32.








(国王陛下。)
なぜ今その名前が出てくるのかが不思議でセリナはダンを見つめた。以前にも同じような気分を味わったのを思い出して、さらに戸惑う。
(あれは、ティリアさんと話してた時だ。)
「この国もついこの間まで戦争の真っ只中で、西部はそりゃあ酷い有様だったらしい。長い間ずるずると引き続いてきたあの戦いを、休戦まで持ってきたのはあの王の力だ。」
「……。」
「先王が倒れて、年若い王が玉座につくとなった時は心配する声も上がったがな……数ヶ月で休戦条約を取り交わしたんだ。元々、フィルゼノンは戦争をしたいわけじゃない。アジャートが攻めてくるからそれに応戦しただけだ。」
今までの態度からセリナがあまり世情に詳しくないと判断したのか、ダンはつらつらとしゃべる。
そこでファファが口を挟む。
いつから聞いていたのかわからないが、アエラとの会話は一段落したようだ。
「アジャートは大国だけどあまり豊かではないからね、この国の富が欲しくて堪らない。だから攻めてくるんだが、知略に優れた王は侵略軍を見事に押し返しちまったのさ。軍事大国ってのは力が要だからそれで負けちゃ、あとは手も足も出ない。防壁で守られたこの国には、簡単に侵攻できないってわけさ。」
「相手が兵を引けば、こちらからそれ以上攻める必要はない。未だ、いつ戦いが再燃するかわからないが、おれはあの王ならこのまま終戦に運ぶことも可能なんじゃないかと思ってる。」
「もちろんですわ。我が王なら必ずや平和な国をもたらしてくれます。」
アエラが両手を胸の前で組んで力強く頷く。
(優秀な国王。)
「状勢は不安定でね……まだ何もかも安心ってわけにはいかないけど。あの王様のおかげで私らはこうして日々穏やかに過ごせてるんだ。」
ファファが少しだけ口角を上げる。
「陛下は優しいお方だよ、本当に。」
「優しい……。」
(それも、前に聞いた。)
セリナは無意識に眉を寄せた。彼らの語る人間像と、自分の知る『彼』の姿はどうしても一致しない。
「きちんと民のことを気遣ってくださる。あんな偉い方が、下々の者にも情けをかけてくれるんだ……不安にさせないように、ってね。」
ファファの言葉に、ダンも小さく頷く。
「ずっと戦時下にあったせいで、我々国民も不穏さには敏感でな。少し前にも騒動があったが、それを収めたのも陛下ご自身だったな。」
「騒動?」
問い返したセリナに、少しだけアエラが肩を揺らした。
「セア、あんた本当に何も知らないんだね。中央には来たばかりかい?」
驚いたように目を見開いて、ファファが説明を始める。
「2ヶ月ほど前かね。"黒の女神"が現れたってさ。空から落ちてくるのを見た人もいるって、ちょっとした騒ぎになっちまってね。ほら、やっと戦が休止したのに、今度は災いの使者様だろう? この国はどうなるんだって、不安が広がってさ。」
「!!」
セリナは必死で平静さを装う。
「暴動とまではいかないけどな、城の広場に人が集まってしまってな。それを鎮めたのがジオラルド陛下。」
なぜか誇らしげにダンはそうセリナに伝える。
「おれはその場にいたわけじゃないから、聞いた話になるけどな。それは堂々たるものだったそうだぞ。」
(暴動……王がそれを鎮めた?)
青ざめたセリナには気づかず、ダンとファファは2人で説明を続ける。
「人が降るなんて聞いたことないからな、あっと言う間に噂は広がった。」
「そうそう。箝口令でも出てたのか、詳しいことは上の連中は何も教えちゃくれないけどね。人の口に戸は立てられないってもんだよ。すぐに噂は大きくなって、空から来たのは"黒の女神"に違いないってことになったんだ。」
車輪が石を踏んだのか、一度ガタンと揺れる。
セリナは荷台の縁を掴んでいた手に力を込めた。
「それだけでも不安は広がってたのに、数日後にまた別の噂が流れた。どういうわけだか、国はその災いの使者を保護する気らしいとね。」
「それで一部の者が騒ぎ出してな……それに煽られて、民が城に詰めかける騒動になったんだ。」
それを思い出したのが、ダンは苦い顔をした。
アエラはハラハラしながらセリナの様子を窺う。
「何考えてるんだ、王は国を滅ぼす気か!ってね、ずいぶん息巻いて、黒の使者を追い出せとか殺せとかかなり過激なことを言ったらしいよ。」
(私の出現で……城の外ではそんなことが起こっていたんだ。)
何も知らなかった自分にセリナは愕然とした。
(その時、私は城の中でいったい何をしていたんだろう。)
「まぁ、一部の過激派が絡んで煽動したんだろうし普通なら衛兵に鎮圧されて終わり、ってとこだが。ここで直接王が出てきた。」
秘密話でもするようにダンは声のトーンを下げた。
「その場にいた連中はそれだけでも度肝抜かれただろうけど、驚くのはまだ早い。」
もったいぶって一度口を閉ざす。
「なんと、反論もせずに王はあっさり認めたのさ。」
聞いた話と言いながら、まるで見てきたようにダンはしゃべった。








