36.








「っは。」
切れた息を整えるため、塀に手をついて立ち止まる。
肩で息をしながら、青ざめた顔を上げれば時計が目に入った。5時の鐘はとっくに鳴り止んでいる。
「時間が。」
気を抜けば泣き出しそうな自分を叱咤して、背筋を伸ばす。後悔ばかりが襲ってくるが、今思い煩うべきことは他にある。
走り出そうとした少女の腕を誰かが取った。
振り向いて、彼女は驚愕に立ちつくす。
「な……!」
それ以上は声にならなかった。
ただでさえ青ざめていた顔がさらに色を失う。
空も夕焼けの赤を失い、闇を深くしていた。
















―――誰か、助けて!!!




セリナが瞼を強く閉じた瞬間、一陣の風が舞った。
「何だ!?」
男の狼狽した声に、セリナも目を開く。
押さえつけられた体勢のまま視線を巡らせると、不遜に立ちはだかる男の姿が見えた。
風の余韻がフードから零れ出た金糸を遊ばせる。
「なんで……。」
その輝く金色には見覚えがあった。
セリナの呟きを聞き止めて、目の前にいた緑髪の男が舌打ちする。
「マジでお嬢様かよ。ピンチを救いに魔法使いが来るとはな。」
(魔法使い。)
確かにいきなり現れたところからするに、魔法の力が働いているらしい。
「ったく、面倒な展開だな。」
金髪の男がセリナから手を離し、突然現れた男に対峙する。苦渋の表情を浮かべて、拾い上げた木の棒を構えた。
セリナの状況に目をとめ柳眉をひそめていた相手は、戦闘態勢の男に視線を投げる。顔を上げたことでフードに隠れていた表情が現れ、前髪が揺れた。
向かい合う2人の男は同じ金髪だが、その輝きには大きな差がある。こんな状況にも関わらずセリナはその違いに目を奪われた。
「やめておけ、相手にならん。」
「は! 言ってくれるじゃねーか。」
冷めた目を向ける相手が仲間に気をとられている隙に、緑髪の男が素早く動き叫んだ。
「動くんじゃねぇ! この女がどうなってもいいのか!?」
「―…う!」
乱暴に髪を引っ張られたセリナは、背後から首元にナイフを突きつけられた。
僅かに目を細めた相手に、男たちはにやりと笑いを浮かべる。しかし次の瞬間、セリナを捕らえていた男が塀まで吹き飛んだ。
「ぐは!」
勢いよくぶつかって男は咳き込む。
「てめぇ……。」
金髪の男は挑むように睨みつけるが、その瞳の奥には驚愕と怯えの色があった。
セリナは自分の首を押さえ、悠然と立つ青年を見上げる。
(何もしてないのに。)
「お、おい。そいつはやべぇ……、並の術者じゃねぇぞ。」
呼吸を取り戻した緑髪の男は、立ち上がりそう声をかける。
「だから、さっさと消せと言ったんだ。ふざけやがって!」
悪態を吐きながら男は、棒を闖入者目掛けて振り下ろす。
しかし、パン…と破裂音がして、よろめいたのは攻撃を仕掛けた男だった。彼の手から離れた棒は、縦2つに割れていた。
「くそ!!」
青ざめた男は身を翻しその場から走り去る。
「お、置いていくなよ!」
空き地から脱兎の如く走り去る男たちの後ろ姿を見て、青年は低く呟いた。
「アシュレー、あれらを共に捕らえよ。決して逃がすな。」
「御意。」
誰もいないはずの場所から返事が返る。直後、背後の景色が揺れて人影が通り過ぎた。
見間違いかと思うような一瞬だったが、幻でないことは動いた空気で金色の髪が靡いたことが証明していた。
(た、助かった。)
男たちが見えなくなって、ようやくセリナは息を吐き、震えの止まらない両手で自分の体を抱いた。
(怖かった……ちっとも敵わなかった。)
近づく気配を感じて、セリナがゆっくり顔を上げるとサファイアの瞳がこちらを見ていた。
「陛下が、なんで、ここに。」
座り込んだままでセリナは絞り出すような声で問う。
「逃げ出した者を連れ戻しに。」
冷淡に答えが返ってきた。
『助け』でも『迎え』でもない言葉に、セリナは顔を歪めて情けない笑みを浮かべた。
「むしろこちらの台詞だな。なぜここにいる。」
不機嫌そうに見下ろされて、思わず顔を背けた。セリナには、彼のように淀みなく返せる答えがない。
俯くと見慣れた自分の髪が、はらりと顔にかかった。乱暴に掴まれた時にずれたウィッグから黒い髪がこぼれている。
「答える気はない、か?」
呆れたように溜め息をついた。
「アエラは!?」
はっと気づいて、弾かれたようにセリナは尋ねた。
ジオは一度怪訝そうな顔を見せて、あぁと小さく呟いた。
「アエラ……侍女のことか。あの者なら今頃、リュートが城に連れ帰っているはずだ。」
「リュートが。」
出た名前に安堵して、セリナは肩に入っていた力を抜いた。
「他人のことより自分の心配をしたらどうだ。」
どこか棘のある言い方だった。
(怒ってる……のは当然か。)
「立て、城に戻る。」
そう言われて反論できるわけもなく、セリナは手をついて立ち上がる。右の掌に走った痛み思わず顔をしかめた。
「いた……。」
「怪我をしたのか。」
かけられた言葉に顔を上げると、無言で腕を掴まれる。
「血が出ている。」
「あ。」
今まで気づかなかったが、木の棒で応戦しようとした時に負ったらしい。
不愉快そうな表情で眉を寄せたジオを見て、セリナは唇を噛んだ。思わず泣きそうになり、慌てて目を伏せる。
けれど、思いがけない行動を目にして、セリナは顔を上げた。
ジオが懐から白いハンカチを取り出すと、それをセリナの手に巻き付け結んだのだ。
(な、何!?)
「帰ったらララノに看てもらえ。」
淡々と向けられる言葉に、セリナはジオの顔を凝視した。
(もしかして、心配、してくれてる?)
不躾な視線にジオはピクリと顔を歪める。
やばい、と視線を外すが、セリナの胸中は混乱していた。
(なんで、この人が。)
ジオが一歩距離を詰めて、再びセリナの腕を掴む。
「!?」
後ずさりしかけたセリナだったが、ジオに腕を引かれて阻止された。
「動くな、ここから転移する。」
「て、転移?」
狼狽しているセリナを胡乱げに見下ろす。説明しようかと開きかけた口を一度閉じて、ジオは別の言葉を紡いだ。
「怖ければ目を閉じていろ。すぐに終わる。」
ぐるぐる回っていた思考がすべて流され、セリナはジオの瞳に釘付けになった。
耳に心地いいジオの声が、何かの呪文を詠唱する。
ふわりと白い光に包まれたかと思うと、風が吹き抜けた。


