4.








「午後からは、少し部屋の中を歩かれてもよろしいぞ。無理はせん程度に、体を少しずつ動かしてみなさい。」
「はい。」
寝てばかりいることに飽きたセリナは、ほっとしたように答えた。
「セリナ様、アーカヴィ様がお見えです。」
開いている寝室の扉の外から、控え目にリュートが告げる。
「往診中であれば待たせていただきますよ。」
そんなクルスの声だけが聞こえ、ドクター・ララノは楽しげに笑って立ち上がる。
「いや、診察はもう終わった。わしの方は退散するとしよう。」
取り次ぎのリュートに答えてから、セリナに目を向ける。
「約束をしておったのだろう?」
「え?」
ララノの問いに、セリナは目を丸くする。
なぜ、それを?と聞こうとして口を開きかけるが、それより早くララノが声を出した。
「顔に書いておるわ。」
「!?」
慌てて両手で顔を押さえる。
そんなセリナを見て、白衣の老人は再び笑った。
笑うとしわだらけになる顔は、優しさに満ちていて思わず肩の力が抜けてしまうほどだ。
「失礼します。」
ドクターと入れ替わりに入って来たのは、クルス1人だけではなくセリナは頬を押さえたまま固まった。
さっき抜けた力が、一瞬で倍になって戻ってきてしまった。
「……。」
何をしてるんだと言いたげに胡乱な目で見下ろしているのは、国王陛下その人だ。
(なんで。)
「昨夜は失礼しました。今日も、調子が良さそうで安心しましたよ。」
「こちらこそ、失礼しました。」
今では都合が悪いのか、と尋ねたのは、考えてみればはしたないことだったに違いない。
意識を無理矢理『陛下』からクルスに向けて、小さく頭を下げついでにさり気なく両手も下ろす。
ララノを見送ったリュートが先程と同じように隣室に控えたのを認識したのも、強引に避けた視界の中の出来事である。
「いえ、失礼などとそのようなことは決して。」
困ったように笑みを浮かべてから、クルスは咳払いをした。
「早速ですが本題に。」
クルスが話し出したのは、事務的なことだった。
城で保護することが承認されたこと、そのために必要な書類の作成に協力すること、護衛としてリュートが付くこと。
騎士だったんだ、とセリナが小さく呟くとクルスに怪訝な表情が浮かんだ。
(やっぱりドクターの助手ってワケじゃなかったのか。)
「それから、これは急ぎませんが貴女のいた世界についても聞かせてください。」
「異世界から来たと、信じてくれるんですか。」
「えぇ。『保護』もそういう存在だからこそ、の承認です。」
語るクルスが内心、複雑な思いを抱いていることなど知る由もないセリナは、保護という言葉にほっとした。




「『世界樹の外より至る黒き使い、其は国に災厄を運びし者。』」




「っ!」
息をのんだのはセリナではなくクルスだった。
「我が国に伝わる"賢者ノア"の予言だ。この世界の外から迷い込んできた黒を纏う者。」
再び言われて今度はセリナが息をのんだ。
(黒をまとう……。)
制服も靴も靴下も黒だったことを思い出し、条件が一致するのだということに思考が停止した。
陛下がベッドの端に腰をかけ、セリナを見据えた。
「シノミヤ・セリナ。君は凶星か?」
問われたことに返事ができなかったのは、内容が理解できなかったからではない。
「……。」
みじろぎしたせいで傷が痛むが、それよりも心に走った痛みの方が鋭い。
現実離れした境遇に置かれて、己の存在が"災厄を運ぶ者"だと言われる。
それに対する答えなど持ち合わせているはずがない。
違う、と。
その否定の言葉すら返せなかったのは、今までの自分が厄介者であったからだ。
(災厄、凶星……私はここでも厄介者?)
「沈黙は肯定の意か?」
無常に響く声は、確認の色。
「わ、私は……。」
合わせた視線も見つめられるのに耐えかねて逸らし、紡ごうとした言葉も途中で消えてしまう。
視界の端でジオが動くのがわかる。体がセリナに近づき、その手が伸びる。




…ぐっ!!




突然の衝撃にセリナは目を見開く。背中に感じるのはベッドの背もたれ、首に掛かっているのは目の前の男の手。
(殺、される……ッ!)
無意識に止めようと動いた自分の両手が男の腕を掴んでいるが、なんの意味もなさない。
「ジオラルド様!」
クルスが驚愕の声を上げる。
首に掛かっている手に力が込められた。
「ジオ!」
叫ぶように、クルスが声を出す。
セリナは掴んだ男の両腕を霞む目に映しながらも、それ以上抵抗することはできなかった。
「……ッ。」
苦悶の表情を浮かべたセリナの口から詰まったような音がもれる。
白濁した意識の中では目の前にいる男の表情すらわからない。
ジオが手を離した途端、セリナは激しくせき込んでシーツに身を沈ませた。
「げほっげほっ……っあ…はぁ…。」
「シノミヤ・セリナ。」
涙目のまま視線だけで相手を見上げると、射抜くような瞳があった。


