25.








目が覚めると、すっかり見慣れてしまった自分の部屋の天蓋つきベッドで寝ていた。
「…………。」
覚醒し切れていない頭で、ぐるぐると考えを巡らせる。
「全部、夢?」
(それにしては、やけにリアルな。)
頭と瞼の重さに眉をひそめる。
ベッドから出て、鏡台を覗き込んで思わず頭を抱えた。
「ひどい顔。」
どうやら恥ずかしげもなく号泣したのは、現実らしい。
ふと見ると枕の横にタオルが落ちていた。
(濡れタオル、まぶた冷やすために?)
どうやって戻って来たのかは知らないが、おおよその見当はついた。リュートに探し回らせた挙げ句、運んでもらったに違いない。
「すっご……めちゃくちゃ迷惑行為。」
冷静になって振り返ると、どう考えても正気の沙汰とは思われない。
『情緒不安定』で許されればいいが、愛想を尽かされても文句は言えないだろう。
(で、あれはいったい誰だったんだろう。)
頭を押さえるが、一向に姿を思い描けなかった。
(お父さんなわけないし、この城の誰かだろうけど。)
今すぐ行って平謝りしたい衝動に駆られる。そしてできるなら、記憶を消し去って欲しい。
同時に、できれば二度と顔を合わせたくない。いきなり泣きつかれて、よく付き合ってくれたものである。
「ありえない。穴があったら入りたい……あぁ、昨日の私を消してしまいたい。」
頭を抱えて、羞恥に沈む。
取り乱すつもりなどなかった。異世界だと言われた時だって、冷静に受け入れたのになぜ今更。とセリナは苦笑する。
(違う、受け入れたつもりになってただけだから……今更だったのかな。)








