59.








緊急事態だと、ラシャクに報告され階段下で見た光景。
不覚にも一瞬目の前の現実を理解できなかった。
背中を押された、と聞かされた瞬間。
沸き上がった怒りの感情に、戸惑ったのは自身だった。
(どうかしている。)




「そうか。」
執務室に揃って現れたクルスとラシャクの報告を聞いたジオの反応はその一言だった。
人払いをして、さらにクルスが結界を張った部屋の中。
ジオはソファの背に体重を預けた。
「不確定な証言ばかりで困るな。」
おどけたような発言は、しかし限りなく本心だった。
「考えられる可能性は3つ。」
ラシャクが3本の指を立てる。
「まず1つ目は、2人とも勘違いだった場合。」
ぴっと人差し指だけを残し、はっきりとした口調で話し出す。
「これが一番平和的ですね。セリナ嬢は不注意で足を踏み外しただけであり、侍女が見た影は見間違いか、無関係の第三者に過ぎなかった。不幸な事故であり、まぁ『次回から気をつけましょう』で終わる話です。そして2つ目は、両者の証言が事実だった場合。」
ラシャクが2本の指を立て、ジオは足を組み直した。
「これはずいぶんと不穏な展開だ。短絡的に結論づけるのは危険だが、侍女が見た"誰か"がセリナ嬢を突き落としたと……自然に考えればそういうことになるでしょう。」
クルスが僅かに眉根を寄せた。
「彼女を狙う者、これが存在することは否定できないが特定することは難しい。中央棟に出入りできる人物など数えればキリがないし、今更"誰か"を追うなど不可能。再びの被害を防ぐため、護衛を強化するのが一番の策だと考えます。」
ラシャクの提案にクルスが言葉を続ける。
「無駄な追跡調査に時間と人を割くよりは、有効ですね。」
「そうだな。その点、エリティス隊長が心得ているだろうから心配はいらない。しかし、犯人がいるとしても……どうだろうな。過激派ならいつ強攻策に出てもおかしくないが、今回は彼らの仕業と断定もできまい。」
ジオの言葉に、ラシャクが小さく頷く。
「仰せのとおり。中央棟の階段、もちろんあれだけの段数がある階段ですから、落ちれば危険です。けれど、過激派が絡んでいると考えるには、少し足りないように思います。」
「確かに。命を狙って、というわけではなさそうですね。警告……脅しが目的というところでしょうか。」
クルスの呟くような推論に、ラシャクが目を伏せた。
「脅し、か。しかし、なんのために。」
呟いてから、ジオは不機嫌そうに顔を歪めた。
「いや、思い当たることが多すぎて、例示は無意味だな。で、最後の可能性とは?」
勿体ぶるように間を空けてからラシャクはアメジストの瞳を細めた。
「はい、3つ目の可能性。"どちらかの"証言が嘘である場合です。」
はっとしたようにクルスが顔を上げた。
「ラシャク、それは……。」
「セリナ嬢の言う、突き落とされたような気がする、ですが『背中を押された』のが嘘なら、侍女が見かけた人影はなんの意味も持たない。誰か、犯人に仕立て上げたいなら別ですが、現状でこの芝居に利点はあまりありませんね。」
「侍女の話が嘘なら、一気に話が変わるぞ。」
表情を変えないまま、ジオはソファから背を離した。
「えぇ、あの証言は咄嗟に出た揺動かもしれない。怪しい第三者がいなかったとしたら?あの場にいたのは誰か? そして例えば、抱いていたのが殺意ではなく別の感情だとすれば、この話は完全に否定できるものではない。」
「待て、ラシャク。その推論は些か乱暴すぎるだろう。」
クルスの意見に頷くが、ラシャクは先を続けた。
「あくまで可能性の話です。事実はセリナ嬢が階段を落ちたという、それだけ。事情を聞く限り、あの状況は"偶然"作り出されたものです。」
忘れ物をしたのも、それを侍女が取りに戻ることで、セリナが1人になったのも。
セリナが自ら階段を引き返したことも、廊下を背にして階段際で侍女を待っていたことも。
すべて偶然だ。
「偶々その状況になったからあの転落が起こった。今回のことは計画的なものではなく突発的なものだと思えてなりません。」
「そうだな。」
ジオの発言に、2人の視線が向いた。
「事故ならそれまでの話だが、犯人がいるのならあまりに衝動的だ。賢いやり方とも思えない。」
「そして、その偶然の、一番近くにいた者。」
「その偶然に、通りかかった者がいる可能性も残っている。」
「……もちろん。」
クルスの言葉に、ラシャクはわざとらしく笑顔を見せた。
「"女神"を良く思わない者も少なくない。侍女を特別疑う理由にはならない。」
ラシャクの意見に反発したいわけでも、アエラを庇いたいわけでもない。
ただ、それが中立の意見であるので、クルスは論を唱えるに過ぎない。
「"女神"を恐れる者が、危害を加えるとは思えません。通りがかりの者なら、よっぽどの予言の信者か、己の正義に自信を持っている人物でしょうね。」
どうしてもエンヴァーリアンの影がちらつく。
城にいる彼らの仲間が、カイル1人だったとは限らない。
「今回の件がどうあれ、女神の敵が城内にもいることは否定できません。警戒するに越したことはないでしょう。」