「汝らが黒の使者と呼ぶその者を、"黒の女神"として正式に保護することを決定した。」
重々しくそう告げたのは、王の傍らに控えていた宰相のジェイク=ギルバートだった。
広場に動揺と不安が伝播し、先程まで飛び交っていた言葉が、再び反論として投げつけられる。
「得体の知れない者を城が匿うとは、どういうことですか!」
「そ、そんなことして、国を滅ぼす気か!?」
険しい表情で、宰相は冷静に反駁する。
「王は国の不利益になることを為さらない、ましてや滅ぼす気など微塵もない。今、そなたらはかの者が災いを起こすと言うが、そんな事実はない。」
「よ…予言の書に、そうある! 今までだって何度も当たった!」
「そうだ! 賢者の言葉に!!」
「"黒の女神"! 黒を纏いし者だ! 国がそう認めたのではないのか!?」
王が一歩前へ進む。
城の入り口の上に設けられたバルコニーから、広場の群衆を無言で見下ろした。
ただそれだけで、一気に場は静まりかえる。
「災いの根拠を書に求めるか? しかし、女神と使者が同じ存在であるとの根拠は予言の書にはない。」
静かな、それでいて良く通る声。
「女神と使者。それが同一であると証明できる者はいるか?」
ざわりと民衆が揺れる。
その認識は暗黙の了解のように、当たり前のものとして浸透していた。ただし、その当然の事実を証明するものは何もない。
「かの者を排除して、それで災いが起こらないと証明できる者はいるか? 根拠なき差別で迫害することを是とする者はいるか?」
王の言葉に、反論を口にする者はいなかった。
「女神も使者も天からの使いであることに変わりはない。忘れないで欲しい。我は民のためにある。今回の決定も、それを外れるものではない。」
慈意を含めて言いきった言葉。
王の纏う堂々たる威風に、徐々に群衆に決定への納得感が広がる。
それを確認して言葉を継ぐ。
「良心に厚い民を持てたことを、誇りに思う。」
宰相に促されて、王がその場を去ろうとした刹那。
どこからかわからない場所から、声が飛んだ。
「けれど、何か起きたらどうするんだ! 予言にはちゃんと……!」
王の視線が彼らに戻る頃には、その言葉は途中でかき消えていた。
群衆同士で声の主を捜すように視線が彷徨う。
面と向かって反論する勇気はなかったのか、続きの言葉が投げられることはなかった。
国王は顔色を変えることなく、静かに言葉を紡いだ。
「ならば『問いて応えよ、汝が心に』。」
ある者は息をのみ、ある者は目を見開く。
それは、もっとも決定的な一言であった。








