52.








震えながら自分を抱え込んで小さくなっている少女に向けて持ち上げた手を、ジオは一度下ろした。
ジオの目配せに気づいたクルスが、小さく頷く。
「我々は外へ出ていましょう。」
リュートはセリナへと気遣わしげな視線を向けるが、留まる理由も見つからず結局その言葉に従い部屋を出た。




「おい。」
「ご、め…なさい。」
静かな声に、セリナはもう一度謝る。
「また、私のせいで。」
「シノミヤ・セリナ。」
壊れ物にでも触れるようにそっと伸ばされた手が、セリナの顔を上げさせた。
「…っ私がいるだけで、悲しむ人がいるの、怒られたり、嫌な気持ちになったりする人がいて。」
伏せた目から、また一筋涙が流れる。
「境遇を同情されたり、憐れまれたり、そんなのいらない…っけど、迷惑かけてるのはわかってるから。」
「こちらを見ろ。」
「なのに、厄介者で……いなければいいはずなのに、みんな優しくて。」
ぼやぼやとした視界の向こうに、サファイアの青色が見えていた。
「セリナ。」
大きな両手が頬を包んだ。
急にはっきり見えた真摯な瞳にセリナは目を大きく見開いた。
「泣き声を失くしたのか?」
「!!」
包まれた頬、伝う涙を親指が拭った。
「声を殺して泣くな。」
「だ…だって、泣いたら心配かける……っ迷惑に、なる……。」
言い訳を口にするセリナの台詞が終わる前に、ジオは口を開いた。
「泣きたければ泣け、笑いたければ笑え。怒りたい時には怒鳴ればいいし、言いたいことがあれば口にしろ。言いたくなければ、口を閉ざすことも自由だ。」
「……。」
「感情を殺すな、言葉を殺すな。心は生きている、無理矢理自分の気持ちを押しつぶさなくていい。」
「そ…んな。」
「自分の中に抱え込んで、我慢しすぎだ。」
その言葉にセリナは顔を歪めて下を向いた。
そろりと、伸ばされたジオの腕にセリナは自分の手を乗せる。
不思議そうにした気配は感じるが、拒絶する意志はないらしい。
それを認識すると、セリナは耐えきれず嗚咽を漏らした。
「…っふ……ぅあ。」
力が入らず崩れ落ちそうな体を支えてくれたのは、目の前の男だった。
縋るようにジオの服を掴む。


明りのない部屋で1人、笑顔の写真に向き合う孤独は、どこまでも寒い。


「お願い、1人に……しな…いで。」


嗚咽に混じって切れ切れに呟いた言葉。
返事の代わりにジオはセリナの肩を抱いた。












叔母は、父を亡くしたばかりで泣いていたセリナを抱きしめてくれた。
彼女も兄を亡くした立場で。
親戚間でセリナを引き取る話が出た時、入学したばかりの高校を転校するのは可哀想だと親身になってくれたのは彼女だ。
父との約束だった、高校卒業を果たせるようにと後押しして、セリナの意思を尊重してくれた。彼女の夫も娘も、どこまでもセリナに優しかった。
迷惑だと思うこともあったはずなのに、そんな態度は一度も見せなかった。


それでも。
―――芹ちゃんを見てると、時々兄さんを思い出すわ。


そう言って微笑んだ叔母の顔は、どこか悲しげだった。




「……ぅう。」
目を強く閉じて、セリナはジオにしがみついた。
何も言わずただ胸を貸してくれる暖かい存在に、セリナは泣きながらポツリと心情を吐き出す。
「ど、うして。」
呟いてセリナは、これはきっと答えなのだと考えた。
ずっと心の深いところで渦巻いていた思い。何度も問いかけてきたこと。
その問いの先にある答えは、長い間無意識下でセリナを縛りつけていた妄執。
「どうして、私じゃ……。」
「セリナ?」
呼ばれた名前に胸を突かれた。
振り仰いで目があった相手の名を呼ぼうとして、セリナの口は空回る。
「……っ。」
わなないた唇を噛みしめて、セリナはジオの胸に顔をうずめた。




あの時、死ぬのは自分だったかもしれない。
その日、セリナは買い物を終えて帰る途中で、仕事帰りの父とばったり会ったのだ。
久しぶりに父娘2人で家路についたが、買い忘れた材料に気づいた。
―――よし、じゃぁ父さんが買いに戻るから、芹奈は先に戻って夕飯の準備をしてなさい。
―――えぇ? 私行くよ。任せるの、ちょっと不安だし。
―――む、父さんだって買い物くらい1人でできるぞ。
―――はいはい。うっかりしてたよ、…じゃあ、お願いしまーす。ムダ買いも寄り道もダメだよ。早く帰ってきてね!
―――まったく、芹奈の方が保護者みたいだなぁ。
呆れたような内容とはうらはらに嬉しそうな顔ではにかんで、セリナの頭を撫でた。
じゃぁね、後でね。とそれが最後の会話になった。


スーツの裾を翻して引き返した道の、その途中で、父は事故に遭う。


信号を無視して横断歩道に突っ込んできたトラックに轢かれて、帰らぬ人となった。
頼まなければ良かった。
あの日、同じ帰り道にならなければ良かったのに。
「私が、行けば良かっ……のに!」
瞼を伏せればぽろぽろと涙がこぼれた。
「ど、ぅして私じゃなかっ、たんだろう。」
(なぜ私が、ここに。)
「ご、めんなさい。」
再び顔を上げて、いないはずの人物を探す。


「ごめんなさい、私が生きてて……ごめんな…ぃ!」


息をのむ声が聞こえた。
「生きてても、周りに迷惑しかかけないのに。私が、どうして……!」
ぎゅぅっと痛いほどに手を握りしめる。
「どうして、どうして! どうして!! 私が生きてるの!! どうしてっ!




「あの時いっそ代わりに私が………!!」




「セリナ。」
冷たい指がセリナの唇を押さえた。
「自分を責めるな。」
セリナの手を大きな手が上から包んだ。
「…っ。」
「もう責めなくていい。」
事情など知らないはずなのに、何もかもわかったような顔で見下ろしてくる。
「セリナのせいじゃない。」
(知らないくせに。)
再び込み上げてきた涙に、セリナは顔を歪めた。
なぜ目の前の男はそんなことを言うのだろう、と訝しむ。
(その手で首を絞めたくせに。)
サファイアの瞳と金色の髪を、歪む視界の中でもしっかりと捉えてセリナは握る手に力を込めた。
それを諫めるように、包むジオの手にも力が込められる。
「君は生きている、それですべてだ。」
「……ふ。」
息がもれて、下を向くと涙が止めどなく流れる。
ゆっくりと引き寄せられて、セリナはその身を預けた。








「セリナが身代わりになることなど望んでいない。」








ッ!
届いた言葉にセリナは体を揺らした。
心臓が跳ねた。
(どうして。)
不思議な気分だった。
何も知らないはずの彼の言葉。








けれど、それで少し赦されたような気がした。








「う…ああああああぁあぁぁぁぁ……!」
悲鳴のような声だった。
すべてを吐き出すかのような。
涸れることなく涙はあふれる。
金色の月の下、誰かの胸に縋りついた。
あの時は、こんなふうに声を上げては泣かなかった。
まだ、泣けなかった。


思いを吐き出して、受け止めてくれたから。


縋りつく手を振り払われなかったから。


凍えそうな寒さを消してしまうほど、与えられる温もりが心地よかったから。






無言で付き合ってくれる存在に、セリナは安堵の念すら覚えて泣き疲れてしまうまでその手を離そうとはしなかった。








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