11.








夕食を摂っていたセリナの元へ、顔を見に来たと言ってルーイが現れたのは少し前のことだ。
食事を終えるまで、ルーイは終始椅子に座ってグラスを傾けていた。
(凝視されているわけじゃないけれど、食べにくいし迷惑。)
扉を半分開けているのは、一応の配慮らしかった。
「いるか?」
示されたボトルには見慣れない文字。
その形状とラベルの様相から、中身を推察する。
「お酒でしょう? それ。」
「あぁ。」
「イリマセン。」
この国の法律は知らないが、一応未成年であるし、そうでなくとも飲みたいと思う心境にはない。


「時に、セリナ。オレはどちらでも構わないんだが。」


顎に手を当てながら、ルーイが話し出す。
急な台詞に、セリナは首を傾げた。
律義に以前の会話を記憶の中で探ってみるが、何か選ぶような話題を投げた覚えもないので、どちらでもと言われても困るだけだ。
「いきなり何。」
いや、と小さく前置きをしてセリナに視線を向ける。
「無理に、強がる必要はないぞ。」
言われて、セリナは肩を揺らす。
「その方が楽だというならそれでもいいが、気を張り過ぎてそのうち切れてしまいそうだからな。」
反論を口にしようとして開いた唇が震えた。
顔を上げるとルーイと視線が絡む。
「虚勢を張って……わざと強がって見せてるのは、不安をごまかすためか?」
アメジストのような瞳の色。
真っ直ぐに向けられた視線から、目を逸らすことができない。
セリナは手を強く握りしめる。
爪が手の平にくい込むが、その痛みで逆に動揺していた意識がはっきりした。
「勝手にこんな場所まで連れて来られて、心細くて仕方ないんだろう。」
「打ち解けろという方が難しい話よ。どうするつもりか知らないけれど、思い通りになんてならないんだから。」
挑むような言葉を聞きながら、ルーイは空のグラスをくるりと回す。


