10.






「女官長からはまだ何も返事がないの?」
クライスフィル城内の自室でティリアは侍女に問うた。
「はい、あれから何も。」
申し訳なさそうに、ラベンダー色の髪の少女が答える。
「選定が難航しているとの話です。」
赤髪のもう1人の侍女がそう付け加えて、ティリアは柳眉をひそめた。
先日、庭でのお茶会でテーブルセットを任されていたメイド。彼女たちは、ティリア付きの侍女だ。
「カナン、女官長と直接話ができるように取り次いでもらえるかしら。」
「もちろん、それはかまいませんが。」
赤髪の侍女・カナンは語尾を濁す。
「どうかした?」
顔を上げてティリアは怪訝そうにカナンを見た。
「いえ。」
目を逸らしてカナンは、首を振った。それを見ていたもう1人が口を開く。
「ティリア様。」
「何? リル。」
「ティリア様が、そこまで動かれる必要があるのですか?」
疑問の中に、不満が見え隠れする物言いだった。
「女神付きの侍女の選定など、城の女官に任せておくべきですわ。」
「そうね。」
ティリアは小さく息を吐いて、微苦笑を浮かべる。
はっきり言えば部外者になるティリアが、口を出す筋合いはない案件だ。
「けれど、わたくしはセリナ様が城で暮らすのに困ることがないように、と言われてここにいるのよ。」
「それは……。」
呟いて、リルは視線を泳がせた。
「心配してくれているのはわかっているわ、リル。カナンも。」
2人ともティリアが幼い頃から仕えてくれている気心の知れた仲だ。家というよりはティリア自身に忠誠を誓っているようなところがある。
「頼れる者がいない城での暮らしはどんなにか心細いでしょう? 少しでも早く付きの侍女を決めなければ……いつまでもわたくしが側に付いていられるわけではないし。」
「当然ですわ! そんな、いつまでもティリア様が……っ、"教師"ならいざしらず世話役までされて。」
リルは一度言葉を切り、感情を抑えようと努力する。
「あの方に仕えている、と言う者までおります。私は、ティリア様が軽んじられているのが口惜しいのです!」
「リル、口が過ぎるわよ。」
諫めたのはカナンだった。
ティリアは困ったような表情を浮かべる。
リルが言うほど、この件で軽く見られることに抵抗はないが、家のことを考えればいつまでも"世話役"にいるわけにもいかない。
(事実がどうあれ、世間的に女神に与したと見えるのはうまくないものね。)
名の通った名家の出自であればこその"教師役"の抜擢であるが、そこの娘がメイドまがいのことを続けることまでは含まれていない。
「進捗状況を聞くという名目でなら、女官長と直接会うこともできるかと思います。ただ選定の難航は、城のメイドたちに問題があるからだという話です。プレッシャーにはなるでしょうが、事態の進展は望めないかと。」
既に取り次ぎの算段を練りながらカナンが告げる。
初期の段階で、セリナ付きの侍女を選ぶようにと布告している。それからいくら経っても、決定の知らせは来ない。
女官長がサボっているわけではなく、女神付きの侍女になるという者がいないのだ。
「そうね、けれど一度話す必要はあるわ。」
ティリアは苦渋の表情を浮かべる。決定を催促する権限はない。出過ぎた真似をすれば、煙たがられる可能性もある。
それによって城でティリアの立場が悪くなることを、彼女たちは心配しているのだ。
「ねぇ、そうでしょう? リル。」
居心地悪そうなリルを引き上げるように、声をかける。
「はい、ティリア様。」
刹那、逡巡してリルは思い詰めたように続けた。
「何時いかなる時でも、我々はティリア様の味方です。」
いったいどんな想像を膨らませたのかはわからないが、少しずれた決意を口にしたリルにティリアは思わず破顔する。
「ありがとう。」
「ティリア様のことですから、たとえ国王陛下の命がなくとも、放ってなどおけなかったでしょう。そのように心を砕かれるティリア様を私は尊敬しておりますし、お力になりたいと思っています。ティリア様のためでしたら、この身で可能な限りどのようなことでも致します。」
「カナン。」
「では、早速私は取り次ぎに参ります。」
そう言って一礼すると、カナンは部屋を後にした。
(そして、わたくしはわたくしのできる力で貴女たちを守る。)
自らに仕える2人を思い描いてティリアは心の中で誓う。そして、セリナに思いを馳せた。
(あなたにも、そういう存在を早く側に。)
















