3.








泣き叫んでいる『自分』がいた。
赤と黒の間(ハザマ)で。
心が痛い。
いったい何をそんなに悲しんでいるのだろう。


足下が崩れバランスを崩す。
落ちる、と思った瞬間世界は反転した。
逆さを向いて立つ。
赤と黒の位置が変わっていた。
ふと気づく。
反転したのではなく、元々こうだったのかもしれないと。
頭上に見えた空に思い出す。
「空から落ちてこの世界に来た。」
どん、と背中に衝撃を受ける。
押される力に一歩踏み出せば、そこは階段。
支える物はなく視界は回る。
闇、そして光り輝く豪華なシャンデリア。
知っている、クライスフィル城内の景色。
その合間の一瞬に見えた残像。
無意識下に刻まれた記憶の断片。
階段上にいる少女の姿。


少しだけ目を伏せる。
不意に浮かんだサファイアの映像に息をのむ。
そして唐突に閃いた。


「あぁ、どこまでも真実だ」と。




















アジャート王国・南東部。
未だ戦の傷跡が残るノーラの地。
半壊したその建物は、既に砦としての機能を失っている。
馬車を止めたそこからでも、壁と天井の半分を欠いた部分から中の様子を見ることができるほどだ。
「まさにほったらかしだな。」
ぽりぽりと頭をかいてロベルトは馬から降りた。
「もっともここを補修しているような余裕はないか。」
馬車から黒い鞄を抱えて下りて来た白衣の女が窘めるように口を開く。
「問題発言だよ、ウォルシュ君。事実とはいえ、それじゃ国に余力がないって言っているみたい。」
僅か返事に窮して、ロベルトは頭を押さえた。
「どちらかといえば、今の発言のほうが問題だろ。ジーナ=ノーファー。」
「そう? 細かいことを気にしないの。」
あっけらかんと応じてジーナは背後を振り返る。
「ハイデン隊長。」
「あぁ、案内する。こちらだ、ドクトル。」
出迎えに来た少年のような茶髪の男に、馬の手綱を渡してからギゼルは先導する。
廃墟を残して放置された地でも草木は育つ。
足元に揺れる草を踏み分け、砦へ進む。
案内されたのは壁の一部を欠いた部屋。
「対象者は?」
そう聞いた直後、何人かの人影を認めてジーナは口を閉ざした。
腕組みをしたまま壁に背を預けた白髪の男。
両腕を後ろに縛られ、むっつりとした顔で床に座り込んでいる男。
部屋の奥に座り込んだ女性と、その前に横たわる1人の少女。
「彼女ね。」
医者の到着に、それまで側にいた女が立ち上がり場所をあける。
(あら。)
ジーナは少女の容貌に少しだけ首を傾げるが、すぐに真剣な顔付きに変わる。
「ウォルシュ君、ここに幕を張って。」
「あぁ。」
答えて、ロベルトは目隠し用の間仕切りに白い布を広げる。
朽ちた壁に布を鋲で留めただけだが簡易な処置室である。
(ひどい高熱。それに、裂傷。)
ジーナは、苦しそうに息をする少女の頬に手を当てた。
「大丈夫。君を助けるから、もう少しだけ頑張ってね。」
小さく呟いて、手早く血に染まった布を取る。
症状はルーイから聞いていたので、必要な物は一通り揃えてある。
(肩の傷は、そう深くない。ナラティアで応急手当をしたのか。)
塗られている薬に頷いてから、処置を開始する。
患部を消毒して薬を塗り直し、清潔な布を当て、固定する。
解熱剤を服用させて、水分を摂らせると息をついた。
「……。」
よくもまぁこんな少女に剣を向けたものだ、と皮肉な思いが浮かぶ。
