ってことは周知の話だな。」
セリナの髪に向いた視線が、その色を捉える。
ジーナは、首を傾げながら答えた。
「囚われの身ではあるね。でも、捕虜や虜囚という立場とは違う。君、牢屋に入ってないし。捕えたのは、私でもルーイ様でもない。」
「詳しい経緯は知らないが、早く元気になることだ。」
「今は、自分の体1つ自由に動かせない、不自由な状態なわけだし? まずは起き上がることから始めてみようか。」
論点がすり替わり、明確な答えにはなっていないが、セリナは口を閉ざす。
医者の言うことには従っておく方がいいだろう、という意識のせいでもある。
「躾のなっていない者が、手荒な真似をしたみたいね。許して欲しいとか、代わりに謝るとか言う気は更々ないけど、できれば先入観だけでココを嫌悪しないでくれるといいな。」
セリナが視線を向けると、ジーナは困ったように眉を下げる。
「ま、身勝手なお願いだから、どうするかは君が決めちゃって。」
「……。」
医者の台詞の、その意味を図りかねる。
無責任な発言に怒鳴りつけてもいいくらいだったが、なんだかストンと収まってしまったのは、呆気に取られたからなのか、相手の持つ雰囲気のせいなのか不明だ。
ポセイライナで襲撃をかけてきた一派と、ルーイたちは別だという。
2人の口ぶりでは毛嫌いしているようだが、知らない間柄ではない。
(関係してるけど、関係してない?)
掴みきれない事情に頭を悩ませるが、疲労感に負けてしまう。
(敵意は感じないし、どのみち今の状態じゃ満足に動けそうもない。)
ならば、この状況に甘んじて、事態を把握するのが一番の近道だろうと判断を下す。
「昨日は、ほとんど何も口にしていないだろう。食事を運ばせる。」
会話が切れたのを見て、ルーイが立ち上がる。
「食欲はあるか?」
「いえ…。」
「そうか。でも、食べろ。」
訊いておいて、一刀両断である。
「また、後で来る。」
部屋を出て行くルーイを見送って、ジーナはセリナに向き直る。
「じゃ、それまで横になってるといいよ。まだ、本調子じゃないんだから。」
はいはい、と半強制的に寝かしつけられ、セリナは狼狽える。
(ここでも、一応"黒の女神"という認識はされているみたいなのに。)
フィルゼノンで出会ったメイドとは違い、奇異の目は向けられない。
腫れ物に触るような怯えた様子もないが、敬うというふうでもない。
(なんだか…『ふつう』?)
















