45.








初めから、そこまで必死に追いたかったわけではない。
思わず足が動いただけで、許可できないと止められれば、仕方ないと諦めただろう。
ざわつく城内に、図書室へ行くことすら良く思っていないのはわかっていたから。
いつもとは違う。いつも以上に気をつけなければならない、という彼の言い分は正当なものだ。
(わかっている。)
後先考えずに行動することで、心配をかけることも迷惑をかけることも。
リュートを心配性だと笑ったが、こうして杞憂じゃなくしているのだから謝らなければいけないだろう。
イサラに言わせれば、自覚が足りないのだ。
(わかっているけど……。)
引けなかった。否、引きたくなかったのだ。
ジルドとのやり取りで神経を逆なでされ、その言葉に従うことができなかった。
明らかに、あの説得は逆効果である。
いつものドレスに、茶色のウィッグを付けたセリナは通り慣れた廊下を庭へと走った。












曲調が変わり、ホールの中央でペアになった男女が踊り始めた。
出席者たちが花を咲かせる今夜の話題の1つに名家同士の婚約話がある。
その当事者たちも、音楽に合わせて流れるようなダンスを披露していた。
両親をはじめ主だった者たちとの挨拶を終わらせたティリアは、持っていたグラスをテーブルに置いた。
「楽しんでいますか?」
「ラシャク様。えぇ。」
声の主を認め、ティリアは頷いてから首を傾げた。
「踊らなくてよろしいの?」
「いえ、誰が私と一番に踊るかで、揉めているようなので。」
ははは、と楽しそうに笑う青年に、ティリアはまぁと呆れたように声を出した。
「いずれの花も極めて美しく、ただ一輪を選ぶことは私にはできそうもありません。」
そんな態度だから、静かに火花を散らすような戦いが起こるのだが、言ったところで改善するわけでもない。
軽薄そうだが仕事はできる。加えて、その外見と紳士的な態度にラシャクのファンは多いのだ。
「それでは、わたくし、一緒にいては睨まれてしまいそうですね。」
「ははは、ティリア姫に? まさか。貴女に向ける瞳に、憧れと思慕の色以外に何が含まれるのですか。」
そう言われたところで相手がラシャクなので、胡散臭いことこの上ない。
甘い笑顔とこの調子で軒並み女性は頬を染めるのだろうが、残念ながらティリアは先の台詞を無視して話題を変えた。
「そう言えば、珍しい顔を見かけましたわ。あの方、あまりこういった場はお好きではないのだと思っていたのですが……。」
ティリアの言葉に、ラシャクは困ったように笑う。
それから声をひそめて、囁いた。
「そういう方は1人ではないのでは? 今宵の舞踏会には、みな、少しは期待をしているはずですから。」
言われて、ティリアはあぁ。と息を吐いた。
「"彼女"の登場を?」
「開放されている庭園も人気らしいですよ。一目、とでも思うのでしょうか。」
噂好き、ゴシップ好きの人種だ。倦厭していても好奇心はうずく。
そこに姿を現すことはないとわかっていても、話のネタに。ということなのだろう。
「……北宮は、今日はすべての部屋に灯りがつけられているとか。」
「確か、そのように。さらに結界も強化されているので、探知するのも不可能なはずです。」
その辺りの手筈にぬかりはない。
(不安に思っていないといいけれど。)
「やはり、わたくし。セリナ様の元へ行こうかしら。」
つい考えが口に出て、慌てて口元を押さえた。
笑顔を浮かべたラシャクが、小さく首を振る。
「姫には、ここに居ていただかないと。」
顔を上げたティリアに、再度微笑んでラシャクは視線をずらした。
「おや、失礼。初めの相手が決まったようです。」
「え、あ……。」
優雅に一礼して辞去したラシャクは、可愛らしい令嬢の手を取ってホールへと出て行った。
彼女が女同士の戦いの勝者もしくはその戦いを出し抜いた者だとしたら、なかなか侮れない。
(何か……違和感を覚えたのだけど、気のせいかしら。)
会場を見渡すが、変わったところはない。馴染みの顔を見つけて、ティリアは笑顔を浮かべる。


曲調が変わり、ホールでは入れ替わった者たちがファーストステップを踏み出した。
















「女神様も走るんですね。」
春風のように通り過ぎた相手を呆然と見送って、カイルはのんきな声を出した。
「アホか、感心してないで追うぞ!」
「あ。あぁ、はい! すみません!」
顔を引き締めたカイルが副隊長の後に続く。
予期せぬ行動のせいで呆気に取られ、反応が遅れた。
(一瞬、誰かわからなかった。)
何を考えているのか理解に苦しむが、それはこの際どうでもいい。
「可及的速やかにお戻りいただく!」
「は!」
追いかける廊下の向こうに女官の姿を捉えて、ジルドは目配せした。
「カイル、女官に隊長への言付けを。」
そう言って事前に決められているコードを口に乗せた。
「了解しました。伝えて、すぐに後を追います!」
階段の前で二手に分かれ、ジルドは女神の後姿を追った。
















