38.








執務室に入ると、ジオは机に手を伸ばした。
机の端に描かれた紋章に右の5本の指先を載せると、ぽぅっと青白い光が浮かぶ。
「ゼノ=ディハイト。」
「はい、陛下。」
呼びかければ、近衛隊長の聞き慣れた声が返ってくる。
「そちらに、アシュレーは戻っているか。」
「おります。」
「なら、部屋へ来るよう伝えてくれ。」
「御意。……ベルウォール、陛下がお呼びである。」
「は。只今まいります。」
別の声が聞こえて、ジオは小さく息をついた。
紋章から指を離せば残光が散った。
扉を開いたまま繋がった前室に、しゅんと音をさせて頭を垂れた男が現れる。
呼びつけた相手を確認して、ジオは入室を許可した。
「報告を。」
「は。」
応じてさらに一度頭を下げると、男は顔を上げた。
サラリと揺れた青銅色の髪から青色の双眸が覗く。
魔法騎士隊ランスロットに所属するアシュリオ=ベルウォールである。
「先程の2人組は捕えて牢に繋いでいます。裏通りでは割と知られた麻薬密売人で、1人は強盗致傷の前歴がありました。」
「そうか。話はできるか?」
「いえ……少々手荒な方法で聞き出しましたので、今は難しいかと。」
アシュレーの答えに苦笑して、ジオはソファに腰かけた。
「裏は?」
「いえ。密売の現場を見られたので、口封じのために襲ったと。初めから狙って、というわけではないようです。」
「運悪く巻き込まれただけか。」
渋面を崩さないもののジオは僅かに胸を撫で下ろした。
(どうやら心配していた最悪の事態ではないらしい。)
「彼女が何者か気付かれた可能性はあるか?」
「まだ調査中ですが。お答えするならば、皆無ではないが限りなく低いと申し上げます。」
「わかっているとは思うが。」
ジオは一度言葉を切ってアシュレーを見据えた。
逸らされることのない真摯な青の瞳に、言葉を続ける。
「事実であろうが逆恨みであろうが、『"黒の女神"が起こした災厄』などという話が出ないよう計らえ。」
「重々配慮いたします。」
返事を聞いてからジオは視線を外した。
「当面は密売容疑と"市民"への暴行容疑で処罰を進めます。」
市民という言葉にジオは、一瞬だけ眉を動かした。
(救出の経緯上、ただの一般人では苦しいか。身分を隠した"どこかの令嬢"あたりで話を進めるのが妥当だろうな。)
幸いなことに時期的にも"社交期"にあたり、中央や地方の子女が多く王都に集まっている。
護衛に魔法使いを有する令嬢を1人作り上げるくらいワケのないことだった。
「彼らの背後関係も調査を続けるように。何かわかれば追って報告を。」
「はい。」
返事を聞いてからジオは何気ない調子で問いを投げかけた。
「例の件……あれから、何か動きはあったか。」
「いいえ、風なき水面の如く。」
相手も顔色を変えることなく応じる。
「そうか。」
一歩下がって礼をしたアシュレーは、王の執務室を出ると、来た時と同じようにしゅんと音をさせてその姿を消した。
「クルス、いるか。」
「ここに。」
声をかければ前室に控えていたクルスがすぐに応じた。
「入れ、先程の話は聞いていたな。」
執務室へと足を踏み入れると、部屋の扉を閉めて、ジオの前へと進んだ。
「はい。初めから狙われていたわけではないのであれば、まずは一安心というところですね。」
とは言いながらクルスの表情は硬かった。
「裏に糸引く者がいない以上、この件が大きく騒ぎ立てられることもないでしょう。便乗した騒動もありませんし、"エンヴァーリアン"たちも静観を保っている様子。」
ゆっくりと息をしてジオは顔を手で覆う。
「そうだな。」
黒の女神を公式に認めたのは、登場の派手さゆえにその存在を隠しておくことはできなかったからだ。
放り出すことも迫害することも考えにはなかったが、城で保護する以上彼女が原因で災いを起こすわけにはいかない。
それは事実がどうあれ、そういう風聞が流れることを含む。
だから、これまでも妙なこじつけが起こらないよう散々配慮してきた。
(恐ろしいほど冷静で諦観しているかと思えば、急に思い切った行動を起こしたものだ。)
城の内外問わず黒の女神の存在を快く思っていない者は多い。
「しかし今回、彼らが絡んで来なかったのはただ運が良かっただけのこと。新興勢力もこのまま"女神"を放っておくとは思えません。」
クルスの言葉にジオは伏せていた顔を上げた。
「それ以外にも、卿が『外』にマークしている者たちがいると言っていたのも気にかかる。」
「あれからその者たちの尻尾を掴めていないところを見ると、一筋縄ではいかないということなのでしょうね。」
セリナは今現在も狙われているだろうし、この先強行策に出る者がいるのは想像に難くない。
「よりにもよって、こんな不安定な時期に外に飛び出るとはな。」
眉間を押さえたジオに、クルスは苦笑いを浮かべる。
こちらの気も知らないで、と思わず口走ってしまった主の心痛を察する。
「大賢者の言葉にあるから、これから災いを起こすだろう。災いを起こすならその前に排除すべきだと。」
膝の上についた両手を組んで言葉を続ける。
「彼らの考えも理解はしている。黒を纏い、災厄を運ぶ者……前半を否定できない状態では、後半を鵜呑みにする気持ちもわかる。実際、災いの芽があるなら、事前に対処するのは当然だ。」
「ジオラルド様。」
咎めるような口調のクルスに、ちらりと視線だけを向け苦笑した。
「わかっている。これは一見筋が通って合理的に聞こえるが、その実あまりに危険な思想だ。不確定要素が多いにも関わらず、間違いないと断定する。根拠のない正義で力を行使すべきではない。」
とはいえジオ自身も予言について、別に全面否定しているわけではない。
「賢者の言葉は、教訓であり訓戒。だが、古の人の言葉に踊らされる気はないし、それで民の間に余計な混乱を広げる気もない。」
言ってジオは再び右手で顔を覆うと、さりげなくこめかみを押さえた。
(アジャートとの休戦に悪影響を及ぼさなければいいが……。)
頭の痛いことだ、と思考の端で考えて常と変らぬ顔で立ち上がる。
「まぁ、例の侍女が思いのほか"女神"に良く尽くしているようだとわかったのが収穫か。」
礼儀をわきまえていなくとも、主のために国王に意見する気概は認めてやりたいものだ。
(新人だからこそ、かもしれないが。"女神"という名称ではなく、個人に仕える人材は貴重かもしれん。)
「……そう、ですね。」
予想通り肯定の言葉が返ってきたが、歯切れの悪さにジオは怪訝な目を向けた。
その視線に珍しく動揺を見せてからクルスは背筋を伸ばした。
「何か気になる所があるようだな。」
主のシニカルな笑顔に、向けられた男は苦笑を隠しきれなかった。