「汝が真に、この国に仇なす者であれば私は容赦しない。覚えておけ。」


それは宣言。威を纏う者が放つ抗えない類の言霊。
制止の声を上げたクルスも、事態に驚いて部屋に飛び込んだリュートも、そのまま動きを止めていた。
「私が伝えに来たのはそれだけだ。クルセイト、政務に戻る。」
「へ、陛下!」
何もなかったかのようにジオは立ち上がると部屋を後にした。
「セリナ様。」
気遣わしげにかけられたリュートの声は、それ以上音を紡がない。
それへの返答もされることはなかった。
















「ジオラルド様! 何を考えているのですか!」
部屋へ戻った途端、珍しく声を荒げるクルスに、ジオは見向きもせず応じる。
「あれが事実だ。黙っておくより、本人に伝えておいた方が公正だろう。」
「だからといって! 女性の首に手をかけるなど!」
「絞め殺すつもりはない。」
「当たり前です!!」
ジオにそんな真似をさせるわけがない。
なんのための保護ですか、と語気強く告げる。
予想もしないジオの行動に、思わず王の名を呼び捨てにしてしまったのは失態だ。
幼少の頃から付き合いがある間柄で昔はそんな呼び方もしていた。主従をわきまえてからはそれも当然に控えたのだが、思わず口に出る程クルスも驚いたのだ。
「なぜあのような…っ。」
前に回り込んだクルスは、ジオの様子に眉をひそめた。
「陛下?」
声をかけても前に立つクルスに視線は向かない。
握った拳を無表情に見下ろしたままだ。
「抵抗しなかった。」
「? セリナ嬢のことですか?」
いくらか冷静さを取り戻して、クルスは記憶を辿る。
「ジオラルド様の腕を掴んで、抗っていたのでは?」
「抗う? あれは反射的にこの腕に手をかけただけだ。振り払うつもりならば、もっと強い力で掴む。命の危機を感じて、逃れようとすればもっと激しく抵抗する。それこそ傷や痣が残るくらいに。」
「それは。」
「それを許さないほど、強い力を込めたわけではない。」
ジオは握った手に更に力を込めて、ギリと奥歯を噛んだ。
「初めから諦めているのか。」
冷たい声音。
その声と内容にクルスは言葉を失い、ただジオを見つめるしかできなかった。
















初めに見えたのは赤色。
その次に景色は暗闇に変わり、そして明るさを取り戻す。
周囲を見ればそこは『青い空』。
(落ちる!)
恐怖に息苦しさを感じて、全身が強張る。
「―――――ッ!!!!」
びくりと体を揺らすと一気にセリナの意識は覚醒した。
ドクドクと早鐘を打つ心臓に肩で息をする。暗い部屋にセリナは慌てて身を起こした。
「痛……!」
腕に痛みが走り反射的にその場所を押さえると、驚くほど体が冷えていた。
(ここは、どこ……!)
ズキズキと疼く傷の痛みが増していく。
何かに追われているような切迫した思いに捕らわれて、セリナはベッドを抜け出すと扉へと走った。逃げなくては、と頭のどこかで考える。
扉に手をかけたところで、痛みに次の行動を制限された。
そこで再度、部屋に目を向けて逃げなくてもいいのだということに思い至る。
「ぁ。」
ふっと力が抜けた。
目覚めてから痛みが酷くなる一方の右腕に、セリナは顔を歪める。
「ドクターの処方してくれた痛み止めが。」
サイドボードの上に置かれた粉薬を水で流し込む。
冷え切った体にさっきまで寝台の上でくるまっていたシーツを巻き付けて、痛む腕ごと抱え込むようにベッドの横にうずくまる。そうして強く目を閉じ、薬が効くまでじっと耐える。
「大丈夫。」
言い聞かせるように一度呟いた。
自分の置かれている立場さえまだわからない。見知らぬ世界は決して優しいだけではないが、それでもまだ先程の強迫観念を抱くほどには追いつめられてはいない。
(何から逃げようとしてた?)
ふと単純な疑問が浮かぶが、訪れた睡魔に逆らえず身を任せた。
















