53.








翌日。
例年に劣らず、大盛況のうちに幕を閉じた舞踏会が終わり、前日の慌ただしさが嘘のように城内は日常の静けさを取り戻していた。


定刻の朝議に出席し、城の滞在客との会談を終えた後で、宰相・ジェイクとの協議を済ます。
さらに昼を過ぎて賓客を見送り、急ぎの書類をいくつか片付けると、ジオは時計を見上げた。
「では。こちらは大臣に回しておきますぞ。」
再度訪れていた宰相が、書類の何枚かを持ち上げた。
領地を持つ有力貴族との会談。お互いに駆け引きをしつつも、いくつか合意に至った取り決めがある。書類の中身はそれだ。
時計から宰相に視線を戻して、ジオは椅子に背を預けた。
「あぁ。」
書類を白い封筒に入れながら、ジェイクが肩をすくめた。
「夜の会食までごゆっくり、と言いたいところじゃが、これから面会の予定が入っているのでしたな。」
敢えての台詞を口に出すジェイクから視線を逸らす。
直後、ジオの耳に扉をノックする音が聞こえた。




イサラがジオの執務室を訪ねて来たのは昼前だ。
取り次ぎの兵士が驚いていたようだが、それも仕方ないと思うほどには珍しいことだった。
話したいことがあるので、面会を希望している、と。
近いうちに時間を取っていただくことはできるでしょうか、との申し入れに、ならば。と時間を指定して返した。
ノックの音がしたのは、告げた時間きっかりである。




「入れ。」
「失礼します。」
執務室に入って来た相手が恭しく腰を折る。
「お忙しいところ、時間を取っていただきましてありがとうございます。」
「かた苦しい挨拶はかまわない。」
そう告げると、戸惑ったような表情を浮かべた。
「そんな戸口に居られないで、どうぞこちらへ。セリナ様。」
ジェイクが手でソファを示し、困惑顔のセリナを誘導する。
封筒を持ち直すと、宰相はジオに頭を下げた。
「では、私はこれで。」
「あぁ。」
出て行く宰相に慌てて扉の前から退いたセリナは、さらに礼をして見送った。
座ったままだったジオは執務椅子から腰を上げる。
「もしかして…邪魔をしてしまいましたか?」
「いや、問題ない。」
部屋に他人がいたことにわかりやすく動揺を見せたセリナに、内心でジオは苦笑した。
ここまでイサラに案内してもらったのだろうが、雰囲気に呑まれているのか緊張しているらしく表情が硬い。
こうして彼女が出向いてくるのは初めてのことだ。
「話があるのだろう?」
そう問いかけてやれば、相手は真剣な面持ちで頷いた。
「はい。」












今朝、自分の部屋で目覚めたセリナは、昨夜の出来事を振り返ってみた。
号泣したせいか、どこかすっきりした気分で、落ち着いて思い返すことができた記憶。
自分の言動が引き起こした、様々なこと。
それを辿るうちに、セリナは気づいた。
ずっと先延ばしにして、ごまかしてきたが、それではいけないとようやく思えたのだ。


セリナを心配して朝から部屋に控えていたイサラ。彼女に頼んで、ジオと会えるよう取り計らってもらったのは、彼に話したいことがあったから。
そして、実現したこの状況。
ではあるのだが、(なんか、どうしよう)とセリナは頭の中をぐるぐるさせていた。
言いたいこと聞きたいことがあって、どれから口に出せばいいのか迷う。
「あ、あの。」
せっかく話を向けてくれたのだから、とセリナは顔を上げる。
と、ジオもセリナを見ていて、前触れもなく曖昧だった部分の記憶が戻って来た。
(!! 私、よりによってこの人にしがみついて泣き喚いた。)
さーっと血の気が引く。
以前にもやらかしたことだが、今回は相手がはっきりしている。
(あの場には他にもいたのに、なんでこの人に…!)


―――君は生きている、それですべてだ。


今度は一気に顔が熱くなる。
取り乱した自分を宥めてくれたのは、紛れもなくジオだ。
そして、それで救われたのもまた事実。
「き、昨日は、大変ご迷惑をおかけしまして。」
「かた苦しいことはかまわない、と先程も言ったはずだ。」
さも鬱陶しいという感じであしらわれてセリナは身をすくめる。
(これは、もしかして、気にするなって言っている…のかな。)
ふとそう思ったのは、昨日までのセリナなら考えられないことだ。
(全面的に優しい人かはわからない。けれど、優しいところもあるのだと知ったから。)
ファファやダンから話を聞いたことも大きいが、最後は自分が理解したことだ。
「でも。」
と、セリナは儀礼ではなく頭を下げた。
「どうもありがとう。」
表情を変えることもなくセリナを眺めてから、ジオは視線を外した。
「そんなことを言いに来たのか?」
「はい。でも、これだけじゃなくて。」
セリナは自然と背筋を伸ばす。
「私、ずっと黙っていたことがあって。」
「……。」
「ちゃんと話さないといけないって思ったの。」
自分を励ましながら、セリナはまっすぐ視線を上げた。