ジオに隠し通せるとも思えず、クルスは仕方なく口を開く。
「以前に、取り次ぎのできないメイドの話をしたことを覚えていますか?」
「あぁ、そんな侍女がいるのだなと呆れた件だろう。」
「実はアエラ=マリンがあの時のメイドだったのです。」
「……。」
「あの時は見かけない顔だと思っただけで特に気にも留めてなかったのですが、今日初めてセリナ嬢付きの侍女を見て驚きました。まさかよりにもよって、彼女が側に仕えているとは。」
顔だけしか知らなかった者と名前だけしか知らなかった者が一致した時の衝撃。
リュートに連れられて戻ったのを見て、危うく声を上げるところだった。
「ちょっと待て、クルス。それは……。」
「えぇ、お察しの通り。」
ジオの険しい顔にクルスは頷く。
「お世辞にも優秀とは言えない彼女が侍女だということも、それはそれで困りものなのですが。それ以上に問題なのは、新人であるはずの彼女が北の宮……しかも、セリナ嬢の部屋にいたこと。」
「……。」
「前歴は厨房の担当だったはずです。北は本来なら彼女が近付ける場所ではありません。」
ジオが無言のまま考え込む。
「いったい何をしていたのか。」
「グラトラのマリン家か。」
「王都に近しい親戚はいないはずですから、今回の謹慎では実家へ戻ることになるでしょう。」
「……。少々気にかけておく必要があるな。」
「はい。」
恭しくお辞儀をすると、クルスはチラリと視線を向けた。
(騒ぎにするわけにはいかなかった。捜索に充てる人員も限られてはいた。)
クルスは眼鏡を押し上げた。
(けれど、だからといってジオラルド様本人が迎えに行かれるとはさすがに思わなかったな。)
とはいえ、止める理由もなかったので内密にではあるが王宮の魔法陣から送り出したわけである。
(元より自分で動くことを厭わない性格なればこそ、そう不思議でもないが。)
そう自分で結論付けて、クルスは心の中で苦笑した。
(先は読めないな。)












