<T.はじまりの時>





1.








何が起きたのかはよく覚えていない。


気がついた時には、真っ暗な中にいた。


風に翻る髪とスカートの裾で自分が頭から落ちていることをぼんやりと理解する。
けれど、状況がわからないせいで恐怖より疑問符が浮かぶ方が先だった。
ふっ、と景色が急に変わり光に包まれる。
思わず目を閉じ再び開いた後、視界に映ったのは黒ではなく一面の青。
そして薄く掛かる白。
"空だ"と認識したのは一瞬遅れてだった。
経験と目に映り流れる景色に、その高さとスピードを知り青ざめる。
死を感じ、その恐怖に声を上げようとした瞬間、ザワリとした感覚に包まれた。
厚い膜を押し広げるように何かを通り抜けるが、その抵抗感に関わらずスピードは落ちない。
「!?」
急に右腕に走った痛みに目を見開く。
見れば、鋭い物で一線斬りつけられたかのような傷ができていた。
さらに次の瞬間、小さな刃で切り裂かれるような痛みがその身を苛んだ。
止まる術を持たない少女は、ただ全身に感じる苦痛を耐えるしかない。


「―――!!!」


確実に近づく大地をその目の端に捉えて、彼女は意識を手放した。




















フィルゼノン王国の首都メルフィス。
国を統治する玉座を持つクライスフィル城はその中心やや北側に位置する。
その日は穏やかな午後だった。
暖かくなり始めた気候に促されて、草花たちがその芽を息吹かせる頃。
城内の豪華絢爛にしつらえられた一室では、開いた窓から心地いい風が流れ込んでいた。
そこは、この城の主たる者が住まう部屋のひとつである。
ソファに腰掛けた男が、片肘をついた上に渋面を乗せると、その動きで金色の髪が肩を流れた。
「ジオラルド様。昨日言っていた資料、ここへ置いておきます。」
名を呼ばれ、手元の書類から顔を上げる。
「宰相殿が嘆いていましたよ。少しも書類が減らないと。」
持ってきた資料を置いた後で、机上の書類整理を始めた青年が告げる。
「あれは口癖みたいなものだからな。」
冴えた青の輝きを持つ瞳を面白げに細めて、ジオはサラリと返す。
「何、宰相たるジェイクが優秀だから任せているだけだ。」
眼鏡をかけた銀青色の髪の青年が思わずというように苦笑を浮かべる。
話題の主は今この部屋に不在だが、本人が聞いたら間違いなく盛大に眉を寄せるに違いない。
「そこの一山も優秀なジェイクの元へ届けておいてくれ。クルス。」
悪びれもせずジオは、腹心の部下・クルセイト=アーカヴィに伝える。
示したのは決裁済みの書類の山だ。
「まぁ、宰相殿もまんざらでもないご様子なので、良いのですけどね。」
示された書類の束を確認して、クルスはそんなことを言う。
仕える主から任される仕事の量は、信頼の深さに比例する。
そう考えれば、宰相も文句を口にしつつ、悪い気はしていないのだろう。