「明日、ここを発つ。」


セリナは思わず動きを止める。
「ここでの任務は果たされたからな。王都へ戻る。」
(果たされたってことは、つまり。)
当初、責任者だと名乗ったルーイに、セリナは彼らがこの砦で国境線を守っている兵士なのだと思っていた。
だが、後にジーナから、ルーイたちは遠征軍として、王都から派遣されて来たのだと聞かされた。
国境監視役の兵士が数名、元々砦にもいるが、彼らとは別物であるらしい、
遠征の理由は、『フィルゼノン王が、"緋の塔"に視察にやって来ているから』だという。
だから、向こうが退けばこちらも引き上げる、と。
(視察が終わった…ってこと?)
セリナの思考を読んだかのように、ルーイが先を口にする。
「つつがなく、視察を終えて"塔"を離れたのを確認した。」
ルーイに視線を合わせたセリナに、彼はゆっくりと告げる。
「フィルゼノンは、"黒の女神"を見捨てた。」
真剣な表情で、ルーイは残酷な事実を告げる。
「助けは来ない。」
「そ…んなこと、どうしてあなたに断言できるのよ。」
「そもそも、君が攫われたということを隠している。」
"女神"がアジャートに誘拐されたことが公になれば、国に不安を広げ騒ぎになる。
セリナの知る限り、女神に対する反発はここしばらく小康状態を保っていた。
視察先で好意的な出迎えを受けたのは、ジオたちの尽力の賜物だ。
(言うわけがないわ。せっかく視察に同行させてもらったのに、これじゃジオに迷惑をかけてしまう。)
「まぁ、隠してるというか、その事実を消そうとしているようだ。」
「っ。」
思わず背筋がゾクリと冷えた。
(あの襲撃をなかったことに……ってこと?)
いや、と首を振って、セリナは拳を握る。
(そうよ。それが火種になって、剣を抜いたりすれば、本当に戦争になってしまうもの。)
戦を望まないフィルゼノンが、そんな真似をするとは思えない。
理屈を見つけて、セリナはぎこちなく口角を持ち上げる。
「構わない。私のせいで、誰かが傷付くくらいなら助けなどいらない。」
戦争を起こさせたくない気持ちは事実。
美しいと感じた世界を、壊したくないとの思いはまだ薄れていない。
脳裏を掠めたのは、未だ安否のはっきりしないパトリックの姿。
優秀な騎士たちばかりだからきっと助かっている、と刷り込みのように何度も自分を納得させるが、不安は拭い去れない。
自分だけ逃げてしまったから、あの危険な場所に残してしまったアエラの無事もわからない。
結果として、セリナはダンヘイトが追いついて来たことを知っている。
最悪の事態への恐怖。
彼らを信用などしていないのに、助けると言った言葉に一縷の望みをかけて縋っている心は否定できない。
自身のせいで周りが命の危険に晒される場面など、これ以上経験したくはなかった。
(フィルゼノンが、"女神"を見捨てたって。)
「そーゆーところだよ。」
呆れたようにため息をつくルーイの顔に、微かな苛立ちが浮かんでいた。
「どっちでもいいとは言ったがな。その物わかりの良さが、不自然なんだよ。」
無遠慮に指を向けられて、セリナは身を引く。
「ショックを受けてないわけじゃないだろ? いなくなったことも隠して、何もなかったかのように処理されてんだぞ? 助けに動く気配もなく、見捨てられてんだぞ?」
「だって、そんなの……。」
「仕方ないとでも言うつもりか? セリナの顔は、そう思ってるように見えねーけどな。」
「!」
「ったく、クラウスの肩を持つわけじゃないけど。あいつの言うことも一理ある。」
グサグサと刺さるような言葉の連続に、セリナは唇をかみしめた。
「……。」
「先を見据え、策略を巡らす狡猾さを持たない王が、侵略を許さないだけの大国を維持できると思うか? 自国を滅ぼすと言われている存在を、理由もなく手元に置くとでも?」
首のペンダントを両手で握りしめて、セリナはルーイを睨む。
「彼は…責任を……とる覚悟を持っているもの。」
ルーイもセリナの瞳を見据えた。
「フィルゼノンは開戦の危険を冒さない。彼らは国境を越えられない。全てを捨てて君に尽くすナイトでもいるなら、話は別だが。」
ルーイの言葉に、再度脳裏に蘇ったのは過日の光景。
凶刃に倒れ地に伏した騎士と、雨に流れる赤い色。
「……!」
「保護した者を奪われて、救おうと動かないのならば、結論は1つ。心底、信頼し護ろうというつもりがなかったってことだろ。災いになると判断すれば、剣を向ける対象だ。」
容赦しないと言ったジオの姿が蘇る。
「フィルゼノン王は、"女神"を救いはしない。助けもしない。ただ、制するだけだ。」
息を吸うと、ひゅ、と音が出た。
意識したわけではなかったが、次の瞬間には側にあった枕を掴んでルーイに投げつけていた。
はずみで当たった机の上の食器が、派手な音を立てて床に落ちる。
いずれも丈夫なのか割れはしないが、倒れた酒瓶がその中身を床に注いで転げた。
大きく避けはせず片腕で枕を受けたルーイは、静かに持っていたグラスを机に戻す。
肩で大きく息をして、セリナは机に両手を付き、思わず立ち上がっていたことに気づく。
乱れた髪を直しもせずに、ルーイに鋭い目を向けた。
「そうよ、だから大丈夫。フィルゼノンは、女神の災いでなど滅びたりしないわ。」
「……。」


「彼が、そんなことさせないから。あの国は滅びない。」


目を逸らさずに、強く言い切る。
交差する視線を先に動かしたのは、ルーイの方だった。
「それが、セリナにとっての真実ということか。」
たいしたものだなと、響く声からはその心情を窺うことはできない。
「そう怖い顔をするな。」
降参というように両手を上げて、ルーイは苦笑を浮かべた。
それで纏っていた空気が和らいだ。
「とにかく、オレたちは明日ここを発つ。もちろんセリナも一緒にな。」
「"女神"はアジャートの役には立たない。」
「……どちらでもいい。」
「それなら、私のことは放っておいてよ。」
「そりゃ無理だ。セリナをここには置いて行けない。」
「結局、利用しようと思ってるんでしょう。」
睨むセリナと対照的に、ルーイは笑う。
「いいや? 単純な話、オレはセリナを気に入ったってだけだな。」
ルーイの思考回路が理解不能で、セリナはむっと眉を寄せる。
枕をベッドに戻してから、ガチャガチャと落ちた食器を拾い上げ、最後に酒瓶を掴んでルーイが立ち上がる。
「安い酒だが、もったいねー。」
おどけるように呟いてから、グラスも持ち上げる。
「ぁ。」
「あ! ルーイ様、やっぱりここにいた。ウォルシュ君が探してたよ。」
口を開いたセリナと同時に、ジーナの声が響く。
「そうか、わかった。あぁ、ちょうど良かった。ジーナ。」
部屋に入って来たジーナの肩を叩いて、入れ替わりに廊下へ出る。
「ん? 何がちょうどいいって?」
「後を頼む。」
「?」
ルーイが指さした床に視線を落として、ジーナは目を大きくする。
「ちょ…っ。何したわけ、これ。どうりでお酒の臭いがすると…!」
「ジーナさん、掃除なら私がっ。」
セリナが声をかけると、女医は顔を上げてこめかみを押さえた。
さすがにそんなことをさせるわけには、という顔だった。
「とにかく、これじゃ酒臭くて使えないから、隣の部屋に移ってくれるかな。掃除は、適当なヤツに任せるから、ほら。」
ジーナに背中を押され、セリナは強制的に退去させられる。
廊下に出たところで振り向いてみるが、とっくにルーイの姿は消えていた。


