85.








ラグルゼの南。
馬車を降りて、再度出発した一行はオリーブの群生した林の中を進む。
未だ雲に覆われた空は明るさを欠いたままだ。
時々切れた雲の間から光が差すが、それもすぐに消えてしまう。
1度、休憩のために馬を下りたものの、慣れない体に長時間の乗馬は厳しいものがある。
(文句なんて言えないけど。)
その慣れない人間を乗せて走るラヴァリエの騎士と馬の方が、大変なのだろうと素人ながらに申し訳なく思う。
「ポセイライナはこの先です。」
先頭のレイクがそう告げた後、視界が開けるとそこに建物が見えた。
「ここが……。」
『ポセイライナの碑』。
オリーブの木に守られるようにその碑はあり、そのすぐ脇に小さな神殿が建っている。
パトリックの手を借りて、同乗させてもらっていた彼の馬から下りる。
騎士たちは乗ってきた馬を近くの木に繋いだ。
視線をオリーブの木に移して手を伸ばす。弧を描くような細長い葉っぱだ。
「あれ?」
その内の一枚に目を止めてセリナは声を上げた。
「ハートの形だ……これだけ?」
それ気づいて、サイモンがセリナの側に立った。
「時折、葉先が2つに分かれてそういう形になるようです。運が良いですね、その葉を見つけた者には幸せが訪れると、そういう言い伝えがあるんですよ。」
へぇ、と呟いたセリナの横で、アエラが目を輝かせ木々を仰ぐ。
パトリックが手を伸ばし、葉を引っ張ると、プチンと音がしてハート形の葉っぱは枝から切り離される。
そのままパトリックは、その葉を恭しくセリナの前に差し出した。
「え?」
「幸運のお守りに。」
僅かに微笑んで告げられ、セリナはその葉っぱを受け取る。
「ありがとう。」
少し照れながらも、セリナは嬉しさで顔を綻ばせた。
大事に服にしまうともう一度オリーブを見上げる。
「周囲にオリーブの木が生えているのは、何か理由があったりするの?」
セリナの問いかけに、レイクは辺りを見回した。
「特に、意味はないと思います。昔から群生しているようですが、気候に合ってオリーブが育ったのでしょう。」
「じゃあ、わざわざ植えたわけではなく、自然な光景なのね。」
(恣意的なモノではない。やっぱりただの偶然で関係なんてない。)
セリナは建てられた石碑とその横にある神殿を見る。
(アザリーを象った紋章。教会と同じ。)
「海の守護を司るシーリナは水の属性だというのに、その周りに"油"とはなかなか皮肉なものですね。」
パトリックが揶揄するように呟いた。
セリナは海を背にして建つ石碑の字を目で追う。
(読めないけど……。)
「これは慰霊碑だと。」
セリナの声にレイクが頷いた。
「はい。アリッタ海の向こう、この国からなら南西の方角に。」
言いながらレイクは指先を地平線に向けた。
「エルドラという島があるのだと言われています。黄金郷、宝島または最果ての島とも呼ばれる島ですが、未だ辿り着いた者はいない伝説じみた話です。」
「最果て。」
呟いてセリナは次の言葉を待つ。
「その伝説の島を求めて、遥か昔から冒険者や開拓者……先駆者、航海者、海賊など様々な称号を掲げた者たちが海に消えていきました。ポセイライナはそんな航海者たちの守り神を祀る場所であり、海に散った者をその懐に抱える慰霊地でもあるのです。」
「シーリナを祀るのは、船乗りたちくらいなのだと聞きました。ここポセイライナはその中でも一般的ではないと。そういう背景があったのね。」
「シーリナは……そうですね。リジャルなどの港町、島の者や大陸間を行き来する旅人への航海の加護を司る神です。南部では珍しくもないでしょうが、ここの碑石はあまり知られていませんね。」
一度言葉を句切って、さらに続ける。
「面白いものもないですし、地元の人間ですら来ることは滅多にありません。」
レイクの顔に浮かんだ怪訝さを敏感に察して、セリナは小さく笑った。
「なのになぜ、"黒の女神"がここに興味を示したのか。という顔ね。」
「そのようなことは……。」
視線をはずしたレイクとは反対に、パトリックはセリナに視線を向けた。
案内者たちから少し距離をとって、セリナは静かに空を仰いだ。
「私がここにいることに理由があるなら、それを見つけたいと。そう思ったからよ。」