「城を抜け出した理由……を。」


ジオが眉を寄せたのは、機嫌が悪くなったわけではなく話が唐突だったからだろう。
「なぜ今になって。」
「それは。」
昨夜の出来事に絡むから、というのはきっかけだ。
事情を知りたいと言ったセリナを同席させ、取り乱した後も付き合ってくれた相手。
(彼なら打ち明けても、笑い飛ばしたり突き放したりはしないと思えたから。)
だから決心できた。
ただの思いつきだと蓋をした考え。けれど、記憶を辿っているうちに、話すべきだと思ったのだ。
(あの日、私が自分で蒔いた種だもの。)
そして、彼なら大丈夫だと思えたから。
(話すなら、きっと初めはこの人。)
「え、と。何から話せば。」
言いながら視線を彷徨わせる。
「話したいと言ったのはそっちだろう、要点をまとめてもないのか。」
「はぃ、まぁ。」
頭を悩ませるセリナの様子を見て、ジオが天井を仰ぎ見た。
「ったく。」
小さな呟きをこぼしてから、ジオはセリナに視線を戻す。
「とりあえず、座れ。こちらが落ち着かない。」
「ぅあ。すみません、失礼します。」
さっさとソファに座ったジオに続いて、セリナもおずおずと向かいに腰を下ろす。
「昨日の庭でのこともジ…こ、国王陛下には言っておかなければ、と思って。」
呼び方に迷ってもたついたが、なんとか主旨を伝える。
切り出された内容に、ジオはすっと表情を消した。
「補足事項か? それとも、今言った理由とやらが、昨夜のことと関係あると?」
「抜け出した理由が直接関係あるわけじゃないんです。ただ、抜け出したことで昨日の事態を招いたのだと、思っています。」
無言で先を促され、セリナは身じろぎした。
「今までその理由を黙っていたのは、根拠のない思いつきだからで、言葉にしてしまうのが怖かったから。だから、アエラにも言ってなくて。けれど、あんなことが起こってしまったし、国王陛下、には伝えておくべきだと。」
「聞こう。整理ができないなら、思いつくまま話せばいい。」
何気なく言われた言葉に、気遣いを感じてセリナは息をのんだ。
それから、少しだけ肩の力を抜いて口を開いた。
「あの日、抜け出したのは行きたいところがあったからなの。」
意外だったのか、ジオは怪訝そうな顔をする。
「王都の南にあるシスリゼ教会へ。確かめたいことがあったので。」
そうして、セリナは"方舟伝説"や研究所で見つけた紋章の話、教会で聞いた話をつらつらと話した。
教会から戻って来てアエラとはぐれ、ジオに助けられるまでのことも含めて。




話し終えた後、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
静寂を破ったのは、ジオの声だった。
「地上を洗い流すほどの大洪水。それが、そちらの世界での"ノア"にまつわる話なのだな。」
確認するような言葉にセリナは頷く。
「賢者でも予言者でもない。ノアとかアークとか、ただ名前が同じだけで他に一致するものは少ない。調べた紋章"アザリー"もなんら手掛かりにはならなかった。」
「神の言葉を受けた者なら、"預言者"であったと言えなくはないか。立場上、国史や神話というものは一通り聞きかじっているが、そんな話は聞いたことがないな。」
「こちらのことに当てはめようとするのは、こじつけなのかもしれない。ただ思い出しただけ、そもそも熱心な信者ってわけでもないし。物語として知っている程度の私が、ここへ来て旧約聖書の伝説をどうこうするなんて道理がない。」
一般的な日本人がそうであったように。
クリスマスも正月もそれなりに過ごすし、盆には墓参りもする。
結婚式では教会か神社かで誓いを立て、死後はおそらく仏になり葬式を上げるのだ。
寛容に受け入れ、結局どれにも属さず曖昧なもの。
「けれど、その伝説が気にかかるのだろう?」
「う。」
彼に向けて出るのは、想像を否定する言葉ばかり。
その裏にある気持ちをあからさまに言い当てられてセリナは言葉に詰まった。
「こちらでも少し調べてみよう。」
そう言ってジオはソファの肘掛を指で叩いた。
「しばらくこの話は他言無用にしておけ。下手に話が広がると厄介だ。」
やはり、という思いが広がりセリナは神妙に頷いた。
(きっと、まずこの人に話した判断は間違っていない。)
このことがどういう進展を生むのかは未知数だ。
けれど、悪いようにはしないだろうという期待がどこかであった。


