46.








「こんなところで、また会うなんて思いませんでした。」
「それはこちらも同じだ。」
男は緋色の瞳を細めた。
その瞳は、セリナの記憶に新しい。
城下へ抜け出した日、シスリゼ教会の前でぶつかった相手だった。
夜の闇ではわかりにくいが、光灯の明るさがあればその緋色は十分に判別できた。
「まぁ、口を挟んだのは、貴女が見かけたことのある相手だったからなのだが。」
絡まれているように見えたので、つい。と独り言のようにこぼす。
(そっか、この格好だから……。)
あの日、ぶつかったセリナの姿は、彼の記憶にも残っていたらしい。
(さっき見かけた後姿もこの人だったのかな? それなら、知ってると思ったのも納得。)
目的の人物ではなかったことに、少し落胆する。
「知り合い、ですか?」
ジルドがセリナを窺いながら怪訝そうに問う。
「え、えぇ。」
城を抜け出したことを知らないジルドに素直に説明することもできず、セリナは曖昧に頷く。
ジルドが改めて男を眺めたので、セリナも男に目を向ける。
年齢は20代後半、飴色の髪に緋色の瞳。グレーの夜会服は、流行を知らないセリナが見ても外したものではないとわかるくらいには決まっていた。
複雑そうな表情を見せた副隊長の横に、追いついたカイルが足を止める。
「……っ!?」
驚いたような顔を見せた後、カイルは男に向かって頭を下げた。
増えた騎士を一瞥してから、男はセリナに視線を戻す。
「せっかくですので、少し話をしても?」
男の申し出にセリナは目を瞬かせた。








西の庭園。
噴水の前に腰を掛けて会話する男女を少し離れた場所から眺めながら、ジルドとカイルが小声で話をする。
「あれは誰だ。」
「……バルドール卿ですよ。」
「知らんな。」
「本当に副隊長は貴族に興味ないんですから。」
有事に備えて遅れを取るほどの距離は開けていないが、噴水のせいでセリナたちの会話は聞こえない。セリナに注意を払いながら、ジルドは注意深く周囲の様子に目を配る。
西側庭園は開放区域のため、人の出入りは自由だが庭の人影は先程よりも減って、特に異常もない。彼らの近くにも人はいなかった。
「覚えた方がいいですよ、いろいろ役に立ちますから。」
「主だった相手は頭に入っている。必要なら覚えるが、そんな名は聞いたことがない。」
「そんなこと言って。いざという時、困りますよ?」
「そのようだな……で。お前はいつから見ていた。」
「あ、やはり気づいてました? いや、声かけるタイミングを逃してしまって。」
ジロリと睨まれ、カイルは視線を逸らした。
「ジルドさんが、女神様の手を掴んだところから、です。」
ほぼ初めからである。
本来ならさっさと部屋へ連れ帰るべきだというのに、なぜこんなところで突っ立ってセリナを見守らなくてはいけないのか、ジルドは眉根を寄せて腕を組んだ。
こうなってしまった以上、セリナを追い立てるわけにも、貴族相手に不敬な振る舞いをするわけにもいかず、ジルドは会話が終わるのを待つ羽目に陥っている。
部屋を飛び出した理由が彼なのか、とも思ったが、お互いの台詞から会ったのは偶然だと知れた。
掴みどころのない男の方はどうあれ、セリナの態度が演技かどうかは見抜ける自信がある。
「なぜ知り合いなんだ。」
「僕に聞かれても……それは、僕も知りたいですよ。」
カイルは上官の言葉に困ったように応じる。
「あの格好も驚きですし、卿と会う機会なんてどこであったんでしょうねぇ。」








