21.








蹄の音が変わったと思ったら、地面が石畳になっていた。
セリナが顔を上げた先、石を積み上げた低い塀の向こう側。
眼下にオレンジ色の屋根の連なる街並みと、きらきらと陽光を反射している海があった。
小舟と、さらに沖には大型船の姿も見える。
「海を見るのは初めて?」
「え? いえ、そういうわけでは。」
「じっと見ているから、珍しいのかと思った。」
笑いを含んだエドの声に、あいまいにセリナも笑う。
後ろにいる相手には見えていないだろうが。
(海は珍しくない……けど、あの沖の船影。あれって帆船?)
映像や絵などでも見たことはあるし、その物自体を知識として知ってはいるが、海の上に浮かぶ"正真正銘の本物"はお目にかかった経験がない。
(大海を渡る船なら、もしかして私もあれに乗るのかしら。)
「こっちです。」
先導するアルノーについて石畳の坂を下ると、風に乗って潮の匂いがした。
道の両端にはきれいに積まれた石垣が続く。
何度か角を曲がった後で石畳が切れた場所に着き、茂った木々を潜り抜けたところで馬を止めた。
「ここ?」
エドの手を借りながら、地面に足をつける。
目の前にはオレンジ色の屋根をした2階建ての家があった。
(これがハーデンのアジト。)
こじんまりとした可愛い建物だ。
「アル!」
ばたん、と茶色の扉が開き、中から青い髪の女性が出て来た。
「よお、エリノラ。」
前を歩くアルノーが片手を上げて応える。
「アルノーさん!」
セリナが成り行きを見守っているうちに、先の女性に続いて中から5人の男女が姿を見せた。
彼らはエドとセリナの姿に気づくと、揃って膝をつき深々と頭を下げた。
エドが軽く手を振る。
「みんな無事で良かった。」
その場で地面を見たまま、1人の男が口を開いた。
「エド様、そちらの御方が?」
「そう、お守りするように。」
返答を受けて、彼らが息をのんだのがわかった。
重々しく頷きさらに頭を低くする面々に、セリナは反応に困る。
(今のは……女神だと紹介された、ってことかな。)
アンナのように平伏されないだけ、マシなのかもしれない。
「とにかく中へ。」
アルノーの言葉に、エドが頷く。
「さぁ、こっちだ。」
振り向いたエドに促されたセリナは、膝をついたままの人たちを横目に彼の後を追う。
「エリノラ、馬を頼む。」
「お任せを。」
アルノーと女性のそんなやりとりが背後から聞こえた。




2階の奥の部屋へ通されたセリナは、シンプルな家具が置かれただけの室内を眺める。
エドが脱いだ外套をイザークが受け取るのを見て、セリナは自分のフードに手をかける。
「今、港の様子を見に行っている者たちがいるそうです。そろそろ戻る頃だと。」
そう言いながら、少し遅れて部屋に入って来たアルノーも、外套を脱いでいた。
赤銅色のツンツンとした短髪に顎ひげ。
日焼けなのか色黒で、体格のいい彼はまるでスポーツマンといった風だが、きっとそうではないのだろう。
青年というには年かさで、壮年といったところだ。
なんとなくフードを脱ぎそびれて、セリナは腕を下げた。
「そう、戻ったらすぐに話が聞きたいな。」
口元に手を当ててエドが何事かを考え込む。
「オルフの襲撃の後、そちらの追撃は止んだ?」
「街道を避けて撒きました。その分遠回りになりましたが、ここを知られるようなことにはなっていません。そちらは、何か動きはありましたか?」
「それが……湖のアジトも襲撃されたと連絡が。逃げ出せたようだが、負傷者が出た。」
エドは渋い顔で告げた。
「!! あちらも知られていたと? あれほど気をつけていたはすなのに、面目ありません。」
「いや、アルノーのせいではない。本格的に仕掛けて来たということだろう。」
「今のところやられたのは南部だけですが、この分じゃ北部の拠点も。」
「警戒するよう伝令を出しておいたが……。」
「あちらにも召集を?」
「いやそれはまだだ。だが、合流したら…―――。」
ふとエドの言葉が止まる。
「戻って来たらしい。」
窓の外に向いた視線が細められる。
「まずは彼らの報告を聞こう。」
「わかりました。」
「少し席を外す、女神はここで休んでいて。」
「え?」
「イザーク、女神を頼む。」
「はい。」
イザークに告げてから、エドはアルノーと一緒に部屋を出て行ってしまった。
(襲撃。)
セリナは胸を押さえる。
他の場所も襲撃を受けていたことなど、ちらりとも匂わせなかった。
(いちいち私に言わないのは当然だとしても。彼には余裕があるように見えていた……あれはそう見せていただけ?)
状況は切迫している。
今だって安全だと言い切れるわけではないのだろう。


―――お守りするように。


「どうかされましたか?」
イザークに声をかけられ、セリナはびくりと顔を上げる。
「いいえ、なんでも。」
「ソファに掛けてお待ちください。お茶でも用意いたします。」
1つ頭を下げてイザークも部屋を出て行き、セリナはソファに腰を下ろした。
そこでようやく、セリナもフードを脱ぐ。
("女神"のせいで銀の盾への追跡が厳しくなっているのかもしれないと、わかっていてもどうすることもできない。)
思わずため息がこぼれる。
何とも言えない自分の状況に落ち込みかけた時、外から人の話し声が聞こえてきた。
「?」
さっきエドが覗いていた窓とは別の方向。
家の裏手に向いた窓が、片方開いていた。