「3つ目の可能性を押す理由はなんだ、ロンハール卿。」


ジオが静かに問えば、ラシャクが息をのんだ。
「グラトラでの動きに不審はなかったのだろう。」
カトレアの間での会議でラシャクの報告にあった言葉を口にのせる。
「はい。」
答えたラシャクにジオは鋭い視線を向けた。
「では、何を気にしている。」
クルスもラシャクに視線を向ける。
気まずげに視線を彷徨わせてから、ラシャクは頭を下げた。
「気がかりな点があるのです。まだ確証を得ていないので、個人的な見解に過ぎないのですが……。」
ジオは表情を崩さない。
「グラトラのマリン家当主は、商人から力を持った新興貴族です。中央に食い込むには、名門のどこかにツテを持つ必要があります。」
「どこにでもある話ですね。」
言って、クルスが眼鏡を押し上げる。
「マリン家も例にもれず、最近、頻繁に貴族との接触を持っており、とある家とは既になんらかのやり取りが成されている様子もあります。こういう話自体はなんら不思議なことではありませんが、ただ今回の場合問題なのはその相手。」
ラシャクは一度言葉を切ってから、続きを口にした。
「その貴族が、あのカッタート伯爵らしいのです。」
その名にクルスは目を見開き、ジオは眉根を寄せた。
「……よりにもよって、あの。」




セリナの扱いを決めるために開かれた臨時議会。
あの段階では既に、黒い髪・黒い瞳がまがい物ではないと証明されていたため、軽々しく排斥を叫ぶ者は少なかったが、出席者たちは、保護に反対する者と立場を決めかねる者が大半だった。
賛否を巡って議場がざわめく中、1人の伯爵が声を上げた。
「"女神"とは天からの賜り物。この時期に現れたことに意味があるとしたら。切り札に変わる、ということもあるのでは?」
国への"災厄"がなんの役に立つのか、災いの芽は早めに刈っておくにこしたことはない、と巻き起こる論議に、「なんの"災厄"を運ぶのか、によるのではありませんか?」と返し、災厄が起こってからでは遅いと言われれば、「だからこそ、この国で保護するべきです。」と言い切った男がいた。




(カッタート伯。)
彼が女神を擁護する利点が見つからないのだが、保護に率先して賛成した人物。
保護に難色を示し、反対意見を述べていた大貴族である侯爵の意見を封じてまで意見を貫いた。
結局、場を収めたのは宰相だが、伯爵の主張はジオにとっても予想外の出来事だった。
(考えの読めない、食えぬ男だな。アレは。)
王家に心底の忠誠を示しているわけでもなく、わかりやすく金や権力に執着しているわけでもない。
領地に引きこもって、中央に出て来ることも稀。掴みどころのない存在である。
(だが、あの議会には出席していた。)
「あの方が出てくるくらいなら……露骨に反対派と繋がりを持っていると聞いた方がすっきりするのですけどね。」
ため息をつきながらクルスは眼鏡を押さえた。
「同感です。これが何かに関係するのかどうか、裏があるのかないのかも不明。侍女が関わっているのかどうかも、わかりません。クルセイトの言うように、疑う理由になるものではないのでしょうが。ただ、状況としてどうにも出来すぎています。」
視線を外してジオは目を伏せる。
「警戒を怠るよりはマシか。その件、気をつけて取り扱うように。」
「御意。」
それから、とジオはラシャクに鋭い視線を向けた。


「どちらの証言も。気のせいかもしれないと本人たちが言っていることを忘れるな。」


ラシャクは立ち上がると、深々と臣下の礼を取った。
犯人がいないのなら、それはそれで構わない。
















捻った足を擦りながら、セリナはしばし反省する。
(なんだか、迷惑ばかりかけてるなぁ。)
ちらりと視線を向ければ、リュートがラスティと話している。
話の内容は聞こえないが、雰囲気からして連絡事項の申し送りというところだ。
今日の護衛担当はラスティ=ナクシリアだった。
護衛といっても、1日中付き添っているわけではないので、今日のように勉強に出向く時も、侍女がいれば護衛が付いて来ないことも度々ある。
それは、セリナ自身があまり人を引き連れて歩くのを好まないからという理由もある。
「セリナ様。」
「はい。」
リュートがセリナの前に膝をつく。
「大事ないとはいえ、無理して出歩かないようにしてくださいね。」
まっすぐに瞳を覗きこまれての台詞に、セリナは無言で頷いた。
顔が熱くなるのは、先程の密着状態の経験が尾を引いているせいだ。
「また、後で様子を窺いに参ります。」
立ち上がったリュートはラスティに向かい合うと、声をかけた。
「では、後は頼む。」
「はい。」
(忙しいのに……迎えに来てくれたんだ、リュート。)
嬉しいやら申し訳ないやらでセリナは複雑な心境に陥る。
(それに、せっかく陛下にも会えたのに結局話はできなかったし。)
と、そこまで考えてセリナは固まった。
(せっかく会えたのに……偶然ばったり、な展開だったのに。例の話のことをすっかり忘れてた!)
後悔に眉を寄せ、セリナはがっくりと項垂れた。
「セリナ様、傷が痛むのですか!?」
慌てたようなアエラの声に、セリナは急いで否定の言葉を返した。
「違うの、大丈夫よ。」
ほっとしたような顔をしたアエラに笑ってから、セリナはソファに沈んだ。


ふと、カトレアの間でジオと交差した視線を思い出す。
あの時思わず顔を見たのだが、なんとも気まずい思いをしてしまった。


(なんか変な気持ち。)








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