5.








リスタン大陸の中南部に位置するフィルゼノンは魔法大国である。
首都・メルフィスをはじめ、各地の都市には目に見えないドーム状の結界が張られ、国の中枢クライスフィル城は、さらにもう一つの結界に護られている。
その城の一室にセリナは座っていた。
医者の見立て通り深刻な怪我を負っていなかったセリナは、右腕の包帯を残しほぼ元の健康体へと回復していた。もちろんこの回復力の早さは自然治癒力だけではなく、ララノの"治療"によるところが大きいのだが、それをまだセリナは知らない。
「むぅー。」
唸りながら目の前の本と睨めっこをする。
この国に来てから7日目のこと、クルスが2人の人間を連れてこの部屋を訪れた。
専門機関の研究員だという彼らとのやり取りによって、会話は支障無く行えるのに、読み書きがさっぱり通じないことが判明した。
その数日後から専属の"教師"が付いて、みっちり勉強させられることになってしまったのである。
それから早4日。
目の前に広げた紙を睨みながら、眉を寄せる。
「どうしました、手が止まってますよ。」と優雅な笑顔で言った教師に「なんでもありません。」と曖昧に笑って答える。
文章構造は日本語と似ているが、アルファベットと同じ全26文字の組み合わせで単語が構成される。そして、数字についてはセリナの知る表記と類似している。
なけなしの知識を総動員して、知っている文字と対照させて基本を押さえるが、完全に一致させることができないのが泣き所である。
日本語のように漢字・ひらがな・カタカナの複雑さがないぶん難易度は低いと信じたい。
(どうやっても、意味不明の記号にしか見えない。)
それでもなんとか、自分の名前を手本なしで筆記できるようにはなったのは、クルスや政務官たちが持ってくる書類にサインをしなければならなかったからだ。
人間必要に迫られるとなんとかこなせるものである。
(書けても読めないけど。)
言うと怒られそうなので、心の中で謝っておく。
「では、しばらく休憩にしましょう。」
その言葉にようやくペンを置いて、セリナはひとつ伸びをした。
(でも、どうして勉強なんてさせるんだろう。)
ふと思い出して息を吐く。
(予言なんて知らないけど、災いをもたらす存在ならどうして近くに置いておくのかしら。)
あの日、首にかけられた両手は脅しなどではなかったはずだ。
彼の顔を見ることもなく過ぎていった日々は、それなりに配慮の行き届いた環境が整っていた。
「セリナ様、どうぞ。」
「ありがとうございます、ティリアさん。」
淹れてくれたお茶を受け取りながら、小さく頭を下げる。
"教師"として勉強も教えてくれる彼女は、どうやらセリナの世話係らしい。2つほど年上でしっかりしており、日常的な世話も焼いてくれずいぶん助かっている。
(美人で博識な上に気も利くし、すごいなぁ。)
推測だが、セリナは彼女を担当にしてくれたのはクルスなのではないかと思っていた。
(メイドっていうよりは、良家の子女って感じ。)
間に立つ世話役がいないと不便なのはセリナだけではないのだろう。
ふと顔を上げると、ティリアと共に勉強を見てくれていたリュートと目が合う。彼はその視線に気づくと柔らかい笑みをセリナに向けた。
「ずいぶん上達されましたね。」
「そう、ですか?」
紙の上に並んだ記号に目をやって、セリナは曖昧に笑った。
「こちらの文字をまったく知らなかったのでしょう? たいしたものです。」
「はぁ。」
誇らしげに、嬉しげに。なんの嫌味でもなく成果を誉められる。嬉しいのは確かなのに、素直に受け止められない。
(まさか、こうなってまで勉強をするなんて。)
学べる環境があるのは、ある意味とても恵まれている。
この世界のことはわからないことばかりなのだから。感謝こそすれ、文句を言う筋合いはない。
(けど、あと半月くらいで卒業だったのに、な。)
高校を卒業することは、父親との約束だった。
このまま約束を果たせないかもしれないと気づいて、肩を落とす。


―――まぁ、まぁ! 芹ちゃん、すごいじゃない! この順位ってクラス? あら、学年で! お祝いしなきゃだわね!
―――芹〜参考書貸してー。そして、この問題教えてよぉう。


同じ学年で、数ヶ月だけ年上の明るい従姉。大らかでのんびりした家庭的なおばさん。優しいけど、お酒には弱いおじさん。理想的な家族がそこにはあった。
(いつだって屈託なくて、受け入れてくれていた人たち。)
ティリアたちと同じで、誇らしげに、嬉しげに誉めてくれる人たちだった。
(突然いなくなって、心配してる? 怒ってるかな。私のことで迷惑かかってないといいけど。)
元の世界で自分がどういう扱いになっているのかはわからない。時間の流れが同じかどうかを確かめる術もない。
どうであれ、元気でいてくれていればいいと切に願う。
「セリナ様?」
物思いに耽る思考を遮ったのは、ティリアの澄んだ声だった。
びくり、と驚いたように顔を上げると心配そうな表情がある。
「どうかされました?」
「あ、いえ。」
セリナは無理矢理に笑顔を作る。
納得した顔はしなかったが、それ以上深く聞くこともなくティリアは話題を変えた。
「そうそう、地図を借りてきたんですよ。休憩の後は、少し気分を変えて地理と歴史についてお話ししますわ。」
「地図?」
繰り返したセリナに、にっこりと笑みを返してティリアは得意げに頷いた。それは、どうやらティリアの勉強指南は読み書きだけに留まらないらしい、と気づいた瞬間であった。








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