「―――…今年は収穫もそこそこあるらしいが、値段は上が…そうだな。」
「…の街道で商隊を狙った窃盗が横行…し…る影響もあるって話だ。」
「グリの火事で、畑をだいぶ焼いたとか。」


馬の鳴き声混じりで近づいて来た会話に、思わずセリナは耳を澄ませる。
(裏に、馬小屋が?)
偵察から帰って来た者たちの馬を預かった者たちだろうかと、セリナは予想する。
直接、彼らの姿を捉えることはできないが、どうやら3人いて内1人は女性らしい。


「スーラ・マは例の衝突で壊滅的被害だと聞いたわ。」
「どこも危機的な状況には変わりない。比較的落ち着いているのは……イレの地か?」
「王都の中心部とカナグラード、後はオルフだな。」
「まぁ、オルフの町が保っているのは、エド様のおかげだが。」
「神殿が"祝福"をしているのはもうオルフくらいだろ。」
「けど、今やエド様も不在にしているわけだし、いつまで保つかしら。」
「北のイレだが、このところあそこもキナ臭い噂が出てるな。」
「はぁー、まったくどこもかしこも。あ! 横の餌まで取るなよ…ほら、いい子だから。」
「こっちにも飼い葉ちょうだい。」
「マルクスがまた攻めて来たと言っていたが、あれはどうなった?」
「あぁ、アーフェの国境線だろ。国軍が北に向かっていた。オーフェン軍だ。」
「おかげで南部からは目が逸れたな。まぁ、ここはここで別のが張り付いているが。」




―――最近では自警団と名乗ったごろつきまで…。
そんなエドの言葉が不意に思い出された。
(アジャートって治安が悪い場所が多いのかな。)
重い口調ながら、馬の世話をしながらのそれは彼らにとって日常会話らしい。
(フィルゼノンでは、そんなこと感じなかった。私が知らないだけ? いいえ、でも。)
コンコンとノックの音がして、はっとセリナは顔を上げた。
「お待たせしました。」
顔を見せたのは、お茶を淹れて戻って来たイザークだ。
そそくさと窓際を離れて、ソファに座る。
受け取ったカップに口を付けて、セリナは動きを止める。
「……あれ。」
「どうかされましたか?」
「このお茶。」
白いカップの中で揺れる液体に、セリナは目を瞬く。
「何か。」
イザークが首を傾げた。
(これってまさか。)
立ち上る香り。
彼の淹れたお茶はいつも美味しかったし、今回だってそうなのだが。
はっとした様子を見せ、慌ててイザークはその場で膝をつき、さらに深く頭を下げた。
「べ、別の物とお取替えいたします!」
「え? あ! 違ッ…そういう意味じゃなくて!」
誤解を与えたことに気づいて、セリナは立ち上がりイザークの行動を押し留める。
「おいしいから! 取り替えなくて大丈夫!」


「2人とも、何をやっているんだ?」


横から飛び込んで来た声に、戸口を向けば、きょとんとした表情のエドが立っていた。
「いえ……なんでも。」
ひとまずこの場は大人しく座り直して、セリナはカップを両手で包む。
膝をついたイザークは、壁際でそのままの態勢だ。
一度ずつセリナとイザークを見てから、エドは口を開く。
「今後のことについて話をしようと思って。」
目の前のソファに座ったエドの動きを目で追う。
「地図を持って来たんだ。」
そう言って彼が机に置いたのは、大陸地図とハーデンの町の地図だった。
「幸運なことに、明日ロザリアとの往復船が着く。ここでの停泊期間は5日。その間に、乗り込むことができれば海を渡れる。」
思いのほか早い展開に、セリナは目を瞬く。
「これを逃すと次は一ヶ月以上先になってしまうんだ。通行証の準備が少し厄介だけど、出港までにはなんとか間に合わせる。」
ここで一ヶ月となれば、ばれるリスクは高くなるし、隠れ切ることも難しくなる。
急ぎたい気持ちはセリナも同じだ。
「ただ、見張りがね……街のあちこちにいるから、警戒しないと。」
「"ダンヘイト"?」
「彼らもだし、そうじゃない兵士もいる。」
「……。」
「"ダンヘイト"自体は少人数の隊だけど、彼らは兵士を動かせる。途中で襲って来た者は単独行動だったとしても、あの経路がばれていたなら、隊として既にハーデンを押さえていても不思議じゃない。見張りの者の話では、それらしい者の姿は確認できなかったようだけど……うかつには港へ近づけない。」
「そう。」
「オルフでもう少し足止めできると思ったんだけどね。」
エドは微苦笑を浮かべた。
「もし必要なら、道案内と護衛を兼ねて"盾"から人を同行させる。行けるのはロザリアまでにはなるけど。」
「……ありがとう。」
こちらの地理に疎いセリナにとって、この上ない支援だ。
「じゃぁ、この先の手筈について説明しておくよ。」
地図を広げるエドの動きに、セリナはカップを机の端へ避ける。
「あの。」
地図へ視線を落とす前に、エドに声をかけた。
顔を上げたエドに、一度躊躇ってからセリナは再度口を開く。
「エドたちは、"銀の盾"はこれからどうするの?」
少し間を置いて、エドは神妙な顔を見せた。
「それも、これから決めることになる。」
(これから…って。)
人手を割いてくれるというエドの言葉に、追われている彼らが今後どうするのかと、疑問に思っての質問だったのだが。
「まず、船の乗り場だけどーーー。」
("銀の盾"よりこっちを優先してくれている?)
「……。」
説明をしているエドを横目に、ふるふると小さくセリナは頭を振った。
「どうかした?」
「いえ。」
不思議そうな顔の青年に、続けてくださいと手振りで示してから、セリナは急いで地図に目を向けたのだった。








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