ぐずぐずとしながらも起きて、着替えたり朝食を摂ったりと動いている内にまぶたの腫れはマシになってきた。
セリナは部屋で1人、マーラドルフから借りた本を広げる。
文字の練習に、挿絵がいっぱいの手引書を読みながらペンを動かす。ちなみに手引書といっても、果物の絵の横に文字が書いてあるような子供向けの辞書もどき絵本である。
載っている単語を書き写しながら、ため息をついた。
ちらりと時計に目をやるが、一向に時間は進まない。
朝に出席しなければならない会議があるので、それが終わり次第伺います、というリュートの伝言を口に乗せたのはアエラだ。
時間も目的もはっきりとしない訪問予告をするのは珍しいことだったが、昨日のことがあるので心配しているのだろうと想像はつく。
リュートに会うのは気まずいが、それでも早く謝りたかった。
(会議って、昨日の……襲撃のことかな。それとも、全然別のことかな。)
ペンを置いて、そわそわと落ち着きなく部屋を歩き回った後で、カップにお茶を淹れる。
一口飲んでから、気分転換に窓を開けてバルコニーに出る。
風になびく髪を押さえて、庭をぼんやりと見下ろした。
(誰、だったんだろう。)
無遠慮に突然泣きついて、さぞ混乱させたに違いない。
それでも突き放すこともなく、落ち着くまで胸を貸してくれていた。
(背中叩いてくれてた気がするし。)
だから朝になって冷静になるまで人違いだと気づかなかった。というのは言い訳だろうか。
両手で頬を包み込んでセリナは、どきどきし始めた心臓を落ち着ける。
(ば、ばか。合わせる顔もないっていうのに、何考えてるの!?)
「セリナ様?」
「はいぃ!?」
急に声をかけられて、返事の声が裏返った。
振り返れば、驚いた顔で立っているリュートがいた。
「すみません、驚かせてしまったようですね。」
「いえ、ごめんなさい私こそ。」
バルコニーから部屋へと戻り、窓を閉める。机の上に広げたままだった本を片付けると、リュートに椅子を勧めるが、それを辞退されてしまい、立ったまま向かい合う。
「その……昨夜のことも、本当にすみませんでした。」
リュートは穏やかに笑って首を振る。
「もう落ち着かれましたか?」
リュートが昨夜部屋に入った時、まず考えたのは侵入者の可能性だったが、部屋の状態もセリナの反応もそうではないことを示していた。
神殿で襲撃を受けた後、努めて冷静であろうとするセリナはやはり不自然で、危惧はあったため恐慌状態だと判断するのは容易かった。取り乱したこと自体は当然だとすら考えているが、それでもセリナの悲鳴を聞いた時には心臓を掴まれたような心地がしたものだ。
そして、拒否するような怯えたような瞳に、不覚にもどう行動すべきかわからなくなった。その一瞬の迷いが尾を引いて、セリナを見失ってしまったわけである。
リュートの問いかけに曖昧な笑顔で頷いてから、セリナは相手を見上げる。
「嫌な夢を見て……それで少し。変な態度をとってしまってごめんなさい。」
それから、と口の中で呟いて続ける。
「リュートに迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい。」
ぺこんと頭を下げて謝意を示す。
それに慌てたのはリュートの方で、頭を上げてくださいとセリナを起こす。
「昨日のこと、ティリアさんも知ってるんですか? あ、えーと、神殿でのことと夜のことと両方なんですけど。」
もし知っているなら、確実に心配して胸を痛めているだろう彼女にも謝らなければならない。
「いえ。神殿での件は伏せられています。昨夜のことも、知っているのは捜索に関わった数人のみです。……余計な心配をかけては、と思って彼女には伝えなかったのですが。」
まずかっただろうか?と、セリナの様子を窺う。
「それならいいの、ありがとう。」
捜索に関わったという言葉に大事なことを思い出して、恐る恐るリュートを見上げた。
「部屋まで運んでくれたのってリュートだよね?」
「……はい。」
一瞬の間があってから、リュートが答えた。
「見つけてくれたのも、よね。あの後、どこかの庭で人に会ったんだけど、あの人誰なのかリュート知ってる?迷惑かけたんだけど、顔覚えてなくて……。」
セリナの質問を受けて、リュートは口元に手をやり小さく唸った。
「実は、見つけたのは私ではないのです。」
「え?」
「同じく捜索にあたっていたアシュリオという騎士がいるんですが、私は彼からセリナ様を見つけたと聞いて迎えに行ったのです。」
「アシュリオさん?」
(じゃぁ、その人が昨日の?)
「ただ、彼の話では部屋で見つけたと言っていたので、庭で、ということでしたら別人かと。」
まるで心を見透かされたかのようなリュートの返しに、内心の動揺を隠しながら、セリナは努めて冷静に問う。
「部屋?」
「西の棟1階のアルテナの間です。迎えに行ったのもその部屋に、ソファでお休みでしたのでセリナ様の自室へ運んだのです。」
『お休み』と言葉を選んで言ってくれたが要するに、寝こけていたわけである。
他人に散々探させておいて、なんということだろう。
(まさか夢だってことはないよね? あの人が庭から部屋に運んでくれたのかな。)
もしかしたらその騎士が何か知っているかもしれない、と淡い期待を抱く。
直接話を聞くことができるかと、リュートに聞こうとしてセリナは動きを止めた。
そこには行動を躊躇わせるだけの何かがあった。
例えば、そのことに首を突っ込んで構わないのだろうかとか。黒の女神たる自分がわがままを言うことで、周囲にどんな迷惑がかかるのだろうとか。目の前の男のひどく微妙な表情とか。
沈黙は時間にして2,3秒。
「お話中、失礼します。」
割って入られた第3者の声に、完全にタイミングを失ってしまった。
視線を向ければ声の主であるアエラ。おどおどとした様子の彼女は、声のトーンを落として続きを口にした。
「お、お客様がいらしてます。」
しゃらりと澄んだ音がして、セリナは顔を向ける。
「シャイラ様……!?」
姿を見せた巫女姫に、目を丸くするセリナの横でリュートが頭を下げた。
「突然の訪問という無礼をお許しください。」
「い、いえ。」
なんとか応じながら、セリナは部屋へ入るよう促した。
足を進めたシャイラは、未だお辞儀をして目を伏せているリュートに視線を止めて、口を開いた。
「貴方はセリナ様の護衛騎士ですね。此度の訪問は非公式なものです。内密にしてもらえると助かります。」
巫女姫の言葉に、リュートがセリナに視線を走らせた。
小さく頷いたセリナを確認してから、再度礼を取る。
「承知いたしました。」




「セリナ様の耳に昨日のことはどこまで届いているのかしら?」
巫女姫から含みをもった質問を投げかけられ、一瞬だけ顔色を変えたリュートだったが、すぐに平静を取り戻す。
「相手がその場で取り押さえられた、ということは。」
目の前で起こった事実だから、セリナも当然知っている。ただ、その後何があったのかまでは知らせていない。
「そう、わかったわ。」
応えて、相手はふっと口元を緩めた。リュートの横をすれ違いざまに、小声でシャイラが呟いた。
「心配せずとも余計なことを告げはしない。」
表情が硬くなっていたのか、心中を悟られリュートは慌てて顔を伏せた。思わず否定の言葉を出しかけたが、セリナがいるためそれを飲み込む。
「昨日の騒ぎの件で、お見舞い申し上げたく参りました。しばしお時間をよろしいでしょうか。」
「はい。シャイラ様、どうぞお掛けになってください。」
昨日の謁見時の経験を踏まえつつセリナが椅子を勧める。
「……。」
その様子を見てから一礼し、さらに佇むアエラを連れて、リュートは静かに部屋を退室した。




