47.








「失礼。」
俯いていた視界に靴が見えて、セリナはハッと顔を上げた。
「考え事でもしていたのですか?」
訝しげなジルドがそこに立っていた。
何事もなかったような顔で。
「卿も戻られましたし、早く部屋に帰りましょう。」
「あ……。」
呆然とするセリナにジルドは眉をひそめる。
「何か、ありましたか?」
(何か……って。)
「あなた、無事だったの?」
「無事、とは?」
「だって……さっき。」
「……。」
訝しげな様子のジルドに、セリナは不安が沸き起こるのを感じた。
(てっきり襲われたのかと思っていたけれど、違ったの?)
もう1人の騎士に目を向ければ、その視線に気づいた彼も不思議そうな顔をしている。
「見ていなかったの? 一瞬で消えたけれど……。」
「消えた? 卿なら、辞去の礼を取って会場へ戻りましたが。」
(え?)
セリナは騎士の言葉に目を丸くした。
「私は。」
ぼぅっとなったように頭がうまく働かず、セリナは口元に手を当てた。
「彼が去る姿を見てない。」
何を……と呟いて、ジルドは口を閉じた。
微妙な沈黙が流れる。
「それは。」
と、何かを言いかけたジルドだったが、回廊から人の話し声が近づいてくるのに気づいてはっと視線を巡らせた。
「いえ、とにかく部屋へお戻りを。」
カイルも無言で頷き、手振りでセリナを促す。
今度は素直に従い、セリナは足元の一葉を拾い上げてから噴水の前から離れた。
「カイル、伝令を頼む。」
ジルドの言葉に小さく頭を下げてから、踵を返したカイルは、舞踏会の会場がある中央棟へと足を向けた。
















舞踏会に参加していたリュートの元に、部下の1人が近づいて来た。
「失礼します、隊長。」
そっと彼が告げたのは、ラヴァリエで規定されているコードだった。
「わかった。」
場所が場所だけに、表情は和らげたままで応じて部下を下がらせる。
有事は想定の範囲内だが、実際に起こるとやはり苦い思いが浮かぶ。
リュートは近くにいたダミアン=ソルトに声をかけた。
「少し抜ける。それと、今夜の護衛の交代はしなくていい。」
「え? しかし……。」
「夜会を楽しめ、奥方によろしく。」
「わかりました。」
釈然としないながらも、言い合う場ではないため素直に隊長の命に従う。
次の算段を付けながらリュートは足早に会場の出口へ向かう。
その途中でクルスと顔を合わせて、リュートは足を止めた。
「おや、さすがに情報が早い。こちらが伝えるまでもないようだ。」
その口ぶりからクルスがリュートを探していたらしいと知る。
先程受けた伝令の内容を、彼も彼のルートで把握したのだろう。
「念のため、確認しておきます。」
一礼したリュートの言葉に、ふとクルスの表情が曇った。
「確認……?」
「えぇ。」
答えて、リュートはクルスの反応に首を傾げた。
「クルセイト様?」
「エリティス隊長…―――。」
ひそめられたクルスの声で紡がれた言葉に、リュートは今いる場所を忘れて顔色を変えた。
















部屋に戻った時、アエラはまだ帰ってきていなかった。
セリナはテーブルの前に立ち、手にしていた葉を置く。ウィッグを外すと、黒い髪が肩に流れた。
「……。」
その場に立ったまま動かないセリナの様子に、ジルドは出て行こうとしていた部屋の入り口で足を止める。
「先程言っていた……。」
セリナが顔を上げ、ジルドは逡巡するように視線を彷徨わせた。
「卿の、去る姿を見ていない、とはどういう意味ですか。」
質問を受けて、セリナは少し考え込んだ。まだ思考がうまく回転していないのだ。


「ほんの一瞬の間に、いなくなってしまったでしょう?」


困惑のにじむ声で答えたセリナの視線が不安げに揺れた。
「一瞬……。」
くせのようにジルドは眉をひそめる。
次の瞬間、息をのんでその表情を険しくした。
「―――まさかっ!」
驚くセリナに背を向けた騎士が部屋を飛び出すよりも早く、開いたままの扉の向こうから荒々しい声が響いた。