一瞬の浮遊感に、セリナは思わず相手の腕を握って目を閉じる。けれど、構えたほどの衝撃は訪れず、再び目を開けると周りの景色は変わっていた。








転移で戻ってきたのは、城の中央部にあるという部屋だった。
床に複雑な紋章が刻まれたその場所は、魔法による出入り口になるらしいことを2人を出迎えたクルスから教わった。
そこから連行されるように、城の北棟にある自室へと戻される。
「セリナ様!!」
部屋に入ると先に帰っていたアエラが、半泣きで飛びついてきた。
謝ったり、無事を喜んだりと取り乱しているアエラをなんとかなだめすかす。
「感心できぬのぉ。今度出かける際は、怪我のないよう重々気をつけるのじゃぞ?」
傷の手当てに呼ばれたララノは、どこかずれた意見を述べるとうむと頷いた。
治療が終わると、ララノと入れ替わるようにティリアがセリナの元にやって来た。はらはらと涙をこぼすティリアに抱きしめられ、セリナは一緒にその場に座り込んだ。
「えと。」
「……うぅ。」
肩を振るわせるティリアに、かけようとした言葉を失ってしまう。
「あの、ごめんなさい。」
ぐすり…と音がして、ティリアが涙に潤んだ瞳を上げた。涙を拭うとセリナの右手を取る。
「いなくなったとわかってから、わたくしがどんな気持ちだったかおわかりですか。」
「ごめんなさい。」
「行方もわからず、どれほど心配したか。」
「ごめんなさい。」
「『心配しないで下さい』の書き置き1つで安心できるとでもお思いでしたか。」
残したのは、なんとかこちらの文字で書き上げた不格好な書き置き。せめてもの配慮だったが、もちろんそれで本当に心配しなくなるわけがない。
「こんな……怪我までされて。」
そこでティリアは感情の高ぶりを一度やり過ごすように口を閉ざす。
「わたくしは、セリナ様の信用に足る存在ではありませんでしたか?」
「違う! それは違います。信用していないわけでは……!」
いくら否定しても説得力に欠ける気がして、セリナは俯いてもう一度謝った。
「浅慮だったんです。どんなに傷つけてしまうか、少し考えればわかったのに。自分のことしか考えてなくて。ごめんなさい、ティリアさん。」
ティリアは取りだしたシルクのハンカチで目頭を押さえる。
「……。」
セリナの手を優しく持ったまま、ティリアは小さな声で呟いた。
「ごめんなさい。」
「え?」
俯いたティリアの言葉にセリナは首を傾げた。
「なんでティリアさんが謝るんですか……?」
問いかけに言いにくそうに口を開閉させてから、潤んだ瞳をセリナに向けた。
「抜け出したことを陛下に告げたのはわたくしなのです。」
(あぁ。)
セリナは胸を突かれた。
それは彼女の立場なら当然の行動。
けれど、それでティリアが心を痛めているのだと気づいて、申し訳ない気持ちになる。
「急ぎでお知らせしたい話があったんです。午前中に伺った時はお休み中だと……だから午後にもう一度訪ねて。そしたら部屋に閉じこもったきり昼食も取っていないとのこと。心配になって部屋に入ったら無人で。わたくし、慌ててしまってすぐに陛下にお知らせしたのですわ。」
言いながら徐々に視線が下がる。
「ティリアさんが謝ることじゃないです。ごめんなさい、私のせいで余計な心痛をおかけして。」
ティリアは力無く首を振った。
「でも、急ぎの話って……?」
引っかかりを覚えた点を聞こうとした時、部屋の扉が開き会話が中断される。
入って来たのがジオだと気づくと、ティリアはセリナの手を取ったまま立ち上がり彼を迎えた。