「う、わ・わ・わ……ぅきゃぁ……!!」
ドスンという音と水の撒ける音が響き、カラカラと水桶が転がる。
周囲にいた者たちが何事かと視線を向けるが、騒ぎの中心人物を見つけると一様にため息交じりで納得顔を見せた。
「アエラ……、よくそんな何もないところで派手に転倒できるわね。」
同じような水桶を両手に持ったメイドが、少女の前に立ってそう告げた。
近くで洗濯をしていた他のメイドたちがくすくす笑う。
「うぅぅ。」
少女は唸りながら起き上がると、転げていった水桶を回収する。申し訳程度に底に残った水を捨てると、再び水場へと戻る。
「あなたと同じ仕事をしてたら、ほんといつまで経っても終わらないわ。」
「す、みません。すぐに汲み直します。」
苛立ちを隠そうともしない先輩メイドに謝って、桶に水を汲む。
決して軽くはない水桶を2つ持ったまま待たされているメイドは眉間の皺を深くする。
隣で洗濯中の顔馴染みが声をかける。
「ファナも大変ね。こんなそそっかしい子のお守りなんて。」
「まったくよ。もう少し注意力を持てないものかしらね……あぁ、嫌だ。」
持っていた水桶を地面において、ファナは顔を歪めた。
「スカート濡れちゃってるじゃない。」
「あぁ、さっきので。」
頷く友人を横目にスカートを手で払うが、もちろんそれでなかったことにはできない。
「っもう、最悪!」
「ご、ごめんなさい。何か、拭く物を。」
わたわたと水桶を持ったままで慌てるアエラにファナは露骨に嫌な顔をした。
「余計なことしないでよ!? どうせまた水を零すのがオチなんだから! 謝るくらいなら最初から注意しなさいよ、もう毎回毎回……イライラするわね。」
再び桶を持って歩き出す。
「たいした家の出でもないくせに王城で行儀見習いだなんて、どんなご身分かと思っていたけど、外に出されたワケならよくわかるわ。」
「……。」
言い返せないのは、言われたことが事実だからだ。
水場から上がる石段に足をかけてファナは振り返らずに口を開いた。
「……足元気をつけなさいよ。」
純粋に心配しての言葉ではないが、気遣いには変わりない。
2段前を行くファナの背中に、返事をしようと微笑みながら顔を上げた。
「はぃ……い!?」
答えて、視界に映ったのはファナではなく青い空だった。
無意識に水桶を放して、縋るように掴んだ物の正体を考える暇もなくアエラの意識は一瞬暗転した。
辺りに先ほど響いた音が再現される。それも、2倍の音量で。
「うぅ、いたた。」
のそりと起き上がったアエラがいたのは石段の下だった。
両手にあったはずの水桶は離れた場所に転がっている。
一瞬で脳裏に『また汲み直さないと』という考えと『また怒られる』という考えが走った。
「……っア〜エ〜ラ〜〜ぁ!!」
思考を遮って念のこもった声が耳に届いた。見れば俯いて座り込んだファナの姿。なぜか髪から水が滴り落ちている。
顔を上げたファナの鋭い視線に射抜かれてアエラは青ざめた。
「落ちるなら1人で落ちなさいよ!」
思わず掴んだのはファナの服だったらしい。
スカート半分が濡れたアエラに対して、巻き込まれたファナが頭から水をかぶったのだから怒り心頭も仕方がない。
「ご、ごめんなさい! ファナさん、大丈夫ですか!?」
慌てて頭を下げるが火に油だった。
「大丈夫なわけないでしょう!? この状態で平気だとでも!?」
怒りか羞恥からか、ファナの顔が赤くなる。
またしても返された正論に、アエラは次ぐ言葉が見つからず口をパクパクさせた。
「引き倒して一緒に落ちるだけでは飽きたらず、水までかけるなんてどういうつもりよ!わかってるの!? 私にかかったのはあなたが持ってた水なんだからね!?」
「ごめんなさいぃ!」
アエラをキッと睨みびしょ濡れのまま立ち上がる。
「ファナさん……。」
「触らないで!」
伸ばされたアエラの手を振り払うと、髪から雫が飛ぶ。
「なんで私がこんな目に合わなきゃならないのよ。」
悔しそうに唇を噛んで、ファナは俯いた。
「ごめんなさい、ファナさん。わたし。」
「もう嫌。あなたの担当なんてごめんだわ! 絶対、替えてもらうからね!!」
「……!」
宣言されてアエラが言葉に詰まった。
「アエラの担当ファナで3人目だっけ?」
「そ。これでも長かった方じゃない?」
ひそひそと小声でメイドたちが会話する。
「たかだか数ヶ月でこうも担当が変更するってねぇ。」
やり取りを見ていたメイドがファナに近づく。
「ねぇ、ここはいいから着替えてきなさいよ。」
同僚の声に「ありがとう」と返してから、歩き出す。
「でも、もうついでだから汲んで帰るわ。」
転がっていた水桶を掴んで水場へと進む。心なしか目が据わっていた。
「ファナさん、わたしがやっておきます!」
桶を掴んでアエラが食い下がった。
ファナの顔が歪んで、泣きそうな表情になった。
「放して! あなたと関わるとロクなことにならない!」
桶を掴んだ手に力が込められ、アエラを振り払うように動いた。
いい加減にしてよ、この疫病神!!
ぐん、と体が傾いでアエラの視界が揺れる。