―――フィルゼノン王は、ただ、制するだけだ。




(そりゃ、心底の信頼なんて、されてなかったかもしれない。それでも、見て来たジオは嘘じゃない…っ。)
















「ルーイ様。王からの書状です。」
部屋へ戻ったルーイを待っていたのは、ロベルトだった。
「なんだ、新しい任務か?」
届いた手紙をロベルトから受け取って、中に目を通す。
遠征は終了、明日王都へ帰還するべくここを発つ予定だが、そうはならないようだ。
「その後、フィルゼノンの動きは?」
「ラグルゼ周辺で、国境警備強化の動きがありますが。本隊や塔など、それ以外では、特に大きな動きは見られていません。」
書状から目を上げて、ルーイは机に寄りかかり腕を組んだ。
「フィルゼノンとて、襲撃犯の目星はついているだろうに。何事もなかったかのようだな。」
「長く隠せる話でもないかと思いますが。どう動くつもりなのか。」
ロベルトは肩をすくめる。
「一度は保護した手前、取り繕うはずだ。」
「……。」
ルーイの言葉に、ロベルトは口元に手を置く。
「外見を綺麗に見せるのが好きなフィルゼノンは、自ら休戦条約を破るのを嫌がる。あちら発で戦になるような、そんな方法は選ばない。」
「女神を手にしたアジャート王が、動き出す。そうわかっていても、先に仕掛けてくることはない?」
ロベルトの言葉に、ルーイは短く笑う。
「なぁ、ロベルト。」
「はい。」
「均衡の崩れが戦の引き金になる、と容易に想像できたにもかかわらず、フィルゼノン王が女神を疎ましく思わなかったのはなぜだと思う。」
「……。」
「この視察に連れ出したのも、ずいぶん軽率だ。"ダンヘイト"の動きを、本当に把握しきれていなかったと思うか?」
「ルーイ様。それではまるで。」
顔をしかめたロベルトに、ルーイは冷笑で応える。
「オレは、あの王は馬鹿じゃないと思ってる。」
「けれど。」
「仮面を剥いでみたくはないか?」
ルーイは机を指先で弾く。
「平和を愛するフィルゼノン? けれど、今の状態で争乱がダラダラと続くのを良しとしてもないだろう? "先王の件"では禍根も残っているはず。先に剣を抜きたくはないから、見栄えのいい理由を手に入れたいだけだ。」
「こちらが先に弓引くように誘導して、アジャートを悪者に? このままにして、相手の思うつぼになるのならば、王に進言すべきでは?」
「止める必要はない。我が王とてこの長き戦いに決着をつけたがっているし、それは不可避だ。」
ルーイの台詞に、ロベルトは口を閉ざす。
「そろそろ、王にも目を覚ましてもらわないと。」
剣呑な光を浮かべたルーイは、窓から東の夜空を眺めた。
「フィルゼノンの思い通りに動かされるつもりなどないさ。」
言って、あぁ、とルーイは閃く。
思い通りにはならない、と強がりめいて言い放ったセリナ。
虚勢だろうとも、それを悪くないと感じたのは、自分も同じような思いを持っているからかと思い至る。
「ルーイ様?」
怪訝そうな副長に、なんでもないと言い置いて、持っていたままの手紙を渡す。
「次の任務に移る。マルクスでまた不穏な動きあり。北部警邏隊の応援に向かう。」
「はい。」
「王都に帰るのは、まだ先だな。もうしばらく今の顔ぶれで行軍だ。」
「……。」
後半の台詞に含まれた意味に気づいて、ロベルトは顔をしかめた。
暗に告げられたのは、クラウス=ディケンズのことだ。
ただし、彼との折り合いが悪いのは以前からで、衝突したのも昼間の件が初めてというわけではない。
寄りかかっていた体を起こしたルーイに、それ以上何かを言うつもりはないようだった。
ロベルト自身もそれには触れず、話題を変える。
「もう1つ、よろしいでしょうか。」
「なんだ?」
「都から、ルーイ様の耳に入れておきたい話が届いています。」
視線だけ寄越したルーイに、ロベルトは先を続けた。
「王都ヴァルエンで、一部の者の間に広まっている噂についてなのですが……。」








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