部屋の窓から見えた方角の庭へと走る。向かうのは西だ。
いつもセリナがお茶をする北園に人の気配はない。
同じ庭園ではあるが西の庭との境には高い垣根が壁のように植えられている。本来出入りには小道に沿って作られた木戸をくぐるのだろうが、追ってくる騎士を見つけてセリナは道をはずれ木立の間を進む。
(木戸の鍵が開いているとも思えないし。)
垣根の隙間を見つけて西に渡り、茂みを抜けたところで足を止めた。


「ここ……。」


広がる景色に息をのむ。
光灯に照らされ幻想的ですらあるその庭を、セリナは一度目にしている。
(あの日、部屋を飛び出して辿り着いた場所。)
今立っている場所よりも少し先の広場で、名前を呼ばれたのだ。
(そうか、だから西棟の部屋に……。)
泣き疲れたセリナを運ぶのに、ここから一番近いのは西翼の部屋だ。
ふらりと一歩前に出て、セリナは空を見上げた。


あの時の感覚を思い出すだけで、心が震える。


不意に笑い声が聞こえて、はっと意識を取り戻した。広場の反対側に腕を組んだ男女を見つけて、セリナは慌てる。
見れば何人かの人影があり、反射的に隠れようと身を翻した。
「!?」
突然、右手を掴まれ、セリナはびくりと肩を揺らす。振り向けば、鬼のような形相の副隊長がセリナを見下ろしていた。
(しまった、追われているのを忘れてた。)
ぐいっと力任せに腕を引かれ、セリナは茂みの方へと戻される。
「ちょっと、痛い……っ! 放して!」
「貴女は! いったい何を考えているのですか!」
ジルドの声は周りを気にして抑えられていたが、咎める色は濃い。
「放してっ。」
振りほどこうとするが、セリナの力ではいくらの抵抗にもならない。
怒っているのは仕方ないかもしれないが、乱暴な扱いだ。
「とにかく、すぐにお戻りを。」
「……。」
先程ざっと見た限り目的の相手はいなかった。あの日、辿り着いたこの場所を見つけられただけで十分な収穫だ。
部屋を飛び出したセリナに非があることは承知している。当初の目的を果たすことは既に不可能だろうし、騒ぎになる前におとなしく部屋に戻るべきだ。
(うう、わかってる。わかってるけど、うんって言いたくない!)
腕を引いたセリナに、ジルドはさらに表情を険しくする。
「いい加減に……!」
怒気を押さえ込んで、低く唸るような声が漏れる。


「嫌がっているようだが、彼女が何かしたのか?」


別の方向から、聞き慣れない声が降ってきた。
え?と顔を向けただけで反応の遅れたセリナとは違い、ジルドは誰何の言葉を発した。
「あなたは?」
月明かりの逆光で顔が見えないが、その服装からして舞踏会の招待客のようだ。
ジルドの問いには答えず、相手は頭を下げた。
「見たところ……王宮騎士のようだな。令嬢に対してそのような振る舞いをするべきではないと思うが。」
冷静に指摘され、ジルドはセリナから手を放した。
会釈をしたわけではなく、ジルドの身なりを確認しただけのようだ。視線が追えないのでわかりにくい。
「お騒がせして申し訳ありません。私は……会場を抜け出したこちらの姫君を迎えに来ただけです。」
ゆるりと頭を下げ、ジルドが当たり障りのなさそうな嘘で説明した。
「本当に?」
立ち尽くしていたセリナに向かって、男が問う。
あ、と口の中で呟いて、ちらりとジルドに視線を向ける。それから、セリナは男に向き直って頷いた。
「えぇ、本当です。」
「……そう。ならば騎士殿、仕事を邪魔してすまなかった。」
「いえ。」
「けれど、やり方はもう少し気をつけた方がいい。」
男はジルドの近くまで寄ると、声を落として静かに語る。
「女性を無理矢理茂みに連れ込むのは、あなたの品位にも関わる。」
「……。」
一瞬言葉に詰まったジルドだったが、再度頭を下げた。
「以後、重々肝に銘じます。」
男はセリナに視線を止めて、ほんの僅かに頬を緩めた。
「貴女も、あまり周囲に心配をかけるものではない。」
「あ……。」
移動して振り向いた相手の顔がセリナの目に映り、思わず目を見開いた。


「あなた、あの時の……。」








ざわり、と風が吹く。
揺れて音を立てた木々の葉が落ち着く頃、遠くから聴こえてくる音楽がその曲調を変えた。








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