ソファに座るセリナはチラリと部屋の中を一瞥した。
(うわぁ。いたたまれない。逃げるとこもないし。)
右隣には、侍女服に戻ったアエラが木製の椅子に座っている。
正面のソファには無表情な国王陛下。
そのソファの後ろにクルスがいて、さらにその奥壁際にリュート。
扉の近くにアエラを見つめているイサラ。
(こういう展開は予想してなかったなぁ。)
現実逃避に似た思考を巡らせながら、最後に左―別のテーブルセットの椅子に座っているティリアを見た。
もう涙を流してはいないが、泣きはらした顔の彼女。
(今更だけど、すごい心が痛む。)
重い空気の中、口火を切ったのはジオだった。
「言い分があるなら聞こう。なぜ勝手に城を抜け出した。」
アエラが心配そうな目を向けてくる。
結局、セリナは彼女に肝心な部分について何も告げていない。アザリーを調べたかったことは気づいているだろうが、それがなぜかまでは知りえない。
「ご迷惑をかけたことは謝ります。軽率でした。……あんなことに巻き込まれたのも反省しています。助けていただいたことには感謝もしています。」
(隠し続けることはできないけれど、今この場ですべてを話すわけにもいかない。)
話せないからこそ、抜け出すという方法を選んだのだ。
結局、セリナの推論は肯定も否定もできないまま宙に浮いている。
ジオを一瞥して、セリナは膝の上の手に力を入れた。
(それに……多分、今求められている『言い分』は、言い訳のことじゃない。)
無断で城を抜け出したことに正当な理由があるのかを問われているのだ。
外出の目的を口に出せない以上、説得させられるだけの『言い分』を提示できるはずもない。
「答えになっていないな。あれほど城の近くにいたんだ、本気で逃亡したわけではないだろう。何をしに街へ出た。」
「必要なことだったんです。その……い、今はそれしか言えません。」
伝わるようにと祈りながらセリナは王を見つめるが、射抜くような瞳を返され身をすくめた。
「無断で出て行ったことを謝罪する気はないらしいな。」
ふぅと息を吐いた後で、ジオはアエラに視線を移した。
「アエラ=マリン。本来なら諌めるべき立場の侍女が、抜け出す協力をしたわけだが何か申し開きはあるか。」
「いいえ。」
小さな声で答えて、首を振った。
セリナの力になりたかっただけだが、それが絶対に正しかったと主張する気はなかった。
特に、セリナの身を危険に晒してしまった後では。
「語ることは何もないか……どちらにも斟酌すべき事情はないと、そう理解してよいな。」
部屋に沈黙が落ちる。
「ティリア姫。」
「はい。」
不意にジオに呼ばれティリアは顔を上げる。
「貴女に出した"許可"を白紙に戻させてもらう。」
その言葉にティリアは反射的にセリナを見た。それから、悲しそうに視線を床に落として頷いた。
「……はい。」
ジオは一瞬だけ感情のこもった眼差しを向けた後、いつもの無表情な顔でアエラを見据えた。
「アエラ=マリンには10日間の謹慎を申し付ける。この間、城への出入りを禁止する。」
「は、はい。」
「そんな……!」
項垂れて返事をしたアエラの代わりにセリナが抗議の声を上げる。
しかし、ジオの一睨みで続く言葉を失ってしまった。
「シノミヤ・セリナ。貴女にも10日の謹慎を申し付ける。勉学以外での部屋からの外出を認めない。さらに、ティリア姫から申し出のあった外出許可…リビス祭への参加許可を撤回する。」
その言葉にセリナは息をのんだ。
「外出許可って。」
「出かけたいと言っていたのだろう。ティリア姫からどうしても許可をと要請があったので調整していたところだった。折しも今日、その決定が下りたところだったがな。」
(そんな……。)
思わずティリアを見るが、俯いているティリアの表情はわからなかった。
(急いで知らせたいことって、この許可のことだったんだ! せっかくのティリアさんの努力を、踏みにじるようなことを……!)
思わず口元を押さえる。
声をかけたかったが、何も言葉にならなかった。
(私はなんてことを。)
ジオは部屋にいる者たちそれぞれに視線をやってから告げた。


「では、各々への処分を申し付ける。」








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