この国は10年の長きに渡り、隣国アジャートと戦が絶えなかった。
玉座についたこの若き王がアジャートとの休戦条約を締結したのが5年前。
それからは敵の侵攻を許しておらず、国内の混乱も収束に向かい、戦火を受けた地も復興が進んだ。
それらは現王の手腕によるものだ。
その賢王ぶりを天賦の才と片付けるには、クルスは間近でジオを知りすぎている。
敬虔な畏怖に似た感情を抱きながらも、裏腹に軽口を利く。
「ただ宰相殿もそろそろ血圧が心配で。」
「あぁ、あれはすぐに怒るから…。」
会話の途中で言葉は切れた。
示し合わせたかのように互いの動きが止まる。
僅かな沈黙ののち、2人は開いた窓からバルコニーへと飛び出た。
視線の先には、一部が不自然に歪んだ空。
そしてそこから吐き出されるように現れたのは黒い人影。
「あれは……。」
「侵入者? けれど、この結界の揺れは。」
ジオと同じ景色を見つめながら、クルスは曖昧に言葉を途切れさせた。
彼らは共に結界を張った当事者であり、それを無理に通る者がいればその気配を感じることができる。特に術者であるクルスは敏感だ。
「北側に落ちる、っ! 敷地内か!?」
地上に真っ逆さまに落ちてくる黒い影から目を逸らさないまま、ジオが声を出す。
その人影が木々に隠れてしまう直前、突然強い風が巻き起こった。
「なっ!?」
ジオラルド様!!
切り裂くような強風に襲われ、咄嗟にクルスがジオを庇う。
木々が傾ぎ、びりびりと城中の窓が揺れ、あちこちで悲鳴が上がる。
唸り声を上げながら風は遠くへと去って行った。
「今の風はいったい……。」
驚愕を声に滲ませながら、クルスは伏せていた身を起こす。
「ジオラルド様、お怪我はございませんか?」
立ち上がった主君に声をかけるが反応がなく、クルスは首を傾げる。
「ジオラルド様?」
「あ、あぁ。平気だ。」
どこか余裕のない表情を浮かべていたジオだが、すっと顔を引き締めるとクルスに向き直る。
「神殿の方向だ。すぐに飛べるか、クルス。」
「は!」
ジオの声に応じて、クルスは転移するための魔法陣を展開した。


次の瞬間、2人が立っていたのはバルコニーではなく、城の北側庭園にある神殿だった。


そこで視界に飛び込んできたのは、祭壇の前に倒れている黒い人影。
「あれが、先程の侵入者のようですね。」
クルスの呟きに、ジオは眉をひそめたまま祭壇へ足を向ける。
「ジオラルド様、危険ですから兵士が来るまでお待ちを!」
「相手は意識を失っている。」
クルスの制止を一蹴するが、見えた人影に足を止めた。
「クルセイト様!」
小道の向こうから聞き慣れた騎士の声が響いた。
「エリティス隊長、さすが迅速ですね。」
クルスに声をかけられ、呼ばれた男は敬礼を返す。
その後ろで、彼の部下たち2人も同じように礼を取る。
「ちょうど訓練で外にいたもので。」
上空からの侵入者を目撃し、慌てて駆けつけたということらしい。
「陛下たちが此処にいらっしゃるということは、やはり先程の侵入者はこの辺りに落ちたのですね。結界を越えたように見えましたが。」
「対象者はあそこに。」
クルスに示され、隊長は動きを止めた。
まさか神殿の祭壇前に落ちたとは想像もしていなかったのだろう。
「リュート、ついて来い。」
「は!!」
すぐに反応したリュート=エリティスは部下にも合図を送ると、急いで王の後を追った。




僅かな距離を詰めて祭壇の側へと寄ったジオ。
彼は膝を折り、倒れている人物に手を伸ばしかけて、その手を止めた。
後に続くリュートも、相手に近づく最後の距離、その一歩を躊躇い立ち止まった。
緑の景色の中、白い神殿の前に落とされた色に警戒が走る。
「これは。」
途中で言葉を失ったリュートの横で、彼の部下が呆然と呟いた。
「酷い怪我ですね。」
ぐったりとした様子の相手が意識を失っていることは明白だったが、かろうじて息をしていることは確認できた。
全身からの出血にリュートは眉をひそめる。さらに言えば、あの高さから落下して生きていることに対しての反応でもある。
「特に腕の傷は深いな。」
目を眇めてジオが呟く。
「エリティス隊長、我々は……。」
侵入者をどうするべきか。今の状況では通常保護が優先されるが、不安げに部下の1人は指示を仰いだ。
目の前に倒れる人物の姿故に。その傷を差し引いてもあまりに見慣れぬ容貌故に。
問うた部下の心中を察したが、敢えて何も言わずジオへと視線を向けた。
すべての決定権は彼が持っている。
その視線に気づいてジオはゆっくりと口を開いた。
「クルス、すぐに部屋を用意しろ。ララノを呼んで手当てを。リュートらは騒ぎ立てぬようにこの者を運んでくれ。」
はっ!と敬礼をして、騎士たちは労るように意識のない人物を抱き上げる。