「ジルド!!」
























舞踏会のホールを抜け出すと、バルコニーから階段を使って庭へと降りる。
流れてくる音楽を聴きながら、青年はバルコニーを支える柱に背を預けると懐から取り出した物に視線を落とした。
(なぜ……。)
疑問を口にしたところで、何も解決はしない。
顔を上げて、青年―アシュレーは青い結晶石を握りしめた。
「動いたらしいね。」
図ったようなタイミングでバルコニーから声が降って来た。
「はい。」
驚くこともなく、青年は目を伏せ返答する。
「伝言を預かっています。」
言い置いて、アシュレーは気配を消した。直後に女性の声が響く。
「あらぁ、ロンハール様? こんな場所にお1人なんて珍しいこと。」
「これはこれは。伯爵夫人、ご機嫌麗しく。」
「ふふふ、久方ぶりね。探していたのよ? ほら、以前話していた観劇の件、覚えていて?」
「えぇ、もちろん。"心配いりません。それならば既に手配済み"です。」
「まぁ! さすがですのね。」
夫人とともに舞踏会へと戻って行くロンハール卿の声が遠ざかったところで、アシュレーは息をつき、バルコニーの下から身を翻した。
告げるまでもなく、預かった伝言は卿に届いたようだ。












ジルドの名前を呼びながら入室してきたのは、リュートだった。
そのすぐ後ろにクルスの姿もある。
「っ卿を捕えてください!」
「カイルはどこだ!!」
同時に声が上がるが、表情を変えたのはジルドの方だけだった。
「……カイル? カイルなら伝令で、…………ッ!!」
途中で今の事態に気づいてジルドは呻いた。
カイルは伝令に向かわせた。
『バルドール卿を見張るように』という伝言を託した騎士は、リュートのところへ辿り着いていないのだ。




「セリナ様、お待たせしました〜。」
緊迫した空気を割ってのんきな声が響いた。
夕食を載せたカートを押して来たアエラが、部屋の前の廊下で首を傾げる。
「何かありました?」
きょとんとした侍女の疑問に答える者はない。




「セリナ様は部屋にいてください。」
有無を言わせない口調で言い置いたリュートは、短く部下に指示を出す。
「ジルド、ともに来い。」
「はっ!」
「クルセイト様、申し訳ありませんがお願いします。」
頷いたクルスはリュートたちが部屋を出て行くのを見送り、アエラのために入り口から下がった。
「あ、りがとうございます。」
恐縮したように頭を下げてから、アエラはカートを押して部屋へと入る。
「あのぉ……?」
不思議そうにクルスを振り返ったアエラだったが、当の相手はセリナに視線を向けていた。
「お騒がせしてすみません。」
正装をしているクルスは、いつもと雰囲気が違っていたが、浮かべた笑みに変わりはなかった。
「クルセイトさん、リュートたちは……!」
「どうぞ、セリナ嬢はお食事を。失礼します。」
笑顔のままで言うだけ言い、クルスは一礼を残して扉を閉めた。
「……。」




無言で扉を見つめるセリナと扉の間で、アエラは前後を交互に眺めた。
「……えっと。」
(気のせいでなければ、すごいタイミングで邪魔をしたような気が……する。)
















「くそっ!」
廊下を駆け抜けながらジルドは悪態をついた。
卿と話しているセリナの護衛中、一時だけ彼女から目を離した。
バランスを崩したカイルにぶつかられて、背後に気を向けた。直後、翻る外套に視界を一瞬だけ奪われたのだ。
石畳の段差に躓いてしまったのだと告げたカイルは、彼自身もそのミスを不思議がっている様子だった。
注意するのは後回しにして再び振り向いた時には、既に2人は立ち上がっていて、卿が辞去を述べているところだった。
それはいたって普通の光景。
しかし、違和感がなかったわけではない。
思い出して、ジルドは眉根を寄せた。
直前の様子と今が繋がらなかったのだ。いつ立ったのか、それにも気づかなかった。
会場に戻ると言って会釈をした相手に無反応の女神の姿も奇異だった。
無事だったのかと問うた彼女の困惑と、去り際の卿を見ていないと告げた彼女の不安そうな表情。自分で感じた違和感の正体に思い当たって、ジルドは両の拳を握りしめた。
あの時は気配に気づけなかった。
けれど、どう考えても魔法が使われたのだ。あの場所で。
(謀られた……!)
バルドール卿との会話を許可すべきではなかった。けれど、悔いたところで今更だ。
