水の近くにいるせいか、夜風は少しだけひんやりしていた。
「誤解を招くようなことをしてすみませんでした。」
騎士を擁護するため、セリナは口を開いた。
このせいで彼らの評価が下がるようなことになるのは、さすがに困る。
「いや。」
隣に座る男は短く答えてから、セリナに視線を向けた。
「不思議なものだな、なぜ令嬢があのような街の外れに。」
「……ぅ、社会勉強です。」
ふ、と小さく笑ったところから察するに真に受けてはいないようだが、追及することもなかった。
(ま、まぁ、パーティー抜け出すような令嬢なら、町にお忍びでっていうのもおかしくはないわよね!)
「けれど、あなたこそどうして。外れの教会に。」
驚いてすぐに頭を下げたカイルの態度から相手が身分のある人物だと推測して、セリナは話題を振る。
神殿ではなく、あんな小さな教会にも出入りするらしい。
「あそこへは、友の船出を祈りに行った。」
「あぁ、船旅の無事を?」
海の女神シーリナを祀る教会に祈りに来るのは、航海者やその家族だと言っていた。
「旅か、そうだな。その友が南部の出身でな……信心深い者だったので、その風習に倣って。」
「南部の風習?」
「リジャルなどの港町で信じられている。南部の信仰のことだ。」
聞いたことのある地名に、セリナは目を瞬いた。
「海が近いという地理的な要因もそうだが、南部には独特の逸話も多くて、その信仰もその辺りの影響を受けているのだろうな。」
「?」
「王都に、海の女神の加護……そして"舟"を掲げる場所はシスリゼしかないので足を運んだ。」
"アザリー"の話が出るとは思っていなかったセリナは、思わず息をのんだ。
「それは、どういう……。」
「南部では、冥府に旅立つ者の魂は"舟"が運ぶと言われている。」
("旅立ち"ってまさか。)
目を大きくしたまま動きを止めたセリナに気づいて、男はふと息を吐いた。
「……余計な話を聞かせたな。会場に戻るなら送ろう。」
「え?」
「騎士に連れ戻されるより、戻りやすいだろう?」
覗き込むように問われて、慌ててセリナは視線を逸らした。
正面で向かい合っているわけではないが、あまり直視して"黒い瞳"に気づかれては困る。髪を押さえるフリで顔を隠して、ジルドたちに顔を向けた。
心遣いはありがたいが、舞踏会に行くわけにはいかない。
「い、いえ、大丈夫です。彼らと共に戻りますので……。」
「そう。」
ちらりと騎士を眺めてから視線をセリナに戻して、そして、笑った。








憮然とした表情でカイルと話していたが、すっとジルドは目を細めた。
「……様子がおかしい。」
「え?」
ジルドがこぼした呟きに反応して、カイルが振り仰ぐ気配があった。
けれど彼はセリナから目を逸らさず、話をしている2人に近づこうと足を踏み出す。
カイルに背を向けた直後。
「っ!」
詰まったような息遣いが聞こえた。
そして、背中にドンッと衝撃を受け、危うく体勢を崩しかける。踏みとどまったジルドは、反射的に剣に手をかけ後ろを振り返る。
「―――…!?」
けれど、振り返りきるよりも先に視界が遮られた。
(な、に……!?)
なんの気配もなかった。
近づく気配も、魔法の気配も、さらには敵意や殺気といった類のものも。何も。


視界の暗転は一瞬だった。








緋色の瞳の男が笑った。
「舞踏会……に、顔など出せるはずがないか。」
その笑顔に、セリナは背筋が粟立つ。


「"セリナ"様?」


「っ!」
セリナは思わず立ち上がると、本能的な反射で一歩距離を取った。
離れた少女との距離を詰めるように、相手も前へ出る。
「あの時、一緒にいた者に"セリナ"と呼ばれていただろう。」
(そうか、あの日……一度だけ。)
城の外でセリナは名前を呼ばれた。
この男とぶつかったセリナを心配するアエラに。一度だけ。
不意に、背後に人の気配を感じて、ぎくりと動きを止める。
「動かないで。」
従ったのは知らない声に命令されたことが原因ではない。ひやり、とした感覚が首元にあったからだ。
視線だけを下に向ければ、剣先が見えた。
「勝手な真似をするな、コナー。」
セリナの背後に向けて、男の低い声が告げる。
「先に、勝手な行動を始めたのはそっちだろう? おかげで予定が狂った。」
「庭に出向いてくるとは思わなかったが、好機を逃す手はない。」
「ローグが顔見知りだとは知らなかった。」
こんな状況だというのに、護衛の騎士たちが割り込んでくる気配がない。それどころか人の身じろぎする気配すらないのだ。
(うそ……でしょう?)
最悪の想像に冷や汗が伝う。
争うような声はしなかった。あの一瞬でラヴァリエの騎士がやられたというのなら、セリナの抵抗など考えるまでもなく無駄だ。
「あなたたち……何者?」
セリナの問えば、ローグと呼ばれた男の緋色が向けられた。
「"黒の女神"。」
「……。」
「と、称されているあなたに会うために来たが、少なくともここで会うはずではなかった。」
返されたのは問いへの答えではなかった。
「そして、そう……あの場所でも出会うはずではなかった。」
淡々と告げる男に、セリナはごくりと喉を鳴らす。
「不思議なものだな。」
それは2度目の台詞。けれど、諦め混じりの皮肉には、複雑な心情を吐露するような響きがあった。