数日後。
ララノの許可を受けて、セリナは初めて部屋の外へと出ることができた。
「ぅわ。」
騎士だというリュートに案内され足を運んだ庭は手入れが行き届いていて、思わず感嘆の声が漏れる。
流れる水が飛沫を上げてキラキラと光っていた。
小道に沿って歩き、花壇の前で立ち止まり眺めた後、再び歩き出す。木から飛び立った鳥に驚いて上を見れば、青い空に白い雲が浮かぶ。
散歩を楽しんでいるセリナに付き従いながら、リュートは周囲にも目を配っていた。
セリナが連れて来てもらったこの庭の一角は、一時的に他の者が入らないように規制がかかっているらしい。
そのため彼ら以外に人影は見えないが、だからといって警戒を怠るわけにはいかないのだろう。
庭に視線を戻したセリナは、少し首を傾げる。
「たくさんの花が咲いているんですね。」
「えぇ、まだまだこれからも様々な花が咲き誇ります。」
不思議がるセリナに、リュートが笑みを浮かべて先を続ける。
「珍しい花でもありましたか?」
「え? あ、いえ。」
リュートの問いに反応してから、セリナはぼんやりと辺りを見やる。
「……世界って。」
「はい?」
「こんなにたくさんの色に溢れてましたっけ。」
明るい日差しの中で、久しぶりに見た『外』はあまりにも色鮮やかだった。長い間、そんな単純なことさえ忘れていた気がして、セリナは色彩に戸惑う。
ぼうっと景色を眺めるが、その焦点はどこにも合っていない。
呟いた言葉に、リュートが自分を凝視したことも気づいてはいなかった。
「セリナ様。」
一歩踏み出したリュートに名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
「あ、ごめんなさい。なんか変なこと言ったかも!? 久しぶりに外の空気を吸ったから、ちょっと思考回路ずれ気味なのかもしれません。」
取り繕うように笑顔を見せて、わたわたと両手を振った。
そんな姿にリュートは表情を引き締めると、セリナの目を見つめてくる。
「大丈夫ですか、セリナ様。無理をしているのでは?」
きょとんとした顔をして、セリナは再度笑って見せた。
「平気ですよ。だから、もう少しだけ庭歩いてもいいですか?」
ねだるようにリュートに告げて、答えを待つ。
相手は散歩を切り上げるために言ったわけではないのだろうが、少し不安になったのだ。
リュートの方も、どうやら誤解を与えたらしいと気がついたらしく、それ以上は追求せず微笑んだ。
「えぇ、もちろん。」
















「……。」
部屋の扉を閉めて思わず息を吐く。
「おや、エリティス殿。」
「ドクター。」
声をかけられてリュートは頭を下げた。
「今日は"女神殿"の希望で庭に散歩に出たのではなかったのかい? もう戻られたのか。」
ララノはからかうように小さく笑う。
「行きましたよ。久しぶりに歩き回ったのでお疲れになって、今帰ってきたところです。」
「ほう、何やらエリティス殿もお疲れのように見えるが?」
「そんなことは!」
慌てて否定を口にするが、途中で口を閉じて視線を落とした。
「しばらく外の空気を吸っていなかったから嬉しいと言われました。たくさんの花が咲いていて綺麗だと。」
「そうか、いい気分転換になったようじゃの。」
「礼を言われました。」


―――本当に"黒の女神"なのでしょうか。


もう少しでそう問いかけそうになって、リュートは唇を引き結んだ。
もちろん、と散歩の許可を口にしたリュートに、安堵の色を浮かべて少女はまた歩き出した。
始終穏やかな様子を見せる、その背中を見ながら、リュートは気遣わしげな表情を浮かべざるを得なかった。
(平気なはずがない、のに。)
ベッドの横で床にうずくまり眠っていたのはつい先日のこと。
空いていた薬の包装。自分を抱くようにシーツにくるまっていた少女の頬に一筋の涙の跡があったことは、おそらくリュートだけが知っていた。
ふぅ、と小さく息をついてララノが口を開く。
「"黒の女神"、何者かの。」
それに返す言葉を見つけられずリュートは沈黙を守る。
「今は中立、けれどどちらに転んでも情勢は動く。やっと休戦したと思ったのに、世界は休むことを嫌うらしい。」
「ドクター。」
「かの者はどう動くと思う? エリティス殿。」
低い声に問われて、リュートは躊躇いがちに開こうとした口を逡巡して閉じた。
「考え得る可能性はいくつでもあるが、埒もないことよの。未来を見通す力はないし、神の正体など、及びもつかぬものじゃ。」
表情を和らげて、ララノは先を続ける。
「この先どうなるかはわからぬが、今わしがすべきなのは彼女の治療だ。そして、エリティス殿は彼女の『護衛』を王より任された身。擁護し守り動くは当然のこと。そうではないのかね?」
「仰るとおりです。」
「敷かれた道と思う道が沿っているなら、何を悩むことがある。」
あっさりと言い切ってララノは、リュートの肩を叩いた。
「歓迎されぬ者。想像との差、国を守る騎士としての責。隊長の複雑な心境も理解できるが、人の直感というのもなかなか馬鹿にはできぬものじゃよ。」
見透かされたかのような言葉に、リュートは短く笑う。
「簡単に言ってくれますね。」
「隊長殿は難しく考えすぎじゃ。」
そう言って医者は、にかっと笑った。
軽い返しにリュートは呆れたように肩をすくめて見せたが、思わず頬は緩んでいた。








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