「クルス。」


ジオは、指示を受け動きだそうとしていた相手を呼び止め、空を指さした。
「結界に異常は。」
「ありません。結界は揺れただけで、破られたわけではありません。魔法の気配もありませんし、ただそこに落ちてきて結界を……通り抜けた。」
「結界は正常。」
確認するように口にして、ジオは視線を前方へ戻す。
「ならば、この異常事態の原因はあちらだな?」
「それは……えぇ、おそらくそういうことでしょう。けれど、悪意も敵意も感じません。故意ですらない。」
眉間の皺を深くしてジオは、目を細めた。
「結界を越えて落ちて来た、か。何者かわからないのか。」
クルスは逡巡した後、口を開いた。
「わかりかねます。」
「お前ですら、か?」
「申し訳ありません。」
それはすなわち肯定の言葉。
「では少なくとも、ハイネスブルグの手の者というわけではなさそうだな。」
ジオは不敵な笑みを浮かべる。
口にしたのは敵国の者の名。
(アジャートからの客ではない。魔法の気配はないが、それでいて空から落ちてくるとは。何にしてもただ者ではない。)
ばらばらと足音が聞こえ、俄に騒がしくなる。
顔を上げれば、紺色の制服を着た兵士たちの姿があった。
「兵士たちがようやく来たようですね。」
辺りから、探せだの侵入者だのという単語が聞こえてくる。
部下に指示を終えたリュートが、ジオたちの元へ近寄った。
「彼らも目撃者のようです、現場の保存を頼んでおきます。ジオラルド様方は先にお戻り下さい。」
リュートの言葉に頷いたジオを見てから、クルスが口を開いた。
「では、ここはお願いします。」
その場をリュートに任せ、ジオたちは城へと足を向けた。




