「シノミヤ・セリナ……シスリゼ教会に何をしに行っていた。」


首元の短剣が僅かに揺れた。
問われて話せるわけもなく、セリナは硬直したまま目の前の相手を見据える。
「まさか本物だとは…すぐには気づかなかったが、そんな格好をしてまであの場所に出向いたのはなぜだ。」
「そんなこと、あなたには関係ない。」
「関係ないかどうかを決めるのは、君じゃない。」
静かな声は、まるでそれが事実だと言わんばかりだ。
「何を企んで、シスリゼへ?」
「何も企んでなんか。」
「何もないのに変装してあんな場所まで? そんな理屈を信じるとでも? 城の外に出ることが容易にできる身分でないことくらい誰でも知っている。社会勉強にしてはリスクが高すぎるだろう。」
「……。」
「今だって、こんな時間に何をしにここへ?」
唇をかんだセリナに、ローグは一度瞳を伏せた。
「不穏な行動が、人々の恐怖を煽る……自覚はあるのか?」
「っそんなつもりじゃ!」
反論の言葉を口にするセリナに、ローグは憐れむような表情を見せた。
「無自覚なら尚のことタチが悪い。」
抑揚のない声だったが、それはセリナの心に突き刺さる力があった。
「覚えておくといい。」
ローグとセリナの視線がぶつかる。
「あなたは"黒の女神"などではない。」
聞こえた台詞にセリナは耳を疑った。
(女神、じゃ、ない……?)
細められた緋色がセリナの瞳をまっすぐに捉える。




「あなたは予言に詠われた"災厄の使者"だ。」




身動きができなかった。
呼吸の仕方すら忘れるほどに、ただ聞こえた言葉の意味を追った。
そして、意味に気づいてセリナは唇を震わせる。
「……ぁ。」
「それを知る者がいるのだということを、覚えておけ。」
ローグの言葉は、首に当てられた剣先よりも鋭利だった。
「我々は、事実を歪めて真実を闇に葬るような真似はしない。」




「フィルゼノン王とは違ってな。」




「っ!?」
向いた話の矛先に、セリナは殴られたような衝撃を受けた。
(どうして陛下の名が……。)
問いかけようとして足先に力を込めた。
けれど、セリナが口を開くより前に、緋色の視線が逸れる。
「あぁ、リミットだ。」
嘆息するように背後の男・コナーが呟く。
「さすがに早いな。」
セリナを挟んで短くやりとりが交わされる。
首から短剣が引き、代わりに耳元で低い声が囁いた。
「あなたの運ぶ災いが、世界の終末を招くと、大賢者は告げている。」
「え……?」
「無垢な災いの使者殿に。古より続く智慧の恩恵を。」
言葉と共に目の前に突き付けられた『何か』に視界を奪われる。
「!?」
あまりに近くて黒に見えたそれが、緑色したきれいな1枚の葉っぱであることに気づいた瞬間、それはひらりと重力に従った。
反射的に目はそれを追う。
時間にすればほんの僅かな間。
セリナの意識が葉っぱに向いていた刹那に、ローグの姿は消えていた。
弾かれたように振り向くが、そこにもコナーらしき人物の姿はなかった。


ザァ――――ッ。


今までも休むことなく流れ続けていたはずの噴水の水音が、急に鮮明になった。
夢でも見ていたのかと思うほど、先程の出来事には現実感がない。


けれど。
夢ではない証拠のように、1枚の葉が足元に落ちていた。








BACK≪ ≫NEXT