はっとしたようにアエラが顔を上げた。
「この場所で、見つかるかどうかはわからないけれど。」
自嘲気味に呟いて、セリナは目を碑石に向ける。
「港町の教会には、こんなふうにオリーブが生えていたりするの?」
「は?」
唐突な質問にレイクは呆気に取られ、言葉を失う。
「い、いえ。詳しいことは存じませんが、先述のとおりシーリナとオリーブとの群生は無関係で。特にどうという因果があるわけではないと考えますが……。」
「そう、無関係であればいいの。」
(神父様が言っていたとおり、やはり無関係。ただの偶然、方舟とは関係ない。)
言い聞かせるようにセリナは心の中で唱える。
ゆっくりと神殿に足を進め、その紋章を睨むように直視する。
「"アザリー"の紋章。精霊の船。」
「セリナ様。」
心配そうなアエラの声に、セリナは安心させるように微笑んで見せた。
「この中には何が?」
入り口の扉に手を置き、セリナは振り向かないまま問いかける。
「入ったことはありませんが、一般的には中に女神像が安置されているはずです。」
レイクの声が聞こえ、セリナはふぅんと呟き手に力を込めた。
(あ、開く。)
そのまま足を踏み入れ、扉を押さえたまま顔だけ振り返った。
「鍵とかかかってないのね、誰でも自由に入れるように?」
そう尋ねて、向けられる周囲の視線に動きを止めた。
「……な、に?」
(私、なんかやばいことした?)
アエラやラスティなどその場にいる全員が、言葉を失い呆然とした表情でセリナを見ていた。
「あ、ここ入っちゃダメなの?」
「駄目……というか、入れないようになっているはずなのですが。」
何事もないかのように中に入ったセリナを見ながら、レイクが告げる。
「え?」
慌てて出ようとしたセリナに向かって、サイモンが胸に手を置き深々と頭を下げた。
「そこは神の社。扉に通常の鍵は付いておりません。その代わり、神殿の扉には結界が張られています。」
「結界?」
「侵入者を阻むためのもので、事実上それで鍵がかかっている状態になります。」
きょろきょろと扉を眺めるが、何も見えないし何も感じない。
「軽く押したら開いたけど。」
ラスティが近づき、セリナの代わりに扉を押した。
ぐっと力を入れるのがわかるが、扉はピクリともしない。
「……冗談じゃ、なさそうね。」
「セリナ様はシーリナに拒まれていない、ということなのでしょう。」
「ディア様は魔力をお持ちですか?」
サイモンが驚きを隠さないまま口を開いた。
「魔力の強い方や魔法属性の相性によっては、軽微な術を無効化できると聞いたことがあります。今のも、術を破ったわけではないようですから、あるいは。」
「魔力……私が?」
セリナは首を横に振る。
こちらに来たばかりの時に、ティリアの提案で初級魔法を教えてもらったことがあるが、まったく何も起こらなかった。
その後、研究所の職員によって魔力測定がされたが、能力は皆無との結果だ。
そもそも魔法の存在しない世界で生まれ育ったわけだから、不思議な術が使えるとはセリナ自身も思ってはいない。
人は誰でも多かれ少なかれ潜在的にその能力を持っていると言われたが、セリナに関してはそれもないのではないかと考えているくらいだ。
「あり得ないわ。専門家?にも測定してもらったけれど、魔力はゼロだと。」
「転移魔法で来られたくらいですから、魔法を受け付けない体質というわけでもないでしょうし、不思議としか言いようがありませんね。」
動揺を抑えながら、レイクが感心したように呟く。
セリナは神殿を振り返った。
「この中には女神像だけ?」
「確かではありませんが。小さな神殿です、せいぜい像と祭壇があるくらいでしょう。」
レイクの答えに頷いて扉に手を伸ばす。
「セリナ様。」
狼狽の色を浮かべたパトリックがその横に立つ。
「入れるのなら、少しだけ中を見たいわ。小さいところだからまさか迷うこともないでしょう?」
「しかし。」
逆説の言葉を口にしたパトリックを制して、ラスティが口を開いた。
「セリナ様、1つお願いが。」
「?」
「試したいことがあります。手を。」
ラスティが左手を差出したので、言われた通り、セリナはその手を取った。
「このまま扉を押して、中に進んでみてください。」