セリナは一呼吸置いてから、話の先を続ける。


「そしてあの日、"ローグ"に会ったのはシスリゼ教会の前。」
考え込んでいたジオが視線だけをセリナに動かした。
「ぶつかっただけだと……。」
「はい、そこでぶつかっただけ。だけど、彼の方は私が"黒の女神"と呼ばれている相手だと気づいた。」
「昨日も、そう言っていたな。」
「庭で会った時、南部の風習を知っているかと。」
「南部……の。」
「あの時、ローグは『死者の魂は舟が運ぶ』という風習に倣ってシスリゼへ祈りに来ていたのだと。」
そこまで言うと、敏い相手は事情を把握したようだった。
「そうか、それで。確かめに来た、と思ったんだな。」
「はい。」
ようやく昨夜のセリナの心情に追いついたらしいジオ。情報を整理しながら、口元に手を当てた。


「あの日。」


「?」
セリナの呟きに、ジオの視線が再び向く。
「神殿の祭礼の日、剣を抜いた彼の名前を教えてもらえませんか。」
真剣な表情のセリナに、ジオは逡巡してから口を開いた。
「本名はわからない。"ローグ"や"コナー"と同じで通り名だろうが、それで構わないか。」
頷くセリナ。
それを確認してからジオは答えた。
「"クジャ"と呼ばれていたそうだ。」
「クジャ……。」
繰り返して口にのせたセリナを、ジオはじっと見つめる。
「背負う必要はない。」
静かな言葉に顔を上げたセリナは、小さく笑って見せた。
「ん。」








―――また、私のせいで。どうして私が。いっそ代わりに。


(あれが本心。気づいてたけど、ずっと見ないフリしてた。)
現実を受け止め顔を上げることで、自分を責める自分の声を奥底に沈めた。
前を向くことは、精一杯のできることだったから。
(あんな形で向き合うなんて、想像もしなかった。)
あの日から時間を経て、自分なりに消化したつもりだった。
(父との約束を果たすために生きるんだって、乗り越えたつもりだったんだけどな。)
けれど、それは「つもり」でしかなく、今になってようやくということなのだろう。
泣くことで流れる闇もあるのかもしれない。
(人前で……声を上げて泣いたのは、いつ以来?)
自分を責める己に向き合えるのは、自分しかいないけれど、それでも。
(1人じゃきっと受け止めきれなかった。)
目の前に座る相手を、セリナは不思議な気持ちで見つめた。
容赦しないと言った彼が、どうしてセリナに気遣いを与えるのか。
今だってセリナの過去を掘り返すようなことは何一つ言わない。
(何があったのか、聞かずにいてくれる。)
それが有難くて、表情が緩みそうになる。
けれど、それより先に何かが脳裏に引っかかってセリナは眉を寄せた。
(……何?)
「どうした?」
「あ、いいえ。なんでも。」
慌てて首を振る。浮かんだ何かはすぐに消えてしまった。
視線を戻すと、思いのほか心配そうな顔のジオと目が合い、セリナは目を瞬いた。
「食事は摂っているか。」
「……。」
予想だにしない質問を受けて、セリナは激しく瞬いた。
(え? 何? これ、どういう流れ?)
「………………はい、おいしく。」
(え、ってか何? 私の答えも何、ちょっと!?)
「そうか。」
それだけ!?と突っ込みそうになるのを、セリナはぐっとこらえた。
セリナの動揺などお構いなしに、相変わらず考えの読めない顔のジオは落ち着き払っている。
今朝、目覚めたセリナのお腹は空いていて、答えたとおり美味しく朝食を食べたし、昼食もしっかり食べている。
(そういえば。)
昨夜、せっかくアエラが運んで来てくれたごちそうに、ほとんど手をつけられなかったことを思い出す。それゆえの今朝の空腹感である。
(そんな気分じゃなかったとはいえ、もったいないことしたな。)
と考えたところで、セリナは「あ。」と口の中で呟いた。
(そっか。)
昨夜、セリナの部屋を訪れたジオは見たはずだ。
手のつけられていない夕食を。
「……。」
気づいて、今度こそセリナは頬が緩んだ。
(わかりにくい人。)


水差しの横に置かれた氷が、ガランと音をたてる。
それは凍てついていた心の一角が氷解してゆく音に似ていた。








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