59.








アジャート側の森の中から、2人が一歩ずつ進んだ足場の悪さなどものともせずに。
飛び出してきた黒い影は、勢いもそのままに、セリナへと向かう。
「!!」
咄嗟にリュートはセリナを川向うへと押し出し、影との間に割り込んだ。


「リュート!!」


鈍い音が響く。
黒装束の相手が抜いた剣を、鞘で受け止めたリュートは踏みとどまった足に力を込める。
回転するように体勢を変えた影は、リュートを交わしてその剣をセリナへ振り下ろす。
けれど。
キィンと高い音がしたのと同時に、振り下ろされた剣は"何か"に阻まれるように虚空で動きを止めた。
「壁か。」
吐き捨てるように一言もれたのは男の声。
一瞬動きが止まったのを見逃さず、リュートは男を下流へと蹴り飛ばした。
「ッ!」
岩場から川へは、階段3段ほどの落差。
バランスを崩したものの、黒い影は器用に跳躍して、濁流から突き出た岩へと着地する。
リュートは素早く懐から魔法石を取り出すと、それを真上へと放り投げた。
それは上空で光を放ち、しばらくの間きらきらと輝いた。
「リュート!」
「来てはいけません。そこなら貴女に剣は届かない。」
はっとしたように、セリナが目の前の何もない景色を見つめた。
「な、なら、リュートも早くこちらにっ。」
セリナが手を差し出すが、リュートは首を振る。
剣を抜いたリュートは、下流に立つ男を見据えながら、比較的大きくて安定した足場へと移動する。
それはセリナから離れる動きだった。
(追っ手? この男、出て来るまで気配をまったく感じなかった。まさか兵士が引き上げたように見えたのは、油断させるため? いや、そんな策を弄する意味がない。)
黒装束の男は、空の光をしばらく眺めていたが、ようやくゆっくり視線を戻した。
「やっぱり、コッチで正解だった。まぁ、下流の橋なんて選ばねーよな。」
「セリナ様は渡さない。」
待ち伏せを匂わせる台詞に、剣先を男に向けて低い声を出す。
川岸に立つセリナに視線を向ける動きを見せてから、男はリュートに相対する。
「黒の女神様に用はねーよ。」
笑いを含んだ声に、リュートは思わず眉を寄せた。
「女神の周りには、強いヤツが集まるから、楽しいな。」
言われた意味を理解するのに、一瞬の間が必要だった。
「……だが、さっきは。」
戸惑いを隠せないまま声がこぼれたのを、男は聞き逃さなかった。
顔を覆う黒い布を取った男は、やはり笑顔を刻んでいた。


「女神に手を出せば、あんたたち本気出すだろ?」


「貴様…。」
剣を構え直して、リュートは男を見つめた。
「逃げられると思った?」
男がそう尋ねた先は、リュートではなくセリナ。
その視線を辿るようにセリナを視界に入れて、リュートは血が上るのを感じた。
目にしたことのない、蒼白な顔で固まっているセリナの姿。
この男との間に、何かがあったことは聞かなくても知れた。
「どうやら、このままやり過ごしていい相手ではなさそうだな。」


「そう来なきゃな。」


小雨の降る中、睨み合う。
はっとしたように顔を上げたセリナが、慌てて声を上げた。
「リュート! だめ、この人と戦っちゃ……っ。お願い、こっちに。」
手を伸ばしたセリナの体が境界を越える前に、リュートはその場を蹴る。
同時に、男も剣を構えた。
















手を伸ばしてはみたものの、セリナはその場から動けずにいた。
突如現れた、ダンヘイトの兵士・イヴァン=ナリッツに睨まれ、身がすくんだ。
不安定な足場は滑りやすくなっている。リュートがバランスを崩して、川へ落ちたりしないか気が気でない。
(壁……そうだ、魔法壁が、見えないけど、きっとこの辺りが境界。)
左右に視線を走らせ、リュートに顔を戻す。
(リュートだけ、こっちに来てくれれば。なのにどうして。)
魔法壁の内側に入ってしまえば済む話だとセリナは考えたが、リュートはそれを選ばなかった。
(私には境目がわからない。下手に動いて、リュートの足手まといになるようなことはしたくないけど。)
どくどくと、心臓が早くなる。
おろおろしているうちに、リュートとイヴァンは川中から向こう岸まで戻ってしまった。
時折渋面を見せるリュートに対して、イヴァンは楽しそうだ。
ぞくりと背筋が冷える。
(だめだ、このままじゃ。)
セリナは、外套のフードを外し、顔を上げる。
空から落ちて来る雫が頬に当たる。
呼吸が早い。そう気づいても整える余裕はないが、視線だけは前を見据えて。
セリナは、首元に揺れる青い石を握りしめた。
(戻るなら、リュートも一緒じゃなきゃ。)
そう思うのになかなか一歩が踏み出せなくて、セリナは浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
