潮の匂いがする相手を着替えさせたいところだが、ここでは無理だ。
応急処置だけ行い、一刻も早く連れ帰った方がいいと判断する。動かすのも酷なのだが。
白布幕の端を捲り、顔を外に出す。
「聞いてる話では、全員リシュバインの砦に移動することになっているし、それで間違いないよね?」
ジーナはそう疑問形で問うが、周囲の答えははなから求めていない。
さっさと立ち上がると、同行して来たロベルトに視線を向けた。
「悪いけど、この子を馬車に乗せて。いつまでもこんな場所に置いていたら悪化するだけだから。」
隙間風どころか、直接外気に晒されている部屋では看病も何もない。
「了解した。」
幕を引っ張り壁から剥がすと、それで少女を包むようにして抱え上げる。
ロベルトの背中を見送ってから、ジーナは腕組みをしている男に向き直った。
「で?」
首を僅かに傾げて、にっこりとわざとらしい笑みを浮かべる。
深緑色の前髪が額にかかった。
「なぜだか、そこに拘束されている君たちの仲間の手当ては、私の受けた命令の中に含まれるのかな?」
そのままの体勢で渋面を作った男の代わりに、隊長のギゼルが答える。
「簡易で構わないからお願いする。」
「了解。」
「出発を急ぐ、全員準備を。」
隊長の指示に無言でそれぞれが頷く。
次いで、ギゼルは拘束されている男の前に立つ。
「イヴァン、馬には乗れるな? 処置が終われば準備しろ。」
「イエッサー。」
むっとした表情のままだが、男はおとなしく了承の意を示した。
それを見てジーナは内心でため息をつく。
(いったい何をやらかしたんだか。)
左腕に走る太刀傷に、殴られたのか頬が腫れている。
さらに腹にも打撃痕。
「骨は折れてないと思うけど、向こうに着いたら一応ちゃんと診せて。」
日頃から鍛えている戦士であれば、それほど重症というわけでもない。
気休めの固定として包帯を巻きつけておく。
それらの怪我より目についた無数の細かい切り傷に、改めてダンヘイトの隊員たちに視線を向ける。
気になったのは、みな同じような傷を受けているからだ。
ただし、先程の少女以外。
国王直下の暗躍部隊。
実際にその姿を目にするはこれが初めてだ。
(選りすぐりの戦士だと聞いていたけど。)
「みな、随分酷い格好をしているのね。ボロボロだ。」
隊長自らリシュバインへ出向いている間に、彼らに回復の余地はあったはずだ。
ならば、ここへ着いた当初は今よりさらに気力も体力も消耗していたのだろう。
「まるで嵐にでも遭ったみたい。」
なんの気なく告げた言葉に、近くにいた女の兵士が鋭い視線を返した。
敏感にそれを察して、ジーナはあぁと口の中で呟いた。
「『みたい』じゃなくて遭ったのね、嵐に。」
「無駄口叩いてないでさっさと手当てしなよ。急ぐんでしょう。」
皮肉のこもった言葉を投げられ、ジーナは冷笑を浮かべた。
「言われなくとも。もう終わったよ。」
女は忌々しげに顔を歪めて身を翻した。
「ジーナ=ノーファー。準備が整った、発つ。」
ロベルトに呼ばれ、ゆるりとした動作で鞄を手にし、ジーナは歩き出す。
隣に並んだところで、ロベルトが声をひそめて口を開いた。
「あの少女は……。」
「おそらくね。それが彼らの任務だったんでしょ。」
眉を寄せた後で、ロベルトは嘆息した。
「これ以上はルーイ様に報告してからの話だな。」
「さすが副官殿。」
そう応じてから、それにしても、と口の中で呟いてジーナは含み笑いを浮かべる。


