71.








グリサール領のゲストハウスに一泊した翌日。
この日の朝は、あいにく雲の多い空模様だった。
本日の視察地・バッカスは農村の名前であり、この辺り一帯の地方を指す地名でもある。
グリサール領南西とシュトラ領東にかかるバッカス地方は、5年前に農地整備をした土地だ。
田園地帯の広がる景色を見ていたセリナは、不似合いなものを見つけて声を上げた。
「あれ、何。すごい変な形の……岩?」
口に出した途端、視界の景色が一変する。
「え。」
セリナの驚きに気づいて、アエラが口を開いた。
「この辺りはまだ、戦火の傷跡が残っているのです。」
「戦火……。」
葉を茂らせた木々の向こうに、折れたり倒れたりした木がある。
さらにその向こうには、かつて家だった物の残骸がいくつも放置されていた。
「先程の岩も、攻撃を受けた際に片側だけ砕けたために、あのような歪な形になったようです。」
「……。」
「西方、国境に近付けば、それだけ被害も大きいですから、まだ復興していない場所もあります。」
何年もの間、隣国と戦争をしていて、数年前に休戦したのだということは聞いていた。
王都へ出た時も、ファファやダンからその話は耳にしていた。
(戦争の傷跡。ただ聞いただけで、知ったつもりになってた。)
それは、ここで起こった現実だ。
目の当たりにした光景に驚き、そういえばと思い出すセリナに、その現実は遠い。
(頭では理解できる。けれど、どうやっても想像の域を出ない。)
知らず、セリナは自分の首を押さえた。
初めに向けられた冷たい声、鋭い瞳、伸ばされた両手。
(今は、休戦しているだけ。)
「……。」
(この国が、好んで戦を仕掛けるとは思えないけれど、国益のためなら、武力を行使することも辞さないのかもしれない。)
後方へ流れていく景色を眺めて、セリナは口を引き結んだ。
(彼は、この国を守るべき立場の人だから。)
「バッカス地方も、戦いで焼け野原になった場所なんです。」
アエラの言葉に続けて、イサラが口を開く。
「家も畑も壊されて。けれど大地は強いですね。焼けて、更地になった畑と荒れ地だったところに灌漑(かんがい)設備を造って、畑の区画も整備して、作物の成長も順調に。」
「だから、農地の整備事業って。」
「えぇ。今年の収穫は、期待できるとの話ですよ。」
「収穫……。」
セリナの呟きに、アエラが笑って補足した。
「えぇ。今月末から来月にかけて、各地で収穫祭もあります。王都でもリビス祭が催されますし。」
(ティリアさんが言ってたお祭りだ。)
取り消されてしまった外出許可だが、それより前にこうして出かけているのだから不思議なものである。
「私の世界でも、お祭り……秋の収穫祭はあったわ。」
「恵みに感謝をする人の気持ちは、同じなのですね。」
イサラの言葉に頷いて、窓の外に視線を向けた。
「同じです。」
不自然にえぐれた地面に、思わずセリナは眉を動かした。
(このまま戦いが終わればいいのに。)