クルスがジオの執務室に戻るのと、現場の指揮を終えたリュートがその部屋を訪れたのとはほぼ同時だった。
「発見した者以外に侵入したものがあった形跡は見つかりませんでした。侵入者は1名、先程の女性、いえ少女と言うべきですかね。彼女のみで間違いないようです。」
意外だった、ということを隠しもせずクルスが報告する。
「目立つ登場だが、揺動ではないということか。リュートはあの侵入者をどう思う?」
ソファに深く腰をかけたジオは足を組む。
部屋の入り口で控えるように立っていたリュートは告げるべき言葉に詰まり、困惑を浮かべる。
「いえ、私では判断がつきません。」
「隊長の見解を聞きたい、話せ。」
リュートのどこか退いたような態度にジオは命令を出す。
「……。」
それに拝礼してからリュートは口を開いた。
「では、申し上げます。陛下。私見ですが、あの者はこの国の者ではないと……いえ。」
「かまわん、言え。」
躊躇ったリュートを後押しするようにジオは告げる。
「この世界の人間ではないかもしれないと。」
放たれた言葉にジオは面白そうに口角を上げ、クルスは僅かに目を見開いた。
「何もない天空に突如現れ、結界を通り抜け、あの高さからの落下にも関わらず一命を取り留めました。全身黒色の見慣れぬ衣服を纏い、何よりあの。」
2人の視線に促されリュートは先を続ける。
「漆黒の髪……あれではまるで"黒の女神"のようです。」
「ほぉ。」
場にそぐわぬ楽しげな声を漏らしたのはジオだ。
「"黒の女神"とは物騒な。"国に災厄を運ぶ者"ではないか。」
「も、申し訳……っ。」
リュートは慌てて謝るが、しかしジオは意に介さない。
「もしそうなら扱いは困難を極めるな。確かに、あの者が持つ色は希有。目にして、そう感じるのはリュートだけではないだろう。」
それは古に書かれた書物の言葉による。
周りの景色とのコントラストに警戒心を持ったのは、この場にいる誰しもが同じだ。
新緑の背景に白い神殿の柱が縁取り、黒い服に身を包んだ少女の広がる髪も黒。さらに血の赤が加わる光景は凄絶であり、それでいてどこか立ち入りがたい静謐さがあった。
(思いがけず、触れることを躊躇った。)
足を組み直してジオはリュートに目を向ける。
「ちなみにその者に翼はあったか?」
「いえ。一見した限りでは翼は見受けられませんでした。姿は人に変わりなく。」
「ま、翼持つ者なら空から落下はしないか。」
本気ではない問いに真面目に応じた隊長へ苦笑いつつ、何かを考えるようにジオは一度口を閉ざす。
その時、部屋の扉が開き、白衣の老人が姿を見せた。
「ドクター・ララノ。容態は?」
クルスの問いかけに、医者はふむ、と一度頷いた。
「傷は多いが命に別状はない。骨に異常もなし。脈もしっかりしておるし、呼吸も正常。なんとも奇跡的なことじゃ。じきに意識も戻りましょう。」
「意識が戻ればすぐに知らせろ。聞きたいことがある。」
「承知。」
清々しいほどきっぱりと返事をした後で、老人は同じ調子で言葉を継ぐ。
「して、空から降ってわいたとの話は本当かの?」
頷くクルスを確認して、ララノは表情を引き締めた。
「あの風は、やはり彼女と関係があるのじゃろう?」
「風か。」
呟いてジオは目を伏せた。
「ジオラルド様?」
そう言えば。とクルスはあの時もジオの様子が少しおかしかったことを思い出す。
「あの風が、落下の速度をおとし衝撃を弱めた。」
「!?」
「木々で姿が見えなくなる直前だったが、そう見えた。」
ジオの台詞に、クルスとリュートは言葉を失う。
対照的にララノは落ち着いて頷きを見せる。
「それならば、命を落とさなかったことも一応説明は付くのぉ。あのような突風を"神の吹かせる風"と呼ぶことがある。」
僅かに眉をひそめたジオに、追い打ちのように言葉を継ぐ。
「しかも神殿に舞い降りるとは。」
ララノが何を言いたいのかを察して、リュートは再び困惑混じりの複雑な心境になる。
「それが、ララノの見解か?」
ジオが静かな声で問い、ララノは喜色の表れた声で応じた。
「いかにも。この老いぼれ、生きてるうちに女神に会うとは思わなんだの。」
「では、やはり髪だけでなく?」
ララノの言葉を受けてクルスが口を開く。
治療にあたりそれを見ているララノは、クルスの聞きたいことに気づいて頷く。
「髪も瞳も同じ色じゃ。詳しい者に確かめさせると良いが、おそらく本物だろうて。」
ソファの肘掛けに片肘を付いていたジオは、無表情なまま口元を押さえた。
「ララノ。」
「うむ?」
「回復するまで引き続き治療にあたるように。エリティス隊長、貴殿にはかの者の監視役を命じる。」
「承知いたしました。」
「クルスは、ジェイクに子細を伝えろ。あれも既に情報は集めているだろうが…即時に箝口令を敷き民の動揺を抑え、各諸侯にも伝令を出せ、と。余計な噂が広まることだけは避けよ。」
「は!」
それぞれの任を持って、部屋を後にする臣下を見やってから、ジオは再びソファに座り直す。
(災厄の種。)
目にそれとは映らないけれど、メルフィスの都全体にはドーム状の結界が張り巡らされている。さらに城の周りにもう一円。
外敵の侵入を防ぐ結界だ。
(天空から落ち、2つの結界を通り抜けて生きているとは。)
「あっさり王都に侵入し、国を滅ぼすなどと……アジャートの連中より厄介だな。」
書類の山を胡乱げに眺めてジオは視線を窓の外へと向けた。


「"黒の女神"か。」


部屋の外で吹いた風が、ざわざわと不安げに木々を揺らす。




アキュリス暦1783年4月。
こうして、世界はその幕を開けた。








BACK≪ ≫NEXT