「やってみる。」
言って、セリナは扉を開き、中に足を踏み入れる。
「……。」
難しい顔をしたままそれに続いたラスティは、扉をくぐってさらに表情を険しくさせた。
「あわわ、すごいですね! 本当に、ナクシリア様も入れちゃいました。」
アエラが手を伸ばすが、建物の境界辺りで広げた手の平はまるで壁に触れるかのようにそこで止まった。
(何もないのに……。)
セリナの目にはパントマイムでもしているかのようにしか見えない。
「不思議ですー。」
神殿の中から外へと手を伸ばせば、難なくアエラに触れることができる。
「どうして……。」
「念のため、奥を見てきます。安全が確認できるまで、セリナ様はここでお待ちください。」
ラスティの言葉に頷いて、セリナは騎士の背中を見送る。
待つ、というほどの時間も経たないうちに、ラスティが戻って来る。
「この短い廊下のすぐ先に女神像が。特に、変わったところはありませんでした。本来、ここへ入れるのはセリナ様だけですので、私は外でお待ちしております。」
「ありがとう、ラスティ。」
「セリナ様。」
呟きのような声を聞きとめて、声の主を振り返る。
「平気よ、パトリック。せっかくここまで来たのだから、できることはしておきたいじゃない?」
笑顔でそう言えば、反論の言葉に詰まったようだった。
「はい。」
「ありがとう。」
セリナは同行者を外に残し、神殿の奥へと足を踏み入れた。












ラスティが外に出ると、扉はすぐに閉じた。
パトリックはゆっくりと手を伸ばす。
セリナがいとも簡単に開けたその扉は、どんなに力を込めて押しても動く気配はない。
「パトリック。」
ラスティに呼ばれて、肩を揺らし振り向いた。
探るような目とぶつかり、パトリックは気まずげに笑みを浮かべた。
「特別……なんだと改めて思い知らされた気分だ。」
城の庭で初めて目にした時こそ驚いたが、言葉を交わしたセリナは他の人と変わりない"少女"だった。
初めの警戒したような戸惑ったような表情は、会う回数を重ねる内に明るいものに変わったし、軽い物言いに不快な表情を見せることもない。
話せば話すほど、災いをもたらすという"黒の女神"に対する偏見は薄れていった。
もちろん、セリナが『特別』な存在であることは変わらないのだが、それは貴人に対する特別さと同じだ。
(異世界から来たということを忘れていたわけじゃないが、ああいうのを目の当たりにすると……。)
知らずパトリックは握る手に力を込めた。
「結界を破るわけではなく……ただ通り抜けただけ、だったな。」
ラスティの言葉に、レイクが顔を上げた。
「中を見るのならば、と鍵を預かっていたのですが、必要ありませんでしたね。」
一時的に術を解くための『鍵』を懐に閉まったまま、彼は複雑そうな顔を見せた。
「ディア様が王都に現れた時、防壁を通り抜けたと聞いています。それと同じことが起こったと解釈してよろしいか。」
ラスティとパトリックは顔を見合わせる。
あの時、セリナ自身は大怪我を負ったわけだが、現象としては確かに同質のものだ。
(結界を無効化する。)
考えてパトリックはぞっとした。
魔法による防壁に護られた国で、その存在は脅威となるのではないかと思ったのだ。
それが彼女だけでなく、他人にも影響を及ぼすことができるのならなおのこと。
ややあってからラスティは苦い顔で答えた。
「この件についての判断は、我々が下せるべきものではありません。」
レイクとサイモンは目配せを交わす。
「……。」
肯定の意味で頷いて、そのやり取りを最後に4人は、それぞれ視線を外した。
「セリナ様は、お1人で大丈夫でしょうか。」
何とも言えない沈黙を打ち破ったのは侍女の声。
両手の指を胸の前で組んで心配そうな顔のアエラは、周囲の視線を集めたことが不思議で小首を傾げた。
「神殿の中の安全は確認済みですから、心配はいりませんよ。」
優しく答えたサイモンに、控え目に目礼してアエラは視線を上に向けた。


朝から薄曇りだった空は、さらに暗雲の量を増し重く立ち込めていた。








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