<[.外苑の蔦>





62.








城下町の酒場で。
陽気な笑い声と豪胆な怒声に交じって囁かれる噂話。
「知ってるか、"長足"のやつが、花屋の娘に振られたらしいぞ。」
「さぁ、次の試合、どいつに賭ける? 一番人気は……。」
それは、人の口から口へと伝わってゆく。
「ねぇ、聞いた?」
女に声をかけられた男は、気怠そうに視線を上げた。
酒瓶をテーブルに置きながら、女は真っ赤な唇を引き上げる。
「"サルガス"が捕まったって。」
「サルガス?」
「知ってるでしょう? 麻薬密売組織よ。」
「……ああ。」
「地下組織を一掃するなんて、なかなかやると思わない?」
「どうせいたちごっこだろう。」
言って杯を煽る。
「まぁ、そうかもね。けど、もう1つ面白い噂があるのよ?」
もったいぶって声を落とした女の様子に、男は目を細めた。


「一斉摘発できたのは、"女神"のおかげなんだって。」




















クライスフィル城。
宰相ジェイクの部屋の扉を叩いたクルスは、中からの返事を待って足を進めた。
「リビス祭のことについて神殿から書簡が届いています。」
「視察が終われば、すぐに収穫祭だからな。」
まったく忙しい、とぶつぶつ言いながら、宰相は書簡に目を通す。
収穫祭には神殿の協力も不可欠で、調整を行っているところである。
視察に同行しない者たちは概ね、その間リビス祭の準備に追われることになるのだが、宰相もクルスも例外ではない。
行事が続くため、武官も文官も多忙を極めていた。
「神殿と言えば、わしのところに神官長から苦言が来ていた。」
ジェイクが思い出したように、手にした書簡をひらひらと振った。
「何か不手際でも?」
「相変わらず、"黒の女神"へのこちらの対応が気に入らないらしい。」
「……というと、リビス祭ではなく視察?」
僅かに首を傾げて、クルスが問う。
「視察にかこつけて"女神"を連れ出すとは、と怒っておった。」
「もう話が届いたのですか。」
「早耳じゃな。」
感心したような口調だが、ジェイクの態度は興味のないそれだ。
「王が不在となる城に残しておくことに懸念が生じるのならば、その間だけでも、女神を神殿に置くべきだと。」
「……。」
「その方法が、陛下にとっても"黒の女神"にとっても、最善の安全策だと考えておる。」
「確かに、空になる城に"女神"が残ることで、漠然とした不安を抱く者は多いはずです。」
城内だけでなく、民の間でもその不安は伝染し広がる可能性がある。
その不安を、あるいは1人になった"女神"を、利用する者がいないとも限らない。
「王の側が無理なら巫女姫の側に…というのも一理ありますね。」
頷いては見るが、クルスは言葉を続ける。
「ただ、今回の同行は、"女神"への懐柔策であり、保護したことを外的に印象づける効果を狙ったもの。ついで、"緋の塔"への誘い出しの意味もあります。」
「それは、神官長もわかっておろう。」
「あぁ……。要するに、神殿に目を向けないのに、"緋の塔"には出向くのか、と。」
「うむ。」
それは国や王が、神殿に目を向けないことと底で繋がっている。
少なくとも、神殿からすれば、そう解釈できる。
("女神"の把握など、"緋の塔"ではとっくに終えていると思えば、尚更か。)
自明でも、公になっていないその点に触れないのは、暗黙の了解である。
苦笑交じりのため息を飲み込んで、クルスは眼鏡を押さえた。


「そなたも、"女神"の同行には反対していたな。」


少しの沈黙が落ちてから、クルスは口を開いた。
「神殿に、とは思っていませんでしたが、視察への同行は反対でしたよ。」
「結局、納得したのか?」
「考えた上でのご判断ですから。」
「おかしな案ではないと思うがな。現状、どこが安全ということもなかろう。」
神殿にいれば安全だというのは、イルの言い分だが、言い切れるものではない。
結果的に、女神は城には残らず、視察に同行するのだ。先の心配は、杞憂でもある。
セリナの外出については、すぐに人々の知るところとなる話だ。