騎士と侍女が出て行ったのを、背後で確認しながらシャイラが口を開く。
「まずは、セリナ様がご無事であられたことなによりでございました。」
「はい。」
「聖なる場でかのような凶行に走るとは、恐ろしいことでございますが、1人の怪我人もでなかったことは、まさしく至高天のご加護でしょう。」
腕を動かすと、しゃらりという音が響く。セリナは巫女姫の言葉に曖昧に頷いた。
「それで、その場で取り押さえられた神兵についてですが。あの者の正体について、弁明をよろしいかしら?」
「弁明、ですか?」
心底不思議そうなセリナに、シャイラは苦笑する。
大神殿としての体面や思惑、責任がどうとかいう話だが、弁明したい相手はどうやらそんなことを気にしてもいないらしい。
「こう言ってしまうと責任転嫁のようで……、気を悪くしないで欲しいのだけれど。」
と前置きしてシャイラは話を続ける。
「昨日、セリナ様に刃を向けたのは、神殿の兵士ではありませんでした。」
「え?」
「まだはっきりとした正体がわかってはいないのですが。賊は我々と共に来た神兵の1人を襲って入れ替わり、祭礼に紛れ込んだようです。」
「入れ替わり……。」
「はい。ですから、決して神殿の中にセリナ様に悪意を持つ者がいたということではなく……。」
神妙な顔で頷くシャイラに、セリナは眉をひそめた。
「あの、その襲われたという人は大丈夫なのですか?」
ぴくりと指を震わしたシャイラは、ややあってから、えぇと答えた。
「……気を失ったところを閉じ込められていたようですが、幸いなことにどこにも怪我はなく。ご心配ありがとうございます。」
「それなら良かったです。」
ほっとしたように息を吐いたセリナに、シャイラは口を閉ざした。
「シャイラ様?」
小首を傾げて問うセリナを無言のまま見つめてから、シャイラは口元に手を当てた。
「やはり、大神殿に戻る前に、もう一度お会いして正解でした。」
「?」
予定では、神殿の一行は今日の午後には帰ることになっていた。
実は午前中も王との謁見や帰途の準備などに忙しく余裕はないのだが、その合間に時間を割いてわざわざセリナの元に訪れている。
「謁見の時、差し上げた聖水を覚えていて?」
「はい、祭礼の前に手に……。」
「あれにはシンレンという清き精霊が宿っていました。」
「せ、精霊?」
「貴女を清め、祭礼中も側にいました。邪な気を嫌うシンレンが共にあったことが証明するのは、貴女の清廉さ。」
「……。」
「きっとセリナ様の祈りも天へ届いたはずです。」
「!!」
シャイラの台詞にセリナは目を見開いた。
「それだけでなく、そのコは襲われた貴女を案じて、我が手を抜け出しました。」
「え?」
「セリナ様には、魔力がおありでないので、見たり感じたりはしないかもしれませんが……。確かに昨夜、我が手からセリナ様の元へと飛んだのですよ。」
言われても、セリナはすぐにピンとは来ないようだった。
「祭礼で光は見ましたが、それとは別ですよね?」
問いに頷けば、セリナは全然そんな気配は…と呟いた。
「貴女も急激な環境の変化に戸惑っているのね。自分は災いを運ぶ者じゃないとわたくしに言ったけれど、心の中では運ぶかもしれないと怯えている。」
「そ、れは。」
「襲撃者の悪意は、セリナ様の招いたモノではありません。」
シャイラは真っ直ぐな瞳でセリナを射抜く。
息を詰めたセリナが、肩を震わせた。
「大神殿へ帰る前に、セリナ様にお伝えしておきたかったのです。」
「私に……ですか?」


「貴女の告げた言葉は真。故に、我はセリナ様のためにも祈りを捧げましょう、と。」


「け、けれど、シャイラ様。そんなことをすれば……。」
巫女の立場を心配して口にした言葉は、しかしシャイラによって遮られる。
「セリナ様。昨日も申し上げました通り、わたくしが祈ることを貴女が阻むことはできません。」
「……あ。」
同じ言葉を違う意味を持って告げれば、セリナはそれ以上の反論を封じられてしまう。
椅子から立ち上がったシャイラは、ゆっくりと微笑んでみせる。
こちらを見上げたセリナが、眩しいものでも見るように瞳を細めた。


それは、どこまでも澄んでいて、美しい光を放つ存在。








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