15.








窓を叩き付けるような雨音。セリナはカーテンを閉めた窓を不安そうに眺めた。
「雨、酷いな……嵐みたい。」
一日中降り続いた雨は、夜になってさらに激しさを増していた。
昼間のティリアとのやり取りのせいか、とても穏やかな気分なのだが、悪天候が文字通り気分に水を差す。
ぱらぱらと捲っていた辞書を閉じるとひとつ伸びをした。
「語学の勉強って難しい。」
(会話が支障なく行えるんだから、文字も同じでイイのに。)
辞書の上に頭を載せて、埒もないことを考える。
(いったいどういうシステムなのかしら。)
「かつて世界の言語は1つだった。って、話もあったわよね。なんだったかなぁ。」
体を起こし、頬杖をついて思考を巡らせる。
(そうだ、『創世記』。バベルの塔だ。)
天に届く巨大な塔を建設しようとして神の怒りに触れてしまった人々は、互いに意志の疎通が図れないように1つだった言語を分かたれてしまうという旧約聖書にある神話。
思い出せたところで1人うんうんと頷く。
「…………ん?」
不意に、何かが頭の隅に引っかかり眉をひそめた。
「え、何? ……待って。」
誰もいない部屋で、セリナは独りごちる。思い至った考えに一気に血の気が引いていく。
「『創世記』。」
それは世界のはじまりを標した物語。
もちろんそれは日本の神話ではないが、宗教の異なる日本人でも一度は耳にしたことのある話だ。
(今まで気づかなかったけど。いえ、でもただの偶然かも。)
セリナは以前に読んだいくつかの本から記憶を呼び起こす。
『創世記』のはじまりは、あまりにも有名なアダムとイブの話。バベルの塔とそれからもう1つ有名な話がある。


「ノア。ノアの方舟。」


(神が人々の不信心を嘆いた話。)
古の賢者の名前は"ノア"。それだけなら、ただの偶然だ。
「この世界の名は?」


―――"アーク・ザラ"


聖柩を意味する言葉。
(アークは……方舟だ。)
思わず立ち上がると、ガタンと机にぶつかる。
その反動で机の上から本が落ちるが、セリナはそれに気づく余裕はなかった。青ざめた顔をしたまま、口元を覆った。
「違う。嘘、でしょう。そんなバカなことあるわけない。」
なら、その"ノア"が予言したものはなんだったか。
信仰の薄れた世界で唯一信心深いノアを助けるために、神は彼に告げたはずだ。そして、彼は神に従いその後の厄災を生き抜く。果たして、その厄災とは……。


「洪水。世界を洗い流してしまうほどの大洪水。」


それに気づいた瞬間、耳に外の激しい雨音が届く。
「―――っ!!」
(バカげてる。ここは地球じゃない、あちらの神話がなんの関係を持つというの。)
セリナは必死で考えをうち消す。
根拠などない。ただ少し妙な一致を見つけて、こじつけただけに過ぎないのだと。
たとえ、その予想が当たっていたとしても、何ができるわけでもない。
「寝よう! 明日になれば、きっとまた晴れてるわ。」
自分に言い聞かせるようにして、セリナは寝室へと入る。
ベッドにもぐり込んで布団をかぶる。
雨音は依然強いままで、窓や地面を打っている。
(この雨、止むのかな。)
まんじりともせず、雨の音を聞き続けたセリナ。
ようやく浅いながらも眠りについたのは、かなり夜更けになってからだった。