「その一言で、もう反論できる者なんているはずがない。」
「騒いでるのは、結局予言に踊らされてるせいだからね。その予言の書の言葉でそんなふうに返されたら、何が言えるっていうんだい。まぁ、ホントのところビクビクしてるんだが、王を信用するしかないだろう。実際、あれからずいぶん経つが、変わったことはないしねぇ。」
言いながらファファは苦笑した。
「中には、風が吹くのも女神の仕業なんてのもいるから、胡散臭いったらないよ。」
「おれたちよりずっと賢い王が大丈夫というのだから平気なんだろう。」
「そうさ。あの国王様がそう判断したんだ。そうに決まってる。」
ね?とファファに聞かれて、アエラも隣でこくこくと首を縦に振り賛同の意を見せた。
無言で話を聞いていたセリナは、言葉を探して視線を落とした。
かけていることを忘れていた眼鏡が少しだけずれる。
「ずいぶん……。」
発した声に、ファファがにこやかな表情のままセリナを見た。
「ずいぶん信頼されているんですね。いえ、慕われているというか。」
「ん? なんだい? 国王様のことかい?」
「はい。」
「そりゃ、そうだよ。我らの国王だよ? 信用しなくてどうすんだい。」
言ってはははと声を上げた。笑いをおさめたファファは、少し真剣な目を見せた。
「まだ若いけどね。立派な王だよ。」
「戦争の話をしただろう。」
ダンに聞かれて、セリナは頷いた。
「休戦もそうだが、町がここまで復興したのも王の尽力の賜だ。」
「え?」
言われて思わずセリナは辺りを見渡した。
「この町も、戦火をあびてたんですか? 西側だけじゃなくて?」
それは考えてもみなかったことだった。賑やかで栄えていて、町並みにも人々の表情にも戦の影は見えない。
ダンは肩をすくめた。
「……セア、あんたホントにどこから来たんだ。」
「す、すみません。私、本当に世情に疎くて。」
ごまかすように、田舎者であることを強調する。
「首都ももちろん攻撃を受けた。特に西の端から南西部の区域が、壊滅状態だった。」
顔をしかめたダンに、セリナは言葉を失う。
己の無神経さに今更気づく。
「すぐに国王軍が敵を撃破したが、痛手は大きかった。救助作業をしても絶望的だし。町を立て直すのも進まないし、疲労や精神的なストレスから国民同士の小競り合いも頻回だった。町がバラバラになりかけてた時、それを止めてくれたのはあの王だった……いや当時は王子か。」
一度、手綱を振ってから言葉を続ける。
「初めは視察だったんだと思う。崩落区域の片付けに多くの人間が駆り出されていたからな。その作業中に建物が崩壊して、二次被害で何人かが生き埋めになっちまったんだ。」
その当時を思い出しているのか、ダンは遠い目をする。
「その時、本来なら危険だからと一番に守られるべき王子が初めに動いた。救助に自ら乗り出した……直接、現場の瓦礫をのけだしたんだ。また崩れて巻き込まれる危険があるにも関わらずだ、信じられるかい?」
セリナは何も答えることができなかった。
「王族なんて雲の上の人だ。平民と同じ場に立つなんてこと、ありはしない。復興の指揮を執ることはあっても、馬から下りて自ら手を汚すなんてとんでもないことだ。当然周りの騎士は止めてたよ。その場にいたって、おれらは阿呆みたいに突っ立ってることしかできなかったけどな。」
前を向いたまま話をするダンの横で、ファファが少し俯いた。
「危険だと、下がってくださいと言うその騎士たちになんて言ったと思う。」








あの日。
今にも雨が降り出しそうな空の下で。
鮮明に思い出すのは、かの人の後姿。
「口を動かす暇があるなら、埋まった者を助けるために動け!」
突き刺さるような声に、騎士らの動きが一瞬止まる。
振り返ることなく彼は瓦礫を掴む。
「民のために働くことが我々の責務にないのなら、なんのために存在するんだ! 今、目の前の民の命を見捨てるような者にこの先忠誠を誓えるのか!?」
「殿下! しかし、再度崩れたら……!」
「手を離しここを去れと!? 自分のみ優先するような、そんな愚者にきさまらの命を預けるな!!
それは、叫び。
息をのんだのは、ダンだけではなかったはずだ。
彼の心の内を知ることなど到底かなわない。
国王軍を指揮し、戦に赴いていた彼の事情も何1つとして知りようがない。
けれど、その声に心臓を掴まれたような衝撃を受けたのは、ダンだけではなかったはずなのだ。
「動ける者は、手を貸せ!!」
命令とも懇願とも違う。
鋭い声は、それでも固まっていた人間を動かすには十分だった。
振り出した雨粒が彼らの腕に、肩に、顔にポツリと当たって。
「瓦礫をどけろ!」
「中のヤツを引っ張り出すんだ! 急げ!」
弾かれたように、瓦礫に手をかけた。








「埋まってたやつは全員救助された……全員無事ってワケにはいかなかったけど。その後、すぐに建物は全壊。少しでも遅れていたら、助かってなかった。」
「……。」
セリナは無意識に胸を押さえた。
「軽率だと非難することは簡単だ。助けに入ってさらに犠牲者が出た可能性だってある。けど、その行動がなかなかできることじゃないっていうのは事実でもある。その後の復興だって似たようなものだ。あの王がいたから、ここまで早く立ち直ることができた。もっと被害の大きい西方の町々でも状況は同じで、王が直接、現場に出て民に声をかけたり手を貸したりしてたらしい。」
そこでやっとダンは、少しだけ笑った。
「国王陛下があそこまで我々のためにやってくれてるんだ。俺たち国民がそれに応えなくてどうする! 王のためなら働くって人間は、少なくない。」
「ごめんよ、セア。この人、陛下に会ったことがあるのが自慢なんだよ。この話になると止まらなくてね。」
呆れたように、でもどこか嬉しそうにファファが説明する。
セリナは首を振った。
「あぁ、この人が国を動かしていくのなら、この国は大丈夫だと……あの時、思ったんだ。厳しくも優しい、戦略や政治力だけじゃない、優れた人格を持っている。」
ダンはセリナに一度視線を向けた。
「それがこの国の王なんだ。」


―――汝が真に、この国に仇なす者であれば私は容赦しない。


フラッシュバックした台詞に、言葉が詰まった。
一度頷いて、セリナはダンを見た。
「はい。」
荷台の縁を掴んだままだったことに気づいて、ゆっくり手を離した。
(少しだけ……わかった気がする。)








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