一面の畑だった。
収穫期を迎え、十分に成長した金色の景色が広がる。
風が吹くたびに、まるで海面の波のようにそれは揺れた。
「すご……。」
王のいる視察の中心からは少し離れた場所に立って、セリナは口を押さえた。
人目がないのをいいことに、セリナはヴェールを上げていた。
戦で焼かれた惨状を見たわけではないが、復興してこの景色を作るのは簡単ではなかっただろうと思う。
人のいる方向に背を向け、セリナは少し視線を上げた。
陽が昇るにつれて持ち直した天気は、今ではすっかり晴れに変わっている。
大地に広がる黄金の絨毯。
頭上に広がる綺麗な青と白い雲。
ぞくり、と背中が粟立った。
(すごい、なんて景色。)
伯爵と共に地面に立つジオは、神殿とは打って変わって真剣に村長の話に耳を傾けていた。
初めに彼らの挨拶を受け、挨拶を返したセリナにそれ以上することはない。
視察の一行に付かず離れずの距離を保ちながら、遠慮なく周囲を眺める。
付いているイサラとパトリックもゆったりしたものだ。
道なりに進むと、すぐに村の入り口に到着した。
出迎えに来ていた村人たちが頭を下げる。
(さすが国王を迎えるだけあって、なんか妙な緊張感が漂ってるなぁ。)
「おや?」
横に立っているパトリックの声に振り向き、その視線の先を追う。
何を見て声を上げたのかはすぐにわかった。
「女の子?」
「ですね。」
3,4歳くらいの少女が、とてとてと向こうから一行の元へ走り寄ってくるところだった。
「ミーリ! 戻ってきなさい!!」
さらにその向こうで女性が声を上げている。
村長がぎょっとしたように目を剥いた。
その場にいる村人たちも、みな似たような反応だ。
護衛に付いている騎士も一瞬呆気にとられて固まるが、姿勢を低くして少女を止めようと動いた。
「いい、かまわぬ。」
ジオは逆に騎士に制止の声をかけた。
は、と短く返事をして騎士たちは少女を通す。
少女は村長の横に立ち止まると、国王に向かって持っていた籠から取り出した物を差し出した。
「こ、こら! ミーリ!!」
青い顔で慌てる村長とは対照的に、ジオは落ち着き払っていた。
「くれるのか?」
「はい、陛下!」
嬉しそうにそう答えて、ずいと手を伸ばす。
その手にあるのは綺麗に色づいた果実だった。
「畑で獲れたカシュラです。」
「ミーリっ。」
追いついた女性が嘆くように少女の名を呼んだ。
会話に割って入るほどの度胸はなく、村長はその場で凍りついている。
恐れも何もない少女は、笑顔のままで小首を傾げた。
ジオは少女の手からそれを受け取る。
「ありがとう。とてもおいしそうだ。」
ふっと表情を綻ばせて、ジオはそう告げる。
「はい、陛下!!」
嬉しさで上気させた頬のまま少女は元気に答えた。
(笑った?)
ぽかんと口を開けたセリナは、右手を自分の頬にあてた。
(子どもだから? 城の外だから?)
「と、とんだ失礼を。」
ようやく解凍された村長が愛想笑いを浮かべた。
「ミ、ミーリ、早くこちらへいらっしゃい……!」
頭を下げたまま女性は、少女を呼ぶ。
「いや。」
答えようとしたジオの言葉に、ミーリの声が重なった。
「待って、ママ。」
「……ミーリ!?」
再び走り出した少女は、今度はセリナの前に立つ。
ぽかんとして見下ろすセリナに向かって、同じように果実を差し出した。
「はい、黒の女神さま!」
(え? 私に??)
きょとんとしたセリナと違い、周囲には一気に緊張が張り詰める。
よりにもよって、本人に向かってその名を呼ぶとは、と。
女神だけならまだしも、はっきり"黒の女神"と呼んでしまった。
村長は今度こそ色を失った。
「ミーリ…ィ。」
母親は今にも卒倒しそうな顔をしている。
「? カシュラはお嫌いですか?」
子供特有の少し舌足らずなしゃべり方だが、目はまっすぐセリナを見上げる。
周囲の雰囲気を気にしながらも、出した手を引っ込めようとはしない。
「え、あ。いいえ。」
はっと気づいてセリナは、ミーリの前に膝をついた。
差し出されたカシュラという果実は、色も形もブドウによく似ていた。
「……セ、セリナ様。」
パトリックの声には狼狽の色が含まれていた。
セリナは両手で果実を受け取ると、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。いい香りね。」
「はい!」
ミーリの頭をそっと撫でると、くすぐったそうに少女も笑った。
呆けたように見つめていた母親と目が合って、セリナは笑んだ。
「ありがとうございます。」
「い、いえ。」
恐縮したように首を振ってから、再度頭を下げた。
何気なく向けた視線がジオのそれと交差した。
感情の読めないジオの瞳に対応に困って、セリナは微かに笑顔を浮かべると立ち上がった。
「セリナ様、服に汚れが……。」
それまで控えていたイサラが、小さな声で耳打ちする。
「平気、平気。」
さっさと自分の手でスカートについた砂を払う。
呆然としたような周りの視線にセリナは身を引く。
(なんなの、この空気は。)
再び対応に困ったセリナは、優雅に見えるよう祈りながら宮廷流のお辞儀をすると一歩後ろに下がった。
その意図を汲んだのか、ジオが村長に声をかけた。
「では、次は……。」
会話の中心が移ったことに安堵して、セリナは息を吐いた。
「ねぇ、なんかまずかった? あ、高い服汚したらまずいか。」
自己完結したセリナに、イサラは苦笑を浮かべた。
「いえ、それは気にしなくて構いません。みな驚いただけですよ。」
「驚く?」
「"女神"が、これほど気安い存在だとは思っていなかったのでしょう。」
イサラの言い回しで理解して、セリナは口角を引きつらせた。
「……しゃべったのがまずかったのか。」
(顔を出すな、声を出すなって言われてたっけ? 今更遅いけど。)
イサラは自然な動作で、セリナの手からカシュラを取り上げる。
「恐れられても困りますが、軽んじられるわけにもいかないでしょう。」
「難しいね。」
母親に抱き止められたミーリが、ひらひらと手を振った。
どうやら自分に向けての行動らしいと気づいて、セリナは小さく振り返した。
(可愛い。)
ミーリが呼んだ名前に他意などない。
("黒の女神"という名前を知っていても、それがどういう存在かまではまだ理解してないだけ。悪意どころか"お姫様"に対する憧れみたいなものしか持ってないのかも。)
大人が教えなかったということであり、そういう話を聞かせなかったということだ。
(多分。)
そこまで考えて、セリナは村人たちをぐるりと見回した。
(私へ向けられる好意や遠慮は、陛下への好意を示すもの。)
王が保護を決めた存在だからこそ、疎略に扱うことをしないのだ。
畏怖の表情にも、純粋な恐怖の色はない。
どちらかと言えば畏敬の念に近く、緊張に赤らんだ人たちの顔には来訪を喜ぶ心が見える。
(これが国王陛下? 王様ってもっと手の届かない存在で遠いところにいるものじゃないの?)
ふとダンの言葉が蘇る。
―――王族なんて雲の上の人だ。平民と同じ場に立つなんてこと、ありはしない。
(雲の上の存在が、こうして近くにいることが、人の心を掴む?)
何事もなかったかのように再開された視察の一行について歩きながら、セリナはチラリとジオの様子を窺った。
変わりのない無表情は不機嫌そうにも映るが、眼差しは真剣さを物語る。
(だとしても、やっぱり、ここは……距離が近いような気がする。)
漠然とした印象を胸に、セリナは再度景色に目を向ける。


見渡す世界に、風が吹いて金色が揺れた。








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