「セリナ様!」
「エリティス隊長!!」
打ち上げられた合図の魔法光を頼りに駆けて来た2人は、目的の人物を見つけて、声を上げた。
河岸に沿うように続く垣根と茂みを飛び越し、そこで馬から降りた。
声に驚いたように振り向いたセリナが、泣きそうな顔を見せる。
小石の転がる足場を走り、2・3歩の距離を残して2人はセリナの前に膝を付いた。
「ど、して…2人が。」
震える声でこぼし、目を丸くさせているセリナ。
「お迎えに参りました。」
安心させるために笑って見せればいいのだろうか、と一瞬考えるが、結局表情は変えないままラスティ=ナクシリアはさっと立ち上がる。
「セリナ様は、このままここに。」
"護り"に重きを置く魔法防壁は、フィルゼノンからアジャート側へは、さほど抵抗なく抜けることができる。
ラスティは対岸を目指し、魔法防壁をくぐった。
















フィルゼノン側から現れた人物たちが上げた声に、黒装束の男が距離を取って動きを止めた。
興味深そうに意識を向こう側にやっている。
「ずいぶんと余裕なことだな。」
剣を構えたリュートは、再びこちらを向いた男の顔を見て、眉を寄せた。


「"隊長"?」


嬉しそうな顔で、確認するように問うた男に、リュートは応じなかった。
「隊長格か、そりゃあいい。面白い。」
「……。」
男の発した言葉に偽りが見えず、リュートは左足を引いた。
隙をあけた先、その後ろにいるのは、ラスティだ。
既に剣を抜き、援護できる態勢になっている。


「その恰好。ポセイライナの林で襲撃を仕掛けて来た輩だな。」


「あぁ? 誰だおめぇ。」
ラスティの指摘に、男は怪訝さを露わにする。
「邪魔してんじゃねーぞ。」
声に苛立ちがのる。
(この男、アジャートの訓練を受けた兵士にしては感情的すぎるな。)
リュートは警戒したまま、やはり。と思う。
(他に仲間がいる気配はない。追っ手、だが単独行動。それもおそらく、命を受けてというわけではない。)




「忘れたとは言わせない。」




静かな声が割って入る。
男の目が、声の主…ラスティの横に立った騎士に向けられた。
「まだセリナ様を付け狙っているなんて。」
「あー? どっかで会ったか?」
「あぁ、会った。」
「悪ぃな、弱いヤツのことは覚えてないんだわ。」
「そうか、それは別に構わない。僕が君の記憶に残りたいわけじゃない。さっきのは。」
言いながら、剣をすらりと引き抜く。


「あの襲撃でセリナ様に恐怖を与えたことを、指して言ったものだ。」


ふぅん…と呟いて、アジャートの男は首を傾げた。
「襲撃、ねぇ。」
今度は反対側に首を傾ける。
「どうだったかな。」
やけに間延びした動きで空を仰いで、ゆっくりと腕を上げた。
「……とはいえ。あれだな。あぁ、あれだ、そう。」
正面を向いた男は、にやりと笑った。




も1回、痛い目みとくか?




「隊長、この者の相手は僕にやらせてください。」
ちらりと黒装束の男を見てから、リュートは剣を下ろした。
「……いいだろう。」
「っち、待ちやがれ。隊長のあんたに引っ込まれちゃ困るぜ。逃げずに、勝負しろ!」
「その台詞は、部下を倒せてから言ってもらおうか。」
ハッと短く笑った男は、リュートから注意を外した。


「上等だ。」








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