「危ない!」


どこかでそう叫ぶ声。
背後にあるのは水場だ。あ、落ちるな。とスローモーションの世界の中で、アエラは他人事のように考える。
ファナの驚愕した顔を捉えた一瞬の後、予期せぬ衝撃に見舞われた。
ふわりと視界を掠めたのは、見慣れない『黒』だった。
バシャン…!
派手な水音がして、辺りが静寂に包まれた。
かろうじて石畳の上に倒れたアエラは振り返って、自分の目を疑った。
そこにいたのは黒い髪の少女。
「め、女神…さま。」
震えた声が少女の正体を紡ぐ。しんと静まりかえった中で、水の流れる音だけがする。
「冷た……。」
小さくそう呟いて黒い髪の少女が立ち上がった。
はっとしたようにアエラが手を差し出す。
大丈夫ですか、と言いかけて、ついさっき同じことでファナを逆上させたことに思い至る。
「あぁ、ありがとう。」
気恥ずかしげに微笑んで、相手がアエラの手を取る。
周りの者は一言もしゃべれないまま凍ったように動かない。
中でも当事者であるファナは、いっそう青ざめて立ちすくんでいた。
水場から上がった少女からぽたぽたと雫が落ち、その足下に水たまりを作る。
「ぅあ。」
ファナが口を開くと呻くような声が出て、全身が震え出していた。
黒髪の少女から不思議そうな視線を向けられて、ファナが一歩後ずさった。
足に当たった桶が転がりガランと音をたてる。
何事かを紡ごうと少女の口が動いたのを見て、ファナは反射的に叫んでいた。


「い…いや!!祟らないで!!!どうか命だけは…っ!」


"女神"が目を見開く。
怯えたようにさらにファナが後ずり、踵を返した。
「ファナ!」
メイドの1人が声を上げるが、振り返ることもなく走り去った。








「セリナ様!」
切迫した感情を含んだ鋭い声がした。
走り去ったメイドの後ろ姿から視線を戻して、声の方を見れば見慣れた顔。
「リュート。」
表情を緩めたセリナとは反対に、リュートの表情は険しくなる。
「……ッ! これはどういうことだ。」
常より低い声は、セリナではなくその場にいる他の者に向けられたもの。
問われて、居心地悪そうに無言で顔を見合わせるメイドたち。
誰もそれに答える者はいなかった。
「いいよ、リュート。私が勝手にやらかしちゃっただけだから……行こう?」
リュートの袖を引いて、取りなすようにセリナが告げる。
眉間にしわをひとつ刻むと、セリナに向き直る。
そこで何か言おうとして、だが結局何も言わずに彼は口を閉じた。
重たくなった服の裾を絞ろうとしたセリナだったが、その前にリュートが着ていた上着を肩に掛けられた。
(重量が増した。)
「そのままでは風邪をひきます。早くお召し替えを。」
回された手が些か強めに背中を押し、歩みを催促される。
握った裾をぎゅうっとしてから、セリナは素直に従った。
最後に一度だけリュートがその場にいる者に視線を巡らせたのだが、セリナは気づかなった。




セリナたちの姿が消えてしまってから、残されたメイドたちは一様に息を吐き出した。
それぞれ何か言いたげに相手の顔を伺うが、誰も何も言わずに仕事へと戻る。
少し経ってから、1人のメイドが呟くように隣のメイドに声をかけた。
「ねぇ、アエラはどこ?」
水場の石畳の上には、転がったままの水桶が4つ残されていた。








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