診療鞄を抱えてララノは扉をゆっくりと閉めると、軽く背後に体重をかけて息を吐いた。
眼鏡の奥で茶色の瞳が少し細められた。
人の気配を感じて顔を上げたララノは、相手を認めて背を伸ばす。
「なんじゃ、待っておったのか。」
どこか気まずそうに会釈した男に、穏やかに微笑みを向ける。
「もう眠っている。心配はいらんよ、エリティス殿。」
「そうですか、良かった。」
リュートは呟くようにそうこぼした。
「今夜はわしの助手がついておる。」
一同と入れ替わりに入室し、助手の"治癒者(ヒーラー)"をセリナに紹介してきたところだ。
その間、リュートは廊下で待っていたらしい。




既に謹慎の沙汰は言い渡された。去るべきなのだろうとは思いながら、リュートが部屋を離れられなかったのは胸中に渦巻く思いのせいである。
「そなたもひどい顔をしておるの。ちゃんと休養をとっておるか?」
「え? えぇ。」
「護衛だの例の視察だので忙しいだろうが、倒れては元も子もないぞ。」
遠回しながら心配してくれているのだと気づいて、リュートは少し笑った。
「ありがとうございます。」
「ほれほれ、ここにおっても何の役にも立たん。さっさと帰ってエリティス殿も休まれよ。」
まるで犬でも追い払うようにしっしと手を振る。
「はぁ……。」
無碍なその態度に返って気を抜かれて、リュートは言われるまま足を進めた。
「アエラに、きつい態度をとってしまいました。」
ぽつりと言われた言葉にララノは目を開く。
「アエラ……侍女の少女かね。女神殿の怪我の原因は、そのアエラかい?」
「いえ、そうとも言い切れないのですが。」
「少々の責任は負っている。」
「……。」
否定も肯定もしないその反応に、ララノはリュートから視線を外した。
「ふむ。」








アエラを見つけるのは簡単だった。
魔法騎士であるアシュレーが"探索(サーチ)魔法"を使った上で、彼女のいる場所へと飛ばしてくれたのだから当然である。
そこは城の正門にほど近い広場の片隅だった。
「……。」
肩を大きく上下させる彼女が、塀に手をついて立ち止まる。
再び動き出そうとしたアエラの腕を取ると、驚いたように振り向いた。
「な……!」
青ざめた顔でそう言ったきり、言葉が続かなかったようだった。
「城に帰るぞ。」
「―――! エリティス様、セリナ様が!」
「はぐれたようだな。別の場所で反応があった。」
「早く探して見つけてさしあげないと!」
パニックを起こしかけるアエラに、リュートは冷静に告げる。
「それは君の仕事ではない。」
「!?」
「何をしたか自分でわかっているのか。」
「それは……!」
「勝手に抜け出しただけではなく、主を見失うなどと。」
アエラは反論の言葉もなく俯く。
「覚悟も責任感も中途半端なのであれば、出過ぎた真似をするな。」
「……っ。すみませんでした。」
気が立っていた。
苛立ちは心配の裏返しだが。
すっかり落ち込んでしまった少女に、フォローの言葉をかける余裕もなかった。
それは、おそらく。
まだ、『彼女』の安否がわからなかったからだ。








「彼女もわかっておろう。後はどう責任をとるかじゃな。」
最後の言葉はアエラとリュート2人に向けて告げられたものだった。
ララノの台詞を受け止めて、リュートは真摯な顔で頷いた。
「はい。」
渡り廊下まで辿り着いたところで2人は別れる。




ララノは空を見上げて、ゆっくりと瞬きをした。
「さて。」
(アレは、どう動くつもりなのかのぉ。)
彼の胸中にもまた、渦巻く思いが隠れている。
未来はわからない。
けれど、せめて今日訪れる眠りは穏やかであればよい、とひげを撫でた。


月は、今夜も地上を照らす。




















<X.舞い踊る葉>へ続く

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