「同行すれば、危険が高まります。」


「精鋭に囲まれておれば、そうめったなことは起こらない。そんなに"女神"を心配しているとは思わなかった。」
ひげを撫でる宰相に、クルスは首を振った。
「いいえ、そうではなく。」
「ん?」
「"女神"が側にいることで、陛下への危険が高まると言っているのです。」
ジェイクが、面食らったように瞬く。
「ふむ。まぁ、そなたの立場なら当然の意見か。」
視察に同行しないがゆえに、はがゆいところはあるのだろう。
ジオの安全を得るのなら、留守中、女神の持つ懸念を引き受ける覚悟はあると。
クルスの心情を推測して、ジェイクは頭を掻いた。
「"黒の女神"を保護した陛下が、そのリスクを考えていないわけがあるまい。」
「わかっています。」
一瞬だけむっと眉を寄せた青年に、宰相は笑みをこらえる。
「"保護"に賛同した者同士、強く反対もできぬか。」
「……。」
小さく肩をすくめてから、クルスは諦めたように力なく笑う。
「では、私はこれで。」
退室しようとするクルスに、頷きかけてから、ジェイクははたと顔を上げた。
「あぁ、待て待て。そういえば、"賢者"がそなたを探しているらしいぞ。」
「"賢者"? "蒼の塔"の賢者ですか。」
振り向いたクルスが目を丸くする。
「そう、その"賢者"だ。用向きまでは知らぬが、今日も登城しておるようだから、訪ねて行くやもしれぬ。」
「そうでしたか……。わかりました、私も探してみます。」
一礼して部屋を後にするクルスを見送って、ジェイクは自分の机に視線を戻した。


最初に、黒の女神を保護すると決めた王に、首肯したのだ。
貴族たちから反対されるのは明らかだったし、彼らの言い分も理解できる。
ジェイク自身、その判断が正しかったのかどうか、未だに答えは出ていない。
けれど、ジェイクは王に従ったのだ。
その理由を、知らない者は知らないままでいい、と思う。
("黒の女神"か。)
山積みの書類に目を止めて、椅子に座り直す。
直前で変更になったことで、視察の警備案を練り直す作業に追われているはずの騎士たちを思い、仲間意識を抱く。
「ふう……どれどれ、続きじゃな。」
言いながら、書類に手を伸ばした。




















「"賢者"が、ここへ来るとは珍しい。」
来客を迎えるためのサロン。
訪れた相手を謁見の間ではなく、客間へと通したのは正式な訪問ではなかったからだ。
大きなソファに座ったジオの前に立つのは、青いローブをまとったこの国の"賢者"。
深々と頭を下げた後、彼は目を伏せたまま1冊の本を取り出した。
「此度は陛下に、こちらを献上しに参りました。」
「……これは。」
テーブルの上に置かれた、古びたそれに手を伸ばし、題字をなぞる。


「『ラ・サウラ』。"古の賢者・ノア=エンヴィリオ"が遺した書物の1つです。」


ジオは、賢者の告げたタイトルを口の中で繰り返し、眉を寄せた。
「俗に『予言の書』と呼ばれている、有名な『ファトレ』……古代語で未来を意味する書とは別の物です。」
『ファトレ』という本来のタイトルはそれほど知られていない。
今、賢者が告げた『ラ・サウラ』という題名は、それよりもっと耳馴染みのないものだ。
「以前から、"ノア"について調べるよう"蒼の塔"に依頼が来ていましたが、その調査の中で、この本がもっとも『予言』と関係が深いのでは、という見解に至りました。」
表紙をめくると、中の文章は古代語で綴られていた。
「ノアの遺した著書は、いくつもあるはずだが……。」
「はい。ただ、これは『ファトレ』より後に書かれたもの。内容も、捕捉だと思われる個所がいくつかございます。」
数ページをめくってから、本を閉じた。
「陛下の調べられている件について、お役に立てるかと思いまして。」
その言葉に、ジオは小さく笑う。
「さすが"叡智の賢者"と称されるだけはある。なんでもお見通しか。」
「まさか。どんなに賞賛されようと、"叡智"を名乗るには及びません。」
賢者は、緩く首を振る。
「その知識で、先の世を教えて欲しいものだ。」
「お役に立ちたいところですが、未来を視る力はありませんのでご容赦を。」
どんなに魔力の高い者でも、時を操る力を得ることは困難だ。
その力を持つ精霊が、人に力を貸すことは稀であると言われているが、そもそも、その概念たる精霊を感知して、契約しようとする段階まで辿り着くことができない。
「"古の賢者"は『ファトレ』を得たと思うか?」
「ふふ、陛下は"叡智の賢者"を試しておられる。」
「……。」
「やはり、"叡智"を名乗るには及ばぬことです。その過去も、答えは未知。知ることのできない知識。」
過去も未来も視ることはできない。
予言を遺したと言われるノアには、本当は何が視えていたのか。彼の言葉から、探るしかない。
「試そうという気で問うたのではない。気を悪くするな。」
「もちろんです。」
ジオは、古書を眺める。
ふと、自室に置いてあるままの、クルスから受け取った報告書の存在を思い出した。
セリナから聞いた"方舟"の話。
彼女が研究員に話したとは思えないから、研究所がまとめた報告書からそれについて得られる情報はないだろう。
(これに、何か手掛かりがあるだろうか。)
賢者がこれを差し出したのは、あくまでノアの予言を解読する手助けに、という意味だ。けれど、それ以上の発見がないとは限らない。
セリナが言うところの『偶然の一致』を見つけ出すこと。
それが持つ危険を承知している。
ジオもセリナも。


黒の女神が"災厄を運びし者"だと決定づけることになるかもしれない。


再度、ジオは本へと手を伸ばした。
(どんな結果を生むとしても、知ることを避けては通れないか。)








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