知らぬ間に落ちていた眠りから目を覚ますと、ジーナに着替えを促された。
元々セリナが着ていたフィルゼノンの服は、雨と海水で悲惨なことになっていたとかで、既に処分されていた。
今着ているのはシンプルな生成りのワンピース。寝間着、といったデザインの物だ。
着替えさせたのは、私だから、と言いながらジーナから、次に渡されたのも、よく似た形のワンピースだった。
手伝ってもらいながら、簡単に清拭する動きだけでも、体力を使う。
なんとか着替えを終えると、ジーナから小さな箱を渡された。
「君の物。」
蓋のない箱に入っていたのは、青いペンダント。
セリナは、慌ててそれを取り出すと両手で握りしめる。
(ジオ。)
「治療の邪魔になるから外したの。悪く思わないでね。」
それから、とジーナは白衣のポケットから、もう1つ物を取り出した。
「こっちはどうしようかと思ったんだけど、返しておく方がいいかな?」
その手にあったのは、オリーブの葉。
「あ。」
幸運のお守りに。
そう言って差し出したのは、パトリックだった。
手を伸ばしたセリナに、ジーナはどうぞ、と言って葉っぱを渡す。
「……。」
(お守り。)
「入るぞ。」
廊下からかけられた声に、はっと顔を上げて、セリナは2つを箱に戻す。
部屋に入って来た男の手には、器の乗ったトレーがあった。
「さっきよりはマシだが、まだ顔色が悪いな。気分はどうだ。」
トレーを木の机に置いて、ルーイは先程と同じ椅子に座る。
「いいわけない。」
「そう言うだけの元気があれば、平気か。さっさとメシ食え、せっかくの料理が冷めてしまうぞ。」
むっと眉を寄せたセリナに、意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだ、わがままだな。そんなにオレに食わして欲しいのか。」
「誰が! なんでそんな話になるの!?」
「照れるな。」
「照れてない! ご飯くらい自分で食べるわよ!」
思わず言い返してから、相手の罠に嵌ったことに気づく。
「そうか?」
声音は残念そうだが、顔は笑っている。
「あのねぇ…ッ!」
むっとした表情のまま言い返そうとして、くらりと目が回る。
「すまん、調子に乗りすぎたな。大丈夫か?」
バツの悪そうな顔で覗き込まれ、まるでこちらが悪いことをしたような気分になる。
「ジーナ、机をこちらに寄越せ。」
「どーぞ。」
トレーの乗った机がベッドの横まで近づけられたせいで、スープの香りが濃くなる。
表情を曇らせたのに気づいて、ルーイは肩を落とす。
「少しでいいから、食事を摂れ。」
「欲しく、ない。」
「だとしても、だ。」
言い含めるように告げてから、スプーンを取り上げた。
「無理矢理食べさせられたくないなら、大人しく自分の言葉に従っておけ。」
これではどうあっても負けだと気づいて、渋々渡されたスプーンを握る。
立ち去る気配のないルーイに、セリナは辟易したようにため息をつくとスープを口に運んだ。
それを見てジーナは、くすりと笑う。
「ジーナ、後は頼むぞ。」
「はい、隊長。」
ルーイに声をかけられたジーナは、ニヤニヤした表情で請け負う。
立ち上がったルーイは、部屋を出る前にもう一度口を開いた。


「早く元気になれ、セリナ。」


驚いて目を見開いたセリナは、視線を彷徨わせた。
その目でジーナを見上げると、相手はにこりと微笑んだ。
「お水、いる?」
差し出されたグラスを受け取って、セリナは湯気の立つスープに視線を落とす。
(本当に…なんなんだろう、この空気。)












アジャート東部。
フィルゼノンとの国境近いリシュバイン第1砦。
セリナは、王都より遠征してきたルードリッヒ率いる一軍と共にそこにいた。




足繁くセリナの様子を見に来るルーイは、責任者と言いながら、暇なのかと錯覚するほどだ。
(危害を加える気はないみたいだけど、安心はできない。)
ルーイたちの正体も、襲撃を仕掛けてきた一味のことも、まだ何もわかっていないのだ。
そして、この国でのセリナの立場もまだわからない。
なぜ連れてこられたのか。これからどう扱われるのか。
アエラやパトリックやラスティ、フィルゼノンで別れてきた者たちのことが気になるが、ルーイやジーナは彼らの消息を知らない。
すぐにでもフィルゼノンへ戻りたかったが、今のセリナにその力がないことは明白。
(早く治して、情報を集めなきゃ。まだこの砦が、どこにあるのかもわからない。)
突然の出来事に、離ればなれになった仲間を想う。
(あの時、途中で引き返せば良かった。)
中止か延期を薦められたのに、計画を強行した自分のせいだ。
今更悔やんでも過去は変わらないけれど、祈らずにはいられなかった。


(どうかみんなが無事でいますように。)


セリナが、フィルゼノンを離れて3日が経っていた。
























「ギゼル=ハイデン様から打診がありました。"ダンヘイト"がここを出立する前に彼女に会いたいと言っています。」
「あー、それどうするかなぁ。」
机の上に置かれた菓子を摘まみながら、ルーイは軽い口調で副隊長に応じる。
「ジーナの禁止令があるんだが、断るわけにはいかないだろうな。全員で押し掛ける気じゃないんだろう?」
「隊長殿とヘンダーリンだけではないでしょうか、監視…失礼、警護役に残すので挨拶を兼ねて。」
チラリとロベルトに視線を向けて、ルーイは菓子を口に入れる。
「挨拶って、彼らはそんな間柄か。」
「拉致してきたという関係性を考えると、あまり友好的な会合になるとは思えません。」
「だろうな。」
呆れたように呟くが、表情は険しい。
「女医殿に面会のこと、伝えておけ。」








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