<Z.扉の鍵>





55.








「わぁ、気持ちいいー。」
「ま、冷たい。」
明るい声に交じって、ぱしゃんと水音が響く。
セリナとティリアはお互いの顔を見合わせて、同時に吹き出した。
フィルゼノン城、北の庭園。
いくつかある離宮のうちの1つに造られた水場で、2人は水浴びをしていた。
水浴びといっても、足首まで浸す程度のものだ。
夏の暑さをしのぐには気休め程度だが、それでも澄んだ冷たい水は気持ちよく、周囲の温度もいくらか下がって感じる。
具合良く配置された木々によって作られる影に隠れるように腰を下ろして、セリナは足をぶらぶらさせた。
(日本の夏より過ごしやすかったなぁ。)
舞踏会の頃が暑さのピークだと聞いていた。
確かに、日差しはきついし、長時間外に出ていることなどできないが、それでも過ごしやすいと言わざるを得ないフィルゼノンの夏。
(少し北だからかな?)
湿度の違いか場所の違いかはわからないが、これではもしかすると冬の方が厳しいのかもしれない、とセリナはそんなことを思う。
「まだまだ暑い日が続くわねぇ。」
セリナの隣に座ったティリアが、涼やかな様子で告げた。
(うーん、バテてるティリアは想像できないな。)
今だって、優雅な令嬢の振る舞いに乱れはなくて、セリナは感心していたところだ。
「?」
ふふ、と笑ったセリナにティリアは不思議そうに小首を傾げた。
はちみつ色の長い髪を緩やかにまとめ上げたティリアのその仕草に、思わずセリナも見惚れてしまう。
(うん、やっぱり暑さでうだーっとなっちゃう姿は想像できないわ。)
「そちらにお飲み物をお持ちしますね。」
カナンがそう告げ、アエラがグラスを用意する。
さわり、と風が吹くと本当にしばらく暑さを忘れることができた。
何かと世話を焼く侍女たちは動き回っているが、部屋にいるよりは過ごしやすいはずだ。
訪ねて来たティリアたちを迎え、せっかくなら離宮で涼まれては?と提案したのはイサラだった。


ぱしゃん、と足で水を蹴って、セリナはティリアの顔を覗き込んだ。
「通ってくるのは、時間がかかるんじゃないの?」
その問いに、ティリアは首を振る。
「タウンハウスは、さほど城から離れてないから。」
セリナの教師役を降りたティリアは、城内に用意されていた部屋を辞去した。
舞踏会の招待客として部屋を使用したのを最後に、城から家へ戻り、今はその家からセリナの元に訪ねて来ているのだ。
とはいえ、泊まろうと思えばいつでも泊まれるし、ティリアのための客室もある。
それでも『自室』を返したのは、けじめというものらしい。
「タウンハウス?」
聞きなれない言葉に、セリナは首を傾げた。
「領地にある屋敷ではなくて、城下に構える邸宅のことをタウンハウスと言うのよ。いつかセリナも遊びに来てくれると嬉しいわ。」
「行きたい、ティリアのお家!」
舞踏会の2日後、家に帰ったティリアだったが、こうして1週間と経たず顔を見せに来た。
外出が自由にならないセリナだが、たまにはこちらから遊びに行きたいのが本音だ。
「セリナったら。」
頬を紅潮させたセリナに、ティリアは笑みをこぼす。
運ばれて来たグラスをお互いにとって、小さく掲げた。


揺らした足元から広がる波紋のせいで、木陰の向こうの水面がきらきらと光っていた。












ひとしきり話に花を咲かせた後、離宮でティリアを見送る。
グラスを片付けに下がったアエラと入れ替わるように、パトリックの姿が現れる。
どの騎士にも言えることだが、気を利かして席を外していても、いつもタイミング良く戻って来る。
セリナには不思議なのだが、護衛騎士であれば注意深く控えているということは当然なのだろう。
部屋に戻ろうと小道へ出ると、西の空からぱんっと破裂音が響いた。
驚いて顔を上げたセリナの目に、きらきらとした光が飛び込んできた。
「訓練終了の合図ですね。」
同じように顔を上げたパトリックがセリナの隣に立つ。
「あぁ、朝言っていた合同訓練?」
「はい。」
ラヴァリエの騎士が朗らかに頷く。
リュートはその訓練のため、今日はセリナのところへ顔を出せないと、聞いていた。
「月に1度くらいのペースでやってるような気がするけど。」
「仰るとおりです。」
消えてしまった光から視線を戻し、歩き出したセリナの後ろで、パトリックがふと呟いた。
「それにしても、今回は予定より1時間も延びたようです。」
「そうなの?」
小首を傾げたセリナに、はいと応じてパトリックが先を続ける。
「きっと来月の視察に向けて力が入っているからですね。」
「視察?」
「陛下が"緋の塔"へ視察に行くことになっているんですよ。」
セリナは、頭の中で地図を組み立てる。
城と西の国境との中間あたり。ルディアスの地にそれはある。
("緋の塔"。確か、そこまで行けばラグルゼは目と鼻の先。)
つまり、ポセイライナも近くということだ。
「セリナ様?」
不穏な空気を感じたのかパトリックの声が若干低くなる。
「あ、うん。国王陛下もそういうことしてるんだなと思って!」
「今回は塔だけではなく、道中も視察対象ですから、割と大掛かりなものになっています。」
「それ私に言ってもかまわないの?」
「公式に発表されているので、今更隠す必要もないことです。」
人好きのする笑みを浮かべて答えたパトリックに、セリナもつられるように笑う。
以前からちらちらと話題には出ていた話だが、意識したことはなかった。
(これは。いいことを聞いてしまった、のかもしれない。)
と考えた後で、あれ?とセリナはパトリックへ振り向いた。
「そんな大事な訓練、パトリックは参加しなくて良かったの?」
前回までの訓練時はラヴァリエの騎士が来られないので、と兵士が護衛に付いていた。
「セリナ様の警護も重要ですから。」
きっぱりと言い切った後で、冗談めかして付け足した。
「その代わりに、明日は直接隊長から指導を受けられることになっています。役得ですっ。」
うきうきとした様子のパトリックに、セリナは思わず笑みをこぼした。
忙しそうなリュートには悪いが、こうして楽しみにしている様子は好ましいものがある。
(隊長だし、やっぱりリュートって強いんだろうな。)
セリナは1人うんうんと頷いた。








部屋に戻ったセリナは、イサラに頼んで部屋に残して置いた地図を広げた。
「ポセイライナ。」
("ノアの方舟"はただの思い込み。そこへ行ったところで何も変わらない、けれど。)
気になるのが、素直なところ。手放したくないのは、セリナ自身が掴んだ次への手掛かりだからだ。
(シーリナに関係する、オリーブに囲まれた場所。これも偶然の一致にすぎないのかもしれない。)
外出もままならない今の状況では、遠出など望むべくもない。


―――1度許可を取れたのです。2度目からはもっと容易くなりますわ。


不意にティリアの言葉を思い出して、セリナは地図を見つめた。
「視察か。」
(ただ行きたいってだけじゃ、説得はできない。なら……。)


どうするべきなのか、セリナは頭を働かせる。
手段は、まだわからない。


けれど、今回も巻き込むべき相手の顔は浮かんでいた。








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