「さすがのダンヘイトも、自然には勝てないと見える。」




















アジャート王国・東部。
国境の要所、リシュバイン。
「失礼します。」
開いたままの扉を叩いて、ジーナは来訪を知らせた。
部屋の奥にいたルーイが顔を上げ、ロベルトが振り向く。
「治療は終わったのか?」
書類を机に戻しながらロベルトが問う。
「えぇ、楽観はできないけど状態は持ち直したわ。」
私、優秀だからー。と続けた言葉は相手に軽く無視された。
「ご苦労だったな。」
ルーイからの言葉にふっと笑って、部屋の中央に進む。
「おかげで珍しいものが見れたので役得かな。」
ジーナは、白衣の裾を払いソファへと腰掛けた。
「珍しい……彼女のことか。」
呟いたロベルトに、ジーナは嬉しそうに口元を上げる。
「違う違う。"ダンヘイト"の仲間割れ。」
「仲間割れ?」
予想外の言葉に思わず聞き返す。
ルーイがジーナの前のソファに座るのを待って、ロベルトも横の椅子に腰を下ろす。
「イヴァン=ナリッツ負傷の理由。同じ"ダンヘイト"のラルフ=シュヴァイザーにやられたってことなんでね。」
「……なぜ、そんなことになる。」
眉間にしわを寄せたロベルトに、口元に笑みを刻んだままジーナはあっさり言い放った。
「そりゃあ、"お姫様"を切りつけたのがイヴァンだからでしょ。」
さらに眉を寄せたロベルトから視線を外して、ジーナは言葉を続ける。
「彼、狂戦士って言われてるくらいだから。」
ルーイは息を吐く。
「仲間割れというか、制裁だろう。」
「同じ隊の仲間のくせに、なんか殺伐としてるのね、彼ら。あの年若い…マルス=ヘンダーリンって子も、なんだか我関せずって態度だし。あの面々でどう付き合ってるんだか。安静にって言った私の言葉も、従ったりしないだろーな、あれじゃ。」
女医は肩を落として見せるが、すぐに姿勢を正した。
「彼女の方……高熱の原因は、長時間雨に打たれたせい。嵐の海を渡って来たんだって。後、精神的なものもあるのかな。傷は掠った程度……だけど、耐性なさそうなお姫様だし。」
「海って、昨日の大雨と風じゃ相当波が高かったはずだ。陸路のリスクと秤にかけても。」
フィルゼノンの魔法壁は周知の事実だ。
追撃をかわすには海路を使った方が有利だが、嵐の海を進むのは賢くない。
だが、言いかけてロベルトは途中で言葉を切った。
「いや、嵐から抜けるのは追手よりも先か。この時期、潮の流れも味方するはず。」
逆に嵐が追手への目くらましにすらなる。
「"ダンヘイト"もそう思って海路を選んだ。」
揶揄するようなルーイの口ぶりに、ロベルトは隣にいる相手を窺う。
「ところが、あの状況から察するに、深海の魔女の機嫌を損ねたらしい。」
「イズリアの?」
深き海の底を司る女神の名を、ロベルトが口にする。
ジーナは、口元を手で隠して少し笑んだ。
「本人たちも、そう感じてるのかな。女神に手をかけたからだと。」
彼らの細かい傷と疲弊ぶり、そして睨んできた女兵士・ビアンカ=ハウゼンの態度を思い出す。
嵐を越えた後だということを差し引いても、戦士たちの疲れは明らかに大きい。
もちろん彼らはそんな素振りを見せないが、医者の目から見て鍛え抜かれた軍人の姿に違和感を覚えるほどには疲労していた。
「"ダンヘイト"に精神的ダメージを与えるなんて、なかなかやるわね。」
「女神、ねぇ。」
無感動に呟いたロベルトに、ルーイは苦笑を向ける。
それに気づいて、取り繕うようにロベルトは背筋を伸ばした。
「まぁ、事実がどうあれフィルゼノンから女神を連れ出したとなれば、あちらは大騒ぎでしょうね。」
「それは小気味いい失態だな。」
楽しげに言葉を紡いで、ルーイはソファに背を預けた。
「これで、少しはあの仮面がはずれるか?」
ルーイの言葉に、ロベルトとジーナは目を見合わせる。
「ルーイ様。」
ロベルトの声に含まれた懸念を感じ取って、ルーイはふっとあしらうように笑った。
「心配するな。いくらなんでも、今すぐ仕掛けたりはしない。」
ならいいですと、ロベルトはため息をつく。
「あぁ、そうだ。ルーイ様。」
会話が緩んだのを契機に、ジーナは何気なく呼びかけた。
「あの魔法使い殿は、治療の役に立つ力をお持ちで?」
ぎょっとしたようにロベルトが顔を上げ、眼を細めた。
「クラウス=ディケンズのことか?」
「えぇ、確かそんな名前の。」
「あれは治癒魔法は専門外だそうだ。自分の怪我すら治せないらしい。」
なんだ、とジーナは残念そうな声を出す。
「彼女の治療を手伝ってもらおうかと思ったのに。ついでに間近で魔法を見られるかと。」
ルーイは楽しげに口元を上げた。
「それは残念だったな。実戦向きの能力だから、まぁ、そのうち見る機会もあるだろ。なかなかのものだぞ。」
「あるかなぁ。私、現場要員じゃないつもりなんだけど。」
控え目な台詞に、ルーイは眉を寄せた。
「ここまで付いてきている軍医が、今更何を言う。」
「あはは。医者を前線に引っ張り出すような無茶しないでよね、ルーイ様。」
渇いた笑いで交わしながら、釘を刺すことも忘れない。
黙り込んだロベルトに、ジーナは気づかれないように心の中で苦笑いした。
クラウス=ディケンズは魔法が使える騎士で、アジャートでは貴重な存在だ。
ただし、ロベルトはクラウスのことを良く思っていない。
それは彼の『能力』を認めた上でも変わらないし、信用する気もないのだろう。
その態度を隠そうともしないが、クラウス本人もそれを気にしている様子はない。
(まぁ、ルーイ様がクラウスを気に入ってるのも、腹が立つんだろうけどね。)
傍観者を決め込んでいるジーナは、冷静にそう推考して見せる。
「さて、そろそろ戻るよ。」
ジーナがソファから立ち上がるとルーイは視線を向けた。
「足りない物があれば言ってくれ。」
その申し出に女医は、真剣な眼差しを向けて答えた。
「念のため。しばらく"ダンヘイト"を彼女に近づけないようにしてもらえるかな。」
ふっと部屋に一瞬の静寂が生まれる。
「配慮する。」
医者としての意見に、ロベルトが同じ真剣さで応じた。
ジーナはにっと笑みを浮かべる。
「よろしく、ウォルシュ君。」








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