巡回している兵士たちが行き過ぎるのを待って、男は西門へと向かう。
足早に歩を進める彼の外套の裾が翻った。
さすがにここまでは中央棟からの音楽は届かないが、時間からしてそろそろ舞踏会も佳境といったところだろう。
のんきなものだと思う。
誰もがそれを知りながら、誰もそれを止められない。
無能で愚かだ。
(けれど、何よりも罪深いのは……。)
振り向いて城を見上げる。
目を細めて、再び男は西門へと歩き出した。












見つけた人影に青年は、顔を上げると指を鳴らした。


受けた波動に彼は眼鏡の奥の瞳を眇めた。


ぱちん、と耳元で音を聞いて、騎士は駆けていた足を止めた。
その後ろをついて来ていた部下も、慌てて立ち止まる。


伏せていたサファイアの瞳を開いて、男はその場に背を向けた。
それを横目で見ていた紳士は、視線を戻してことさらに笑顔を深くする。












「西門か。」
低い声で呟いたリュートに、ジルドも西へと顔を向けた。
行くぞ、と告げた隊長に頷いて、再び走り出す。
「ジルド。」
「はい。」
「先に言っておく。」
「え?」
「君の伝令は私に届いていない。」
「えぇ、わかっています。」
神妙な顔で答えたジルドに、リュートはチラリと視線を投げた。
「急ぐぞ。」
珍しく冷たい空気をまとう隊長の姿に加えて、ふと浮かんだ考えに背筋が冷える。
前を向いたままのリュートの横顔を窺いながら、ジルドは顔が引きつるのがわかった。
「……そういう、ことか。」
小さく口の中で呟いて、苦々しい思いを押し込んだ。
















走っていた男は、気配を感じて後ろへ飛んだ。
「っ!」
進もうとしていた先に、魔法陣が敷かれていたのだ。
踏み込んだ瞬間に発動する仕掛けのそれは、捕まれば逃れることはできない代物だ。
その向こうに姿を見せた青年に、口元を上げて見せた。
「城の敷地内に、ずいぶんと物騒なものを出したものだな。」
「どこへ行くつもりだ?」
「破光の陣か、さすが"ランスロット"のエリート魔法使い。けれど、君にこんなものを仕掛けられる覚えはないが?」
「どこへ行く気かと聞いている。」
つ、と指を動かした相手に、男は鋭い視線を向けた。
指の動きに反応して、魔法陣が光る。
「なんのつもりだ、アシュリオ=ベルウォール。こんな真似をしてただですむと……。」
「見え透いた嘘は不要だ。あなたのことは既に知っている、"コナー"。」
告げられた名に、男は不敵な笑みを見せた。
「……。」
「そして、彼らも。」
アシュレーの台詞に振り向けば、いつの間にか背後にラヴァリエの隊長と副隊長の姿があった。
騎士たちに包囲されたコナーは肩をすくめる。
「さすがに早い。この状況、誰かさんのせいで予定が狂ったせいだよ、まったく。」
嘆息して、男はちらりとアシュレーを見る。
「君もあちら側の味方ってわけだ。」
責める口調に、アシュレーは無言のまま青い瞳に剣呑な光を宿した。
詰られるいわれはない、とその表情が言っていた。
「きさま……ッ。」
唸るような低い声がジルドの口から漏れた。
「大人しく捕縛されろ。お前が何をしたかは『見ていた』。」
リュートの言葉に、コナーは浮かべていた笑みを引っ込めた。


「知っていたんですか。」


表情を変えずにコナーを見つめるリュートに代わって、アシュレーが口を開く。
「5月の終わり。その頃からあなたの行動は監視対象だった。」
「ほぼ初めから? 敵わないなぁ。」
隊長から視線を外して、コナーは俯き気味に笑った。












アキュリス暦1783年5月下旬。
ある雨上がりの朝。
その日"黒の女神"に新しく侍女が付いた。
降り注いだ雨の名残が、朝の光にきらきらする北の庭園で。
ロンハール卿は、そこを歩く"黒の女神"を見つけた。
窓から見えた姿に足を止めて、そして気づいた。
彼女のいる場所から少し離れた茂みのその向こう側に人影があることを。
「……。」
遠く離れた場所からでも、その気配は感じ取れた。
思わず窓に寄って、確かめずにはいれないほどの。


明らかな敵意。


目を凝らして卿が相手を把握した、あの日からその人物は『監視対象』だった。












「大人しく捕まれ。」
再びの言葉にコナーは困ったような顔を見せて、ラヴァリエの隊長を振り仰いだ。








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