「何かあったのですか?」
ぼんやりと考え込んでいたセリナを覗き込むようにしてアエラが尋ねた。
今日から専属侍女として働くことになったと、朝起こしに来てくれたのは彼女だった。
はっと意識を取り戻して、セリナは首を振った。
「なんでもないよ。」
「そう、ですか?」
交換したテーブルクロスをたたみながら、アエラもセリナの視線を追って窓の外を見る。
「?」
今朝方止んだ雨の名残で木々に水がのっている。
切れた雲の間から差し込む光で、キラキラと輝いていた。
(杞憂かぁ。)
セリナは思わず自分の頭を押さえた。
(1人で嫌な想像を膨らませて、不安になって何をしてるんだか。)
「今日は勉強の予定もありませんので、1日ご自由にお過ごしいただけます。」
「はい、わかり……わかった。」
アエラが付くに当たって、周りからずいぶん口調を注意されたこともあり、セリナは言い直す。
侍女に畏まった口調で接するなんてあり得ないと。世話になるのだから敬意を示すべきだと思うのだが、セリナが敬語で通せばアエラが怒られるのだと言われてはどうしようもない。
年が近いしアエラ自身が親しみやすい性格なので、口調を崩すことにそれほど抵抗はないが、返される言葉は丁寧なので今までの癖もありついつられてしまう。
アエラに一度笑って見せて、セリナはバルコニーへの窓を開けた。少しひんやりとした風が部屋へ流れ込む。
(雨は止んだ……太陽も出ている。今日は、晴れる。)
バサバサと羽音がして、鳥が空へ飛び立つ。
雨で空気が洗われ澄んだ大気、水が輝きを放つ世界は美しかった。
(だいたい滑稽よ。私がいるから洪水が起きるなんて、なんの因果関係もない。)
ただの言葉の一致に、何を怯えることがあるのだろう。
昨日聞いたばかりのティリアの言葉を思い出して、言い聞かせるように呟いてみた。
「こんな短絡的な考えなんて愚かよ。」








その日のアエラは、とにかく朝から気を張っていた。
志願してやっと叶えられたお役目である。初日から粗相があっては、さすがに目も当てられない。
補佐役として同じくセリナ付くことになった副女官長・イシュラナ=ウォーカ、通称イサラ。大ベテランの彼女からも厳しく釘を刺されている。
(「初日は役に立たなくてもよろしい。ただ、迷惑をかけないように行動なさい」ね。)
情けない話であるが、アエラは肝に銘じるように重々しく頷く。
そのイサラもティリアもいない現状。
起床から朝食の片付けまでは、なんとか大きなミスもなく終えることができた。ついでに、ベッドメイキングとテーブルセットも完了だ。
バルコニーに出たまま物思いに耽るセリナを見て、アエラは表情を曇らせた。
(与えられた仕事は終わったから……多分、本来なら用事がないかを確認して、何もなければこのまま退室すべき。)
セリナの状態が普通なら、そうしただろう。朝起きてからずっとどことなく沈んだようなセリナの様子に、アエラは不安を感じる。
「セリナ様。」
「ん?」
声をかければ振り向いて、穏やかな顔で次の言葉を待ってくれる。
(ごめんなさい、イサラさん。やっぱり、余計なことをしそうです。)
頭の隅を苦い顔したイサラがよぎる。
「もし、時間があるようなら散歩にでも出かけませんか?」
「え?」
呆気にとられたようにアエラを見つめてから、セリナは一度庭に視線を落とす。
「そう、ね。行こうかな。」
セリナが答えて、微笑んだ。
「あ、ならリュートに言わなきゃ。」
言いながらセリナが部屋に戻って来る。
そのまま護衛が控えているだろう廊下へ続く扉へと向かうが、アエラはその背に声をかける。
「セリナ様、今日は……。」
扉のノブを掴んだ状態で、セリナが不思議そうに振り返る。
「今日は?」
「は、はい。今日の警護はエリティス隊長様ではなく、別の方がついています。」
「別の?」
繰り返して相手がしばし逡巡する。
「そう。」
んー、とさらに考える素振りを見せて、ふっとセリナが笑った。
「じゃ、行こうか、アエラ。」
「え?」
「散歩、一緒に行ってくれるんでしょう?」
「はい! もちろんです!」
喜々として頷き、アエラはセリナの後に続く。
扉を開けたそこに控えていたのは、藍色の髪の騎士・